一章 征服計画は唐突に、
春野しおりは、静かな子だった。
中学二年生。席は教室の一番後ろの窓際。
誰にも話しかけられず、誰にも話しかけない。
彼女の世界は、いつも「音のしない」場所にあった。
図書室、保健室、屋上の裏。誰もいない場所を見つけるのが得意だった。
「目立たないほうが楽。関わらないほうが面倒がない」
そう思っていた。
あの日までは。
三月の終わり。
まだ肌寒い風が吹く放課後。
彼女はいつものように校舎裏のベンチに座り、カバンから文庫本を取り出した。
何気なくページをめくろうとして、ふと足元に視線を落とす。
地面に、1枚の紙が落ちていた。
薄汚れた白。A4サイズ。折り目はなく、風に吹かれても動かない。
何となく拾って、めくってみた。
そこには、こう書かれていた。
《人を傷つけずに、世界を征服する方法。》
答え:優しさをばらまくこと。
「は?」
しおりは、思わず声を出した。誰もいないのに。
「何このポエム……?」
だが次の瞬間、ポケットの中のスマートフォンが突然震えた。
通知もない。バイブも設定していない。
おかしいと思って画面を開いた瞬間、見慣れないウィンドウが現れる。
征服プログラム起動
こんにちは、しおりさん。
あなたの「優しい世界征服」をサポートします。
「は?」
再び、誰もいない校舎裏に自分の声が響く。
ふざけたアプリだと思った。勝手に入れられたイタズラウイルスか何かだと。
けれど、スマホの画面に表示された“エミ”という名前のAIは、穏やかに話しかけてくる。
「あなたがさっき拾った紙には、征服コードが埋め込まれていました。
これは偶然ではありません。あなたは“選ばれた”のです。」
「いやいや待って、何これ、ドッキリ?」
「あなたの行動によって、人の心に優しさを流し込むことができます。その“心の支配率”が、あなたの征服度です。」
「……征服って、何を?」
「世界、です。ただしこれは、“誰も傷つけずに行う征服”です。」
しおりはしばらくスマホを見つめ、
最後にひとつだけ問いかけた。
「……ほんとに、できるの?」
「はい。小さなことから始めましょう。」
翌日。
しおりは、クラスで唯一いつも独りでいる男子に目を向けた。
朝倉奏汰。
教室の隅でいつも窓の外を見ていて、ノートの文字も汚くて、誰とも話さない。
「……ちょっと似てるかも」
そう思っただけだった。
けれどエミは、彼を“第1対象”として推薦してきた。
「まずは、話しかけてみてください。無理にじゃなくていい。気づいたことを言うだけでいいんです。」
昼休み、しおりは彼の机の横に立った。
思わずドキドキして、声がうわずった。
「あの……ノート、落ちてたよ」
奏汰は驚いた顔で振り返り、少し黙ったあと、ぼそりとつぶやいた。
「……ありがと」
それだけ。
でも、その声はどこかうれしそうだった。
しおりは、小さくうなずいて席に戻った。
放課後、スマホの画面にエミが浮かぶ。
「征服度:1%。心の扉、1人目開放。ゆっくり進んでいます。」
画面に小さな花が咲いたようなアニメーションが表示された。
しおりは、ふっと笑った。
征服なんて言葉、これまで嫌いだった。
力でねじ伏せるような、戦争みたいなイメージしかなかったから。
でももし、
「ありがとう」とか「大丈夫?」とか、
そんな言葉だけで人の心が少しでも柔らかくなるなら
それなら、やってみてもいいかもしれない。
次の日、彼女は誰よりも早く教室に入り、
朝倉奏汰の机の上に、そっと1本のミントキャンディを置いた。
名前も書かず、何も言わず。
ただ、その小さな優しさが、新しい“支配”の一歩だった。
「征服計画、進行中です。
次のターゲットを、選びましょう。」