序・5
レームがそう宣告すると同時、神を護っていた不可視の神威の壁に、まるでガラスに罅が入るような甲高い亀裂音が響き渡った。
空間そのものに走った亀裂は瞬く間に広がり、神威が、神の絶対防御が、粉々に砕け散る。
実際に視えたわけではない、だが、そうなったことは、解った。
自らの威が力で破られたのではなく、ただ「無効化」された理解不能の現象。
神の無貌に初めて疑問の光が宿る。
「機!」
槍を投げ、同時に瞬足の移動をする縁。
神は、飛来する槍を腕振るい弾き、そして――影鰐の顎にその腕を噛み砕かれた。
――が、そこまで
神の腕を喰らい、砕いた影鰐の顎が突如燃え上がり霧散する。
神の右腕には、確かに浅くない傷が刻まれていた。しかしそこから滴る神血が黒曜石の床に落ちる前、赤黒い炎となって燃え上がる。
飛び退り間合いを図る縁。影蛇がすぐに再起し彼女の身体に絡みつく。
さしたる感慨も見せず腕を見下ろした神、焚岳氏ノ命は失われた神代の御声で静かに宣り始めた。
「吾、焚岳なり。黙せ。退け。」
重厚な言の葉が石壁のように空間を塞ぎ、言霊の重みが大気を煮え立たせる。
神腕より赤熔の奔流が生まれた。山を噴きあぐる火砕流を濃縮した一槍――神はただひとつ、
「噴」
と放ち、それが合図に天地を貫く灼熱の柱が縁へと奔った。
同瞬、縁自身の意志が動くより早く影が跳ねる。
縁を護るように絡まっていた影の蛇が、黒き身体を膨らませ、縁の周囲に巻き付いた。蛇と鮫を掛け合わせたような影体が幾層にも身を重ねて黒鎖の鎧と化す。
続いて阿貫、阿厳。青と赤、矛と大幣から、二鬼の大鬼が雷鳴のごとく顕現した。
阿貫は長大な黒鋼の矛を地に突き、阿厳は神紙纏う巨幣を十字に構える。
二柱は主の前へと歩を揃え、言葉もなく火砕の奔流を迎え討つ。
轟ッ
神撃が鬼達へ衝突した刹那、赤熱が鬼たちの膂肉を灼き裂いた。
阿貫の矛は熔解し、赤鬼の大幣は瞬く間に灰へ。
影鰐の鱗を縫う炎脈は、黒影の奥底まで焼き穿ち、縁の小さな肢体へ熔滴を降らせた。
「――ッ」
声にもならぬ呻きが漏れるより早く、縁の袖口が燃え上がる。影鰐はなお躯を締めてその熱を呑み込み、鬼たちは砕けた武具と共に身を挺し続けた。
しかし神火は山をも砕く。
第二波が爆ぜる。溶岩の奔流が影を蒸発させ、鬼の骨を朱玻璃と変え、縁の肌を焦がす。
熱風が巻き上がると同時、阿貫が膝を砕かれ宙へ舞った。
阿厳もまた、赤の巨躯を炎に呑まれつつ縁の前に倒れ伏す。
そして影の鯱が裂けていく。最期、黒煙のように崩れ散る寸前に、縁の身体を大きく後ろに弾き飛ばす。その僅か後に自らの身体を焼失させた。
弾かれた縁の衣は既に火に包まれ、左腕の長手袋が炭化してぼろぼろと剥がれゆく。熱に晒された素肌が朱に染まり、呼吸は灼けた空気を吸うたび炎刃で裂かれる痛みが奔る。
それでも彼女は体勢を維持し、転がりつつ膝だけを折った。
……影が再起し膝つく縁の躯に巻き付き、鬼たちの砕けた槍と大幣が縁の足許へと転がる。
焚岳氏ノ命は無貌の面にただ一語。
「黙」
と冷たく刻み、熔岩の拳を再び掲げる。
縁の瞳に映るのは、己を失ってなお主を護らんと再起を図る荒神たちの焔塵。
そして、尚も容赦なく燃え盛る穿つ大神の威。
「…………」
やはり、駄目か。
一部始終を離れた場所で見据えていたレームは空気を焦がす熱風の最中、自らを護る事と、神威を制御する事に普遍化の世界視を続けていた。
これ以上の支援はできない、あの焦熱に晒されれば自己再生力では追いつかないダメージは必須。集中することでなんとか熱波と神の絶対防御を崩せていた。
いや、動けたとて眼前で起きた正しく火山の顕現をどうにも防ぎようはない。やはり無謀であったのか。己の計算違いであったのか。
ならば退くのは、此処か……?
だが――
「やっぱ正攻法じゃ叶わんか。仕方ないが、癪だねえ」
身体の半方を焦がしかけた縁の不敵な声がレームの耳に届く。
今にも身体を黒焦げにされようとしているのに、火山の神の神威を前に、自分が運命を預けたものは、笑った。
……笑ったのだ。
そして聞こえてくる声は、祝詞であった。
それは、この神域にいる何者とも異なる、より古く、より深淵の闇を湛えたものへの祈り。
「掛けまくも畏き常亡闇荒御魂申上畏荒魂奏上仕拝み奉りて恐み恐みも白さく畏神御恵を辱み奉り妖始闇来之れ成は汝に仕え奉りし巫成り専ら恩頼御力添え賜わり給ふやう恐み恐みも白す」
墜ちた左腕が燃え上がる――赤熱ではない、くろのほむらが立ち昇る。
あれほどに焦げていた身体がいつ、どのタイミングで再生したのか、傷一つないままに縁は立ち上がった。
祝詞を受けたか、三つの荒神も立ち上がる主に呼応するかの如く再起、再生した。
「常亡闇荒御魂畏荒魂申上恩頼、御闇迎賜り給へ」