序・3
二人の世界から音が消えた。
鳥の囀りも、風に揺れる葉音も、耳鳴りのような甲高い高周波音の後、分厚い壁の向こうに隔てられたかのように遠退いていく。
全身を締め付けるような圧迫感。
足元の石畳がその確かな感触を失い視界の端から世界の色彩が水に落とした絵の具のように溶け出し、混ざり合い、全く新しい風景へと再構築されていく。
浮遊感にも似た奇妙な感覚が収まった時、彼女たちはあり得べからざる光景の只中に立っていた。
――空は痣のような紫と橙が混ざり合う、とこしえの黄昏。
周囲には燃えるような真紅の雲海が溶岩のように、あるいは血のようにゆっくりと渦を巻き、その雲の内側では音もなく稲妻が駆けている。
点々と浮かぶ切り離された巨大な岩塊群の程上に、先ほどまで目前に見ていた古びた分社が人の手で組まれたとは思えぬほど巨大な木組みの社殿として、幻のように鎮座していた。
此処は、此処こそが、人の理が及ばぬ神の御座――「神座」である。
「ん~……このラスボスいる感よ」
「この状況でその台詞が出るのか」
「結構岩と岩の間が遠いなあ、レーム、ジャンプできる?」
「問題ない、行くぞ」
「おっけ」
二人は十m程度あるだろう高低差と幅のある、遥か下には溶岩の池が泡を吹く浮遊岩と浮遊岩の合間を跳び駆けていく。
不安定に浮かぶ岩塊群。
縁が獣のような動きで力強く跳躍する一方、レームは物理法則を無視するように最短距離を直線的に跳ぶ。着地の衝撃は皆無。その動きには一切の無駄がなく人間というよりは目標座標に自らを転送させる精密機械のそれに近い。
十回ほどの工程を経て、ふたりは社殿へと辿り着いた。
……岩塊の上に鎮座する社殿は地上で見たそれとは似て非なる威容を放っていた。
人の手で組まれたとは思えぬほど巨大な木組みは神代杉とでも言うべきか、永い刻を経て黒曜石のように鈍く輝く木肌を持っている。屋根を覆うのは瓦ではなく火山の噴火で生まれたという竜の鱗を思わせる黒岩の板。
天を鋭く突く千木はまるで巨大な槍の穂先のようだ。腐食や摩耗といった現世の理から外れた社殿そのものが、地熱を帯びた岩のように微かな熱気を放っている。
軋む音一つ立てない観音開きの扉を押し二人は社殿の内部へと足を踏み入れた。
――瞬間、肌を刺す空気の密度が変わる。外気とは比べ物にならぬほどの熱と、硫黄と、それから熱せられた鉄の匂いが鼻腔を突いた。
そこは、外見からは想像もつかないほど広大な伽藍堂の空間であった。
窓一つないはずの堂内はしかし、奇妙な明るさに満たされている。
天井を支える巨大な柱や梁、その木目に沿って、まるで溶岩のような赤い光が脈動し、明滅を繰り返していた。
磨き上げられた黒曜石の床が禍々しくも神々しい光を映し返し、天地の境界を曖昧にしている。
だだっ広い空間の、その最奥。
そこにはただひとつ、火口から直接切り出されたかのような無骨な岩の玉座が鎮座していた。永劫の時をこの神座の主として君臨してきた者の威厳をただ静かに放っている。
二人はその玉座の前まで歩み、そして、静かに神の顕現を待った。
……永遠に続くかのような静寂。
それを破ったのは、縁の小さな咳払いだった。
「ごめんごめん、熱気が喉に絡んじゃった」
彼女の言葉通り、堂内の空気がまるで巨大な炉に火が入れられたかのように灼けつくような熱を帯び始めていた。
地鳴りのような低い振動が社殿の浮かぶ岩塊そのものを揺らす。
天井を支える巨大な柱の木目に沿って脈打つ赤い光がまるで心臓の鼓動のように、その速度と輝きを増していく。硫黄と熱せられた金属の匂いが満ちる神気と混じり合い、呼吸すらも億劫になるほどの圧力と共に二人を包み込んだ。
――来た。
レームが内心で呟くと同時、最奥に鎮座する岩の玉座の前、その何もない空間に熾火の粒子が渦を巻きながら集い始めた。
渦は次第に熱を帯び、人型を成していく。
灰が肉となり、燃える火の粉が髪となり、冷えた溶岩を削り出したかのような古式の鎧がその身を覆う。
やがて光と熱が収束していき……そこに一人の男が立っていた。
それは若き益荒男のすがた。
鍛え上げられた鋼のような肉体。その顔には永劫の時を生きてきた神ならではの傲岸さと、全てを見下すかのような深い退屈が浮かんでいる。
背後には陽炎が揺らめき、その向こうには噴煙を上げる火口と紋様も定かではない、ただ赤く燃え盛る神旗の幻影が映し出されていた。
一人は眼前の神気に眼を、心を奪われ、
いま一人は相手を値踏みするように見据えている。
「――レーム」
は、と我を取り戻す。
存分に己を失わぬよう心を強く持っていたはずなのに、眼前の顕現に息をすら忘れていた事に気付く。は、ぁ、と息を吐き、そしてぐっと前を向く。
そうだ、自分が仕掛けねば、そして指示せねば。
今更ながら、精巧に過ぎる機怪の心を忌まわしく思いながら、レームは朗々と軽やかな鈴の声色で祝詞を謳い揚げる。
掛けまくも畏き焚岳氏ノ命、常世の火霊、戦く御山の御門に鎮まり給ふ大神よ、
此処に祓い給ひ、顕ち坐し、我が詞に応え給へ。
古の結界を裂き、我が眼にて、汝の座を観奉る。
神気昇らば、御魂のまにまに、此処に坐しめ給へ。
ひといきに詩を終え、見据え、一礼する。
これで聞き入れてくれればよし――
「……人の子の世は満ち足り、神威を示すまでもない。静謐こそ、永劫の証なれば我の手を差し伸べるに能わず」
とても、とても退屈そうな、巨大な火口の底から響き渡る万物への無関心だけを乗せた音の塊が地の底から届く。
やはり、駄目か。
ただ其処に立っているだけで正気を失いそうな、圧倒的な存在を前にした不安感と戦いながら、レームは……隣で不敵に牙見せ笑む相棒を見上げた。
……この状況で……笑う、だと……?
「ほぉら、レーム。あたしの言ったとおりでしょ? カミサマってとどのつまり、システムなのよ。コイツら寝っ転がりながら自動的に搾り取れる“信仰”を貰って楽隠居しているのさ。神もイマドキの政治屋もやってることは同じだわね。有事に頼りにならないトコまでさ」
「……」
「そうじゃないってえなら、世界の危機くらい解ってくれよ。あんた呼ばれる今の今まで寝こけてたんだろ? 世は満ちたりとかよくも言えたもんだわ」
「不遜な」