移動中
私鉄・近鉄奈良駅の中央改札は吐き出され、そして吸い込まれていく人の流れで絶えず脈動していた。古都の玄関口に相応しく、外国人観光客、修学旅行生、地元の学生、そしてビジネスマンの群れが、様々な言葉の行き交う雑踏と車輪の音を響かせている。
頭上の行き先を示す電光掲示板には、「京都」「大阪難波」「神戸三宮」といった馴染み深い地名が並び、ここが西日本の交通の要衝であることを示していた。
……そこで人の波に逆らうように、構内の土産物屋の前で足を止めている娘が一人。
黒髪ポニーテイルに和装束風カジュアルを自然に着熟す娘。守薙縁である。
彼女の視線は、色鮮やかな「柿の葉寿司」の食品サンプルと、「大仏プリン」のポスターとの間を、名残惜しそうに行き来していた。
「おまたせしました」
「ありがとう、えーと、こっちのプリンも――っとっと」
不意に土産物を受け取った逆の腕を無言のまま引かれる。
見るまでもなく、連れのレームであった。
群青のウシャンカ帽子に古めかしいカーキ色のミリタリ・コートに身を包む、見かけたらつい目を放し難くなる美幼女。
彼女は縁の食い意地など意にも介さず注意深く雑踏を警戒している。紅の瞳が怪異を、翠の瞳が過ぎ行く人々と歩み行く経路を模索するかのように忙しなく動いていた。
「あー、もうちょっと……」
「行くぞ。乗り遅れる」
レームに引きずられるようにして、縁は京都・東京方面へと向かう近鉄特急のプラットホームへと向かう。階段を上りきった先、ホームは既に乗車を待つ人々でごった返していた。
二人は少しばかり混雑した人並みを擦り抜け乗り込み口まで辿り着き、しばし。やがてアナウンスと共に風を伴い特急電車が滑り込んできた。ゆっくりと制動がかかった後、停止した車両の扉が空気の抜ける音と共に開いたそこに乗り込んだ。
車両の通路を進み、予約席である窓際座席を見つける。縁が座席上の荷物棚に手にした鞄やらをぽいぽい放り込んだら、いそいそと通路側の席に腰を下ろす。
レームが寄ってくると、その小柄な身体をひょいと抱えて己の上を乗り越え窓際に置いて、座らせた。
一仕事終えたら早速先ほど土産物屋で手に入れたばかりであろう、古都の絵柄が描かれた包装紙の駅弁を手提げ袋から取り出して、瞳をキラキラさせつつ早速テーブルの上に広げ始める。
「柿の葉寿司~」
「もう喰うのか」
「あたしってばサバサバしてるからアジを知りたくてサケびそうになるのですぐタイらげちゃうのよね~」
「まあいいけど……その駄洒落、上手くないぞ」
「お寿司は美味いよ!」
「……よかったな」
レームは腰を下ろした席の座り心地を確かめてからタブレット端末を取り出し、路線図を画面に表示させる。その指先が、奈良から京都へ、そして京都から東へと伸びる一本の太い線をなぞっていく。
旅の経路図と同時に、有事の際に途中下車できるポイントを示す地図でもあり、その“有事”発生源をある程度絞り込めるマーカーにもなっている。
「今のところ現象変動値に大きな動きはない。このまま東京まで着くかもしれないな」
「えー」
「なんだ、えーって」
「御当地グルメが楽しみなのにぃ。なんか怪異を探してよ、レーム」
「……日本は怪異の宝庫だ、怪異を探すだけならそれこそ幾らでも見つかる。だが、結晶化できる怪異でなければ意味が無い」
「それは説明受けたから解っているけどねえ」
「東京で食べれば良いだろ、好きなだけ」
「ちっちっち、御当地で食べるからこそ美味いんだよなぁ」
やがて、プラットホームに軽やかな発車メロディが流れ、自動扉が閉ざされる。
微かな浮遊感と、ガタン、という一度の大きな揺れの後、車体はゆっくりと滑り出した。
のろのろと動き出す列車に加速が付いていけば、ホームの景色が徐々に速度を上げて後方へと流れ去り、電車は古都の街並みへと溶け込んでいく。
「その地図に表示されるんだっけ? ぴょこんって新しく出てこないかしら」
「季節、月齢、風水、地軸……様々な要素が重なり合って、初めて候補となる。適当に決めているわけではないのだ」
「うーん、まぁ仕方ないか。まっ、旅費も食費もロハで済んでる気侭な旅なんてありがたいこっちゃ」
口をもぐもぐさせながらタブレットを覗き込んでくる縁に対し、角度を変えて画面を見やすくしてやる。
