序・4
慌てて縁を止めようとするが、彼女は既に臨戦態勢に入って――いや、攻撃を仕掛けていた。
突如虚空から生まれた槍が益荒男目掛け飛来し、あっさりと弾かれる。
弾かれた槍はまるで踊るかのように、足が付いているかのように、石突きを跳ねさせながら縁の元へと戻ってきた。
「不敬也」
「そりゃあ、あんたを斃しにきてるんだもの、覚悟の上よ。レーム、下がってプランB!」
「貴様最初から――」
「話は後!」
ますらおの顔から永劫の退屈が消えることはない。
だが彼がそうでなかったとて、代わりになるのはこの神域そのもの。
世界が憤怒に沸騰する。
彼が一歩、ゆっくりと踏み出す。
ただそれだけで、社殿の空気が爆発的に熱を帯び、呼吸すらままならなくなった。
ごうごうと地殻の奥底から響くような咆哮が音としてではなく、振動として二人の骨を揺らす。
立っているだけで、天から見えざる山が落ちてきたかのような圧倒的な神威がその肩にのしかかる。
彼の足元、磨き上げられた黒曜石の床が、じりじりと音を立てて赤熱し始めた。
それは攻撃ではない。ただ神がそこに在り、その不敬に気配が怒りを宿したという、おそらく彼にとっては些細な機微。
だがそれが万物を屈服させ、塵へと還すに足る絶対的な御威光となって灼かとなった。
畏怖すべき神威を前に縁はしかし、臆すどころかさらに獰猛な笑みを浮かべ――
「さて――阿貫! 阿厳! 久々の神退治といこうか、おいで!」
縁が右手に槍を構え、回旋させながら左手を振るえば再び虚空より神事に使われる黒い大幣が現れ手に収まる。
回旋を続け、ひゅおんひゅおんと禍々しい音と共に妖しい黒光りを放つ長槍。ねじれた獣の角を思わせる柄に、ただ一点を穿つためだけに研ぎ澄まされた、鋭い牙のような穂先。鬼の名を冠するにふさわしい、黒矛「阿貫」。
左手に握られたるは、本来神事に用いられる大幣。だが、その幣に付けられた無数の紙垂は、清浄な白ではなく、まるで影を切り取って束ねたかのように、不気味な黒色をしていた。黒幣「阿厳」である。
二つの異形なる武具を手に、縁の姿が床から掻き消えた。
常人には捉えきれぬほどの踏み込み。
一瞬で神の懐に潜り込んだ彼女は神の心臓を狙う、ただ一点を穿つための刺突を繰り出す。阿貫の牙が、神域の空気を切り裂き、神へと迫る。
が――禁、と甲高い金属音と共に穂先は神の寸前で見えざる壁に阻まれた。
火花のように散ったのは槍が宿す妖気。神が放つ威光そのものが絶対的な結界として縁の攻撃を弾き返したのだ。
体勢を崩すことなく身を翻した縁は身を退かせるのと同時、左手に持つ大幣を横薙ぎに振るう。影を束ねたかのような黒い紙垂がずるりと伸びて、.鞭のようにしなって神威の空気を裂かんと迫る。
だがその影なる幣が神の威光に触れる直前、なにかの御力に邪魔され、伸びた幣ごと霧散する。
刹那の二撃。そのいずれも神は指一本動かすことなく、ただそこに佇むだけで完全に無力化して見せた。
が、縁自身に気負うところは一切なく、闘気充分に身を退かせながら構える。
こんな事は織り込み済みとでも言わんばかりだ。
「……まぁ解っちゃいたけど、まったく通用しないか」
神はその益荒男ぶりに似合わぬ、どこか億劫そうな、緩慢な仕草で右手を持ち上げた。
掌を、ただ、縁へと向ける。
それだけだった。
力場も、力の奔流も、何の前触れもない。
