(3)
バスルームを出ようとした瞬間、バスタブの水が澄みすぎていることにトルクは気づいた。
バスタブの水は並々と張られたままになっている。
おそらくアーノルドがこの部屋で行方不明になってから数ヵ月、誰もバスタブに触れていないはず。
浴室の埃のたまり具合が色々なことを教えてくれていた。
電気を点けて水面すれすれの角度から見ると水以外の反射が見える。
それはごく僅か。
言ってみれば分子レベルの不純物。溶け出さず、そこにいてそこに見えない。次元を違えるような存在。
光を当てると僅かだがその存在を確認できる。だがそれも水に完全には同化できていないが故。
「何かあるの?」
サルナがドアから顔を出し、背後に立つ。
サルナにはその違和感が感じ取れずにいた。
水面すれすれまで、いや、トルクの頬は既に水に付いていた。身をかがめ、バスタブに手を添え、身を屈めて。
身を屈めながらトルクが呻くように言った。
「まだここにいる。恐らく」
科学者アーノルドがチャネルローズの内務省から身の危険が迫っていること、チャネルローズに戻って来いという連絡を受けたのは2年も前のことだった。
アーノルド自身、身を守る術をまったく考えていなかったわけではなかった。夜道は指定タクシーを使い、訪問者が来ても玄関から外に出ることは全くなかった。
テレビの横には警備会社に通じていたであろう非常通報装置まで備えている。
ただ2年も経ってしまうと身に危険が迫っていることも、内務省から連絡を受けた事すらも忘れてしまっていた。
まだ若く20代の科学者アーノルドは多くの論文をコミュニティに発表していた。コミュニティのニューブレインで通っていた。
ダウンタウンで生活し、時たま会合に出席した。
アーノルドにとってチャネルローズへ出かけることは苦痛でしかなかった。
無機質な物体に囲まれ、砂漠のような暑さと風化した合成樹脂の粉っぽさがなんとも言えなかった。
出きるなら都会とのしがらみを全て断ち切り、緑に囲まれ澄んだ空気のダウンタウンで一生を過ごしたいと考えていた。




