妻がやたらと「粉塵爆発」の心配をしてきます
フィオーネ・ファブリアは、若き伯爵夫人である。
キャラメルブロンドの髪を肩まで伸ばし、ぱっちりとした瞳を持ち、愛用のベージュのドレスがよく似合う。性格は穏やかだが、人懐こいところもあり、社交界においても友人から愛されている。
そんな彼女であるが、今日は既婚の貴族女性が集まるサロンに参加していた。
「そういえば、この間隣国の炭鉱で粉塵爆発があったって……怖いわねえ」
「ええ、痛ましい事件だったわね……」
これを聞いて、フィオーネはきょとんとする。
「粉塵爆発って?」
「私もあまり詳しくはないけど、粉が大量に舞った状態で火がつくと、大爆発が起こるらしいわ。炭鉱だと炭の粉が沢山舞うでしょうし、そこに誰かが火をつけちゃったんでしょうね」
「まあ……」
他の婦人も話題に加わってくる。
「そういえば、この前読んだ小説にも粉塵爆発が出てきたわね」
「小説にも? どんな風に?」とフィオーネ。
「主人公が倉庫で敵と戦っていたんだけど、追い詰められた主人公が近くにあった小麦粉の袋を次々攻撃して周囲を粉まみれにして、それから火をつけたの。そうしたら、敵はその爆発でやられちゃったのよ。あれは頭がいいなぁって思ったわね」
「へえ……」
フィオーネは聞きながら思った。
“粉塵爆発”って怖いんだなぁ、と――
***
この日の夕方、フィオーネが邸宅のリビングで編み物をしていると、夫が帰ってきた。
「ただいまー」
フィオーネは笑顔になり、早足で夫を出迎える。
「お帰りなさい」
彼女の夫はロシオ・ファブリア。金髪を整髪料でまとめ、整った顔立ちをした美丈夫であり、国王を補佐する重臣の一人として活躍している。
貴族でありながら気さくな人柄で、人々から好かれる性格をしており、国王からの人望も厚い。このあたり、妻とは似た者同士といえる。
フィオーネは夫が手に持っている袋に気づく。
「あら、それは?」
「今日は僕が夕食を作ろうと思ってね」
「まあ、素敵!」
ロシオには手料理の趣味があった。
普段の食事は邸宅勤めの召使いが用意してくれるが、時折自分で材料を買ってきて、その腕前を披露してくれる。
「何を作ってくれるの?」
「白身魚のムニエルを作ろうかなって思ってる」
「あら、美味しそう」
ロシオがキッチンに向かい、フィオーネもそれに付き添う。
「それじゃさっそく……」
ロシオは買ってきた魚を調理場に置き、さらに棚から小麦粉を取り出した。
これに、フィオーネはぎょっとする。
「小麦粉!?」
フィオーネの反応に、ロシオもぎょっとする。
「ど、どうしたの?」
「危険だわ! 小麦粉は危険だわ!」
ロシオは古い小麦粉なのかなと、小麦粉を調べるが、特に問題はなかった。
「大丈夫だよ。臭いもしないし、新鮮な小麦粉だ」
「だけど……粉塵爆発が……!」
突然出てきたワードに、ロシオが首を傾げる。
「粉塵爆発?」
「今日聞いたの。小麦粉が爆発を起こすこともあるって……」
これを聞いて、ロシオは妻の態度の原因を理解した。
「そういうことか。僕も粉塵爆発については知ってるけど、あれはよほどのことがないとまず起こらないよ。だから、心配しないで」
「本当?」
「本当だとも」
笑顔を見せるロシオに、フィオーネも安堵したような笑みを浮かべる。
さっそくロシオは調理を始める。
慣れた手つきで魚をさばき、切り身にし、香辛料で味付けする。
包丁をかなりの速さで扱っているにもかかわらず、フィオーネの表情はリラックスしている。夫の腕を信頼しており、包丁で怪我をすることはない、と確信しているようだ。
しかし――
「よし、小麦粉をまぶそうかな」
(小麦粉……!)
フィオーネの顔が緊張を帯びる。
額に汗がにじみ、手は自然と握り拳を作り、心拍数が上がる。
大爆発とともに、夫の体が吹き飛ばされる光景を幻視してしまう。
(大丈夫よ、大丈夫……。粉塵爆発なんてよほどのことがないと起きないって言ってたじゃない)
だがそれは、裏を返せば“よほどのことがあれば起こる”ということでもある。
可能性はゼロではない。
今の彼女にとって、ゼロではないということは、“起こるかもしれないし起きないかもしれない”という二分の一を突きつけられているようなものだった。
フィオーネの呼吸がますます荒くなる。
ロシオは料理に集中しており、フィオーネのことは見ていないが、そこは夫婦。妻の緊張が伝わってしまったのか、ロシオの手元に狂いが生じる。
「あっ!」
小麦粉の袋を床に落としてしまい、わずかに粉が舞った。
ロシオは慌てず、片付けようとするが――
「あなたぁぁぁぁぁ!!!」
フィオーネが絶叫した。
「……!?」
ロシオが振り向くと、フィオーネが駆け寄ってきて、ロシオと舞う小麦粉の間に立った。
そう、まるで夫の盾となるように――
「爆発するわッ! 逃げてッ! あなた、逃げてぇぇぇぇぇ!」
しかし――
「あれ……? 爆発、しない……?」
「火はつけてないからね。それに、この程度の量の小麦粉で、粉塵爆発は起こらないよ」
ロシオの冷静な解説に、フィオーネはホッと胸をなで下ろす。
「よかった……よかったわぁぁぁ……」
へなへなと腰が抜けたようになったフィオーネに、ロシオは優しく手を差し伸べる。
「立てる?」
「ええ、大騒ぎしてごめんなさい……」
ロシオは首を横に振る。
「いいや、心配かけてすまなかった。絶対事故を起こさないよう調理するから、見守ってくれるかい?」
「……うん」
二人は手を繋いだまま、恍惚とした表情でしばしの間、見つめ合った。
***
白身魚のムニエルは無事出来上がり、スープや野菜のソテーなどとともに食卓に出される。
ムニエルの味は上出来で、グラスに入った赤ワインともよく合った。
「美味しい~」
フィオーネは頬に手を当て、にこやかにムニエルを味わう。
「こんなに美味しいムニエルを作れる人が、粉塵爆発なんて起こすはずがないわよね。さっきは本当にごめんなさい」
改めて謝罪するフィオーネを、ロシオはじっと見つめる。
「いや……」
「?」
「さっき君が僕を守るように割って入ってきた時、驚いたけど、それ以上に嬉しかったんだ」
「嬉しかった?」
フィオーネは目を丸くする。
「うん……君にとって、粉塵爆発は恐ろしい現象だったはずだ。それなのに、僕のために盾になろうとしてくれた。そんな君を見たら、変な話だけどたまらなく嬉しくなってしまったんだ。僕は本当に素敵な人と結婚することができたんだなぁって」
「あなた……」
「だからフィオーネ、改めて言うよ。僕は君を愛している。君が僕にしてくれたように、僕は命をかけて君を守るよ」
この言葉に、フィオーネの中にもまだ結婚する前――ロシオと出会った頃の新鮮な恋心が蘇ってきた。
「はい……お願いします」
食事は済み、二人の夜は更けていく。
この日、ファブリア家の邸宅で粉塵爆発は起こらなかった。しかし、二人の愛は爆発し、燃え上がってしまったようである。
おわり
お読み下さいましてありがとうございました。