しかし神の掌の前の空間が陽炎のようにぐにゃりと歪み、次の刹那、爆発――衝撃が縁の身体を打ち据えた。
まるで巨人の掌で叩きつけられたかのように、縁の小柄な身体が「く」の字に折れ曲がり、爆煙を伴いながら鞠のように弾き飛ばされる。
社殿の壁へと吹き飛ぶ身体。
縁は中空で無理やり身を捻り、猫のように着地しようとするが、その勢いは殺しきれない。
黒曜石の床へと速度充分のまま叩きつけられる寸前――床に映っていた彼女自身の影が、意思を持って床から”剥がれた”
二次元の黒い染みであったはずのそれは粘性を持った液体のように、あるいは一枚の黒い布のように立体化すると、縁の落下地点へと瞬時に滑り込む。
彼女の身体が激突する前にふわり広がり、そのまま巨大な影の球体、否、ビーズクッションとでも云うべきか、そんな形状へと変化した。
影球は縁の身体を柔らかく“もふっ”と受け止め、その衝撃を吸収しながら床をつるつる滑りゆく。きゅきゅきゅと異様な音を立てながら、縁の身体を乗せた球は1メートル程度後退し、ようやく静止した。
役目を終えた影は、ぐにゃりと身体を鯱のような、鮫のような形に変えながら縁を床へと降ろし、親愛を示すように、縁の身体に纏わり付いてから、神へと威嚇するように鎌首を擡げた。
……神は、ただ、右手を向けただけ。
その絶対的な一撃を、縁は荒神の力をもってようやく受け止めてみせた。 圧倒的な戦力差がそこに示される。
だが、それでも尚、縁の口元には不敵が残っていた。
「滅茶苦茶硬いなあ……アレだよ、画面上のHPバーがさ、ちいっとも削れてないのに、こっちはいっぺんに半分以上削れちゃうやつ。やる気なくなるんだよねえ、アレ」
神が掌を再び向け――ようとした其処にもう縁はいない。
黒曜石の床が罅割れ、弾け飛ぶのみ。
禁ッ
そして、再び不快音が響き、いつ其処に移動したのか縁が神の後ろに出現し、槍を弾かれていた。
神が一瞥をくれると、爆炎――を、大幣を振って弾く。
足元から影の鰐が神の身体に体当たりをするがその衝撃ごと跳ね返され、またも吹っ飛ぶ縁の身体。影鰐は再び球体となって着地の衝撃を打ち消した。
間合いを離した状態で、再びの対峙。
「……いやあ、やっぱ強いなあ、カミサマは」
「ユカリ、もういい。準備が出来た」
攻防の合間、姿を隠すように縁の対角線上に位置していたレームが焚岳氏ノ命を紅い眼で見やる。
そうだ、願いが通じぬであれば、“斃す”。
そう決めたはずなのだ。
だのに神威に気圧され萎縮した。
認めざるを得ない。
自分だけでは、神殺しは成せなかったろう。
神をも不遜に扱い、挑むあの巫女がいなければ。
その彼女は神威を打ち払えずに苦戦している。
ならば――それを祓うのが自分の仕事だ。
レームは自らの内にあったはずの恐怖と萎縮を、不敵に笑う巫女への信用で塗り潰す。
このために自分は此処にいる。ただ立ち尽くすためにいるのではない。
翠の左目を閉じた。神へと向けられているのは紅玉のように輝く瞳。そしてふたたび瞳が、あり得べからざる変容を遂げ、万華鏡の虹彩を創る。
それはもはや生物の眼ではない。世界の法則そのものを読み解き、定義し、そして書き換えるための、深淵の観測機。
「その障壁は、世界が“神”と定義することで成立する秩序の壁」
紡がれたのは祝詞ではない。ただ、世界観測によって得られた普遍事象の羅列。
「ならば、私の眼が、その定義を一時的に“無かったこと”に戻す。これぞスタレ・ノルマラ」