六話
夏休みが進むのは早かった。あいは度々市立図書館に出向いた。冷房が効いていて日中は家より遥かに過ごしやすかった。図書室のような人目につかない場所こそなかったけれど充分だった。
「ねぇ」
誰かの声にあいは視線を上げた。
「やっぱり小島さんだ」
髪を茶色に染めてパッチリ目を際立たせたメイクをした同年代ぐらいの女の子があいの向かいに座っていた。
「なにか」
あいはいつもと同じように声を出したつもりだったがその声が幾分かやわらかくなっていることに自分で気づいていた。向かいに座る女の子も少し驚いた表情になった。
「吉川のことなんだけど」
「吉川?」
「えっと、あたしね。中学のときはあの子と友達だったんだ」
彼女はバツが悪そうに笑みを作った。それを聴いてあいはようやく吉川の名前と顔が一致した。
「吉川とさ、仲良くしてやってくれない?」
「どうして?」
「あたし、ほら…… グループに入っちゃってるからさ。気にはなるんだけど……」
「どうして仲良くしないといけないの?」
あいは素で訊いたのだが彼女は目を丸くした。
「一人は…… 辛いじゃん」とだけ言った。
……つまり彼女は気にはなっていても今の仲間を裏切って吉川の味方をするのは恐い。そんなところだろうか? あいは吉川のことを考えてみた。“あの日”のことの他にあいが朧気に覚えているのは吉川が友達と別れて寂しそうな顔をしているところだけだった。だけどそれが全てだと思った。
「あなたじゃないと意味がないんじゃないかな?」
「……」
「わたしでも代わりにはなるかも知れないけど、きっと彼女にとってはあなたじゃないと意味がないと思う」
彼女はハッとした顔をしたけど直ぐに俯いて目を伏せた。
「あの…… また来ていい?」
「……わたしはだいたいここに座ってるわ」
あいは彼女が去ってから、せっかく思い出したんだから忘れないでおこうと吉川の名前を心に留めてから本に目を落とした。
彼女はそれ以降度々訪れた。彼女と話すのは意外にもそこそこ楽しかった。連絡先を訊かれてあいが携帯電話を持っていないと言うと彼女は「いまどきありえないしっ」と笑った。親が居ないから、とその先の思考にまで行き着かない彼女ならば単純に友達として見れる気がした。いままでのあいの考えは単なる被害妄想だったのかもしれないと思った。
戸上があいと類似してるなら彼女はあいの対極にいる。
不意に訳もなく彼女が羨ましく感じた。あいは別にその位置が欲しかった訳ではない。ただその位置を手放さなければ行けなかっただけの話だ。
きっと学校でなら彼女は人目を気にしてこれからもあいと関わろうとはしないだろう。夏休み限りの友達。あいもそれでいいと思う。だけどそう思うとなぜか胸が少し痛んだ気がした。
「ねぇ 小島さんって好きな人とかいないの?」
「いない」
「ウソだぁ。高校生にもなれば一人くらいいるでしょ」
そう言われてあいは一瞬、戸上のことを思い出したが「好きな人」とは少し違う気がした。
「いま好きな人のこと考えてでしょ?」
「……どうして?」
「そりゃあ 目がねぇ?」
彼女はいたずらっぽく微笑んだ。そのあとあいはあからさまに不機嫌になった。本を読んでいる振りをして彼女をやり過ごして彼女が帰ってから戸上のことを考えた。
惹かれている? あの氷のような無表情を思い出してあいはゾッとした。「なんで……」ゾッとした自分に驚く。
あいも同じ表情をしていたはずなのに、いまになってあいはあの無表情が深い暗闇の中にあいの全てを呑み込んでしまうような気がした。
八月も半ばに入ったある朝、あの騒々しい電話の音であいは目を覚ました。いつかのように両手で耳を抑えて一階に降りてしかめっ面をして電話を取る。
「もしもし?」
「あい…… あいぃ……」
彼女の声だった。あきらかに泣き声で動転しきっていた。
「どうしたの?
電話口からは嗚咽が聴こえるばかりで彼女が話せるような状態でないことは想像がついた。あいは彼女が落ち着くまで辛抱強く待った。
「ぅ…… 吉川が…… 吉川が死んじゃったよぉ」
あいは久しぶりに学校に来た。既に警察が来ていて学校は立ち入り禁止になっている。飛び降り自殺、野次馬からそんな言葉を拾うことが出来た。あいは背筋が冷たくなるのを感じた。
わたしが…… 殺した? あいはその場で嘔吐しそうになった。強引に飲み下してよろめきながら野次馬から少し距離を取った。
「……どうした?」
たまたま通りかかった、という感じの彼があいを見つけて自転車を止めた。
「気分でも悪いのか?」
彼はあいの前に屈みこんだ。表情を見る余裕はいまのあいにはなかった。
「死んだ人…… 私の、知り合いなの」
吐き気を堪えながらやっとのことでそれだけを話した。「何だ」彼は事も無げに言った。
「人が一人死んだだけだろ?」
見なくてもわかった。彼はきっと失望したような暗い目であいを見ていた。