レームが言語から組み上げた、この現界に於いては途方もない怪異的発明である霊子演算システムなのだが、そんな説明をしたところで「はえー」と応えが返ってくるのは解っているので無駄なことはしない。
車窓の風景が低い町家や商店街から、次第に住宅街の様相へと変わっていく。
遠くには、東大寺の大仏殿や、興福寺の五重塔のシルエットが、夕陽を背に黒く浮かび上がっては、すぐに過ぎ去っていった。やがて建物が途切れ、広々とした大和盆地の田園風景が広がり始めると電車は本格的に速度を上げて、ガタン、ゴトン、という心地よいリズムを刻み始めた。
「優先事項は世界干渉が低いこと。概念強度は高く、しかし結晶化してもこの世界の普遍性に影響が少ないことが理想だ……これが中々、条件は難しい」
「火山のカミサマはお誂え向き、キツめのチュートリアルだったワケね」
「不敬。だが、そうだな。最初の試練としては申し分なかったと思う」
「つまり、強くて無名なヤツを探し歩くってコトよね……プロ野球のスカウトみたいな話だわ」
「ふむ……言い得て妙だな」
「にひひ」
縁の屈託のない笑みを受けて、レームは一度口を閉ざし手元のタブレットに視線を落とした。
……ここに表示されているのは単なる経路図ではない。次の標的候補の情報、土地の信仰史、神性がもたらしたとされる過去の恩恵、様々な記録が無機質なテキストで羅列されている。その一行一行が、彼女の行為の重さを突きつけてくるようだった。
カタン、コトン、という規則正しい揺れと音が、心地よい眠気を誘う。
特急電車の清掃の行き届いた車内は平日の夕方ということもあってか、席の半分ほどが空いていた。まばらな乗客たちは、それぞれが読書をしたり、窓の外を眺めたり、あるいは浅い眠りに落ちたりと、思い思いの時間を過ごしている。
傾きかけた夕陽が、車内に長い光の帯を投げかけ、空気中を舞う細かな埃を金色に照らし出していた。
縁は黄昏を受けながら、実に美味そうに柿の葉寿司を一つ、また一つ、醤油を付けては口に運んでいる。その様子はこれから怪異を狩りに行こうという緊張感など微塵も感じさせない、あまりにのんきな光景であった。
レームはその横顔を、しばし黙って見つめる。
この穏やかな時間と自分たちがこれから成そうとしている破壊行為。そのあまりの乖離に、ふっと彼女の胸に、拭い去れぬ疑念が、再び影を落とす。
「それより貴様はいいのか」
窓の外、流れゆく市街地を眺めながら、レームがぽつりと呟いた。
「なにが?」
「その……次で三柱目だ。次々に、だな」
この世界に根付きし幻想、神格までをも含めてこうも次々狩り立てていくという行為は果たして本当に正しいのか。それは自分の目的と比べ、一体何が違うというのか。
自問は常につきまとう。
「ああ、神殺し? そんなら気にしなさんな。ウチの神様はいいぞもっとやれって言ってるよ、多分。託宣とか出来んから解らんけど」
縁のからりとした笑顔に、心の重みが少しだけ軽くなる……いや、悩むのが阿呆らしくなるレームであった。
電車は高架線へと上がり、車窓の風景は住宅街から広々とした田園地帯へと変わっていく。
点在する瓦屋根の農家と、遠くに見える大和三山のシルエット。そののどかな景色を眺める縁の横顔を、レームは時折盗み見る。
自分がこの矛盾を抱えながらも前に進もうと決めたのは、隣にいるこの娘の底抜けの明るさがあればこそなのだろう。
決めるも何も、縁のあの業がなければ旅ははじめの一歩で終わっていたのだから。
特急電車はいつしか大和盆地を抜け、山間のトンネルへと差し掛かる。
一瞬、車内が暗転し、窓ガラスが縁を静かに見つめるレーム自身の、不安げな表情を映し出した。長いトンネルを抜けると空を染めていた茜色は既になく、世界は逢魔時の深い藍色に沈んでいた。遠くに見える家々の明かりが、まるで星のように瞬き始める。
「……私も大概だが、貴様も大概だな」
「ふふ、レームは可愛いねえ」
その言葉にレームはただ、窓の外に視線を戻すだけだった。
縁が「ほら」と、笹の葉に包まれた柿の葉寿司を一つ、レームの口元へと無造作に差し出す。酢で締まった鯖の匂いがふわりと香る。
レームは一瞬ためらった後、小さな口を開けて、それを受け入れた。
二人の奇妙な旅は、まだ始まったばかりである。