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五話



 彼の──、戸上 優人の名前はあいが高校に入ってから初めてちゃんと覚えた名前だった。

 文芸部の副部長をしている三年生であることは司書の先生から聞くことが出来た。

 あいは彼のことが気になって仕方がなかった。あいは自分は誰ともわかりあえないと思って生きて来た。あいに同情する人間となんてわかりあえるはずがなかった。だけどもしかしたら彼となら……

 文芸部に行ってみようかとも思ったけれど面倒に巻き込まれるのが嫌だという気持ちも少なからずあった。

 それにもうすぐ、期末試験の時期になる。あいが行かなくても文芸部の勉強会が図書室であるだろう。

 あいは彼を見たかった。あのわずらわしい笑顔でもいいから、彼の顔をもう一度を。

 あいは落ち着かない気持ちで数日を過ごした。そのあいだ“あの子”は学校に来ていなかった。二度と来ないかもしれないとだけ思ってそれきり彼女のことは考えなかった。


 テストの一週間前になり、放課後の図書室に戸上が来るようになった。彼は相変わらず三十分程だけ文芸部の他の部員と話して帰っていった。彼はいつも笑顔だったけれど、あいはそれをようやく偽物の笑顔だと気づいた。クラスメイトのそれと違ってあまりにも卑屈さのない無機質な笑顔だったのですぐには気づけなかった。

 あいは時々彼に自分を見た気がした。

 帰り際に見せるさよならのあと一人になる瞬間。

 一人で何かの本を探しているとき。


 彼は世間用に取り繕うことを覚えたあいだった。



 テスト前には珍しくその日は文芸部の勉強会がないらしかった。彼だけが図書室に来てあいの前に座った。


「ごめん、いままでちょっと時間が取れなくてさ」

「別に気にしてない」


 まるで恋人みたいな会話だなとあいはおかしく思った。あいの聖域が彼を受け入れたのを感じた。


「えーっと、俺は戸上 優人、三年」

「小島 あいです」

「一年だよね?」

「うん」

「やっぱり去年はいなかったからそうかなって思ってた」


 あいは少し落胆を感じた。彼はこんな世間話をしに来たんだろうか?と思った。だけど、次の瞬間にそれは高鳴りに変わった。


「まっ 自己紹介なんてどうでもいいか、バイトがあってそんなに時間もないから手短に」


 彼があの無表情見せたからだ。


「これ、読んだことある?」


 彼は手荷物から端が酸化して黄土色になった古い本を取り出した。夏目 漱石の「こころ」だ。あいも読んだことがある。頷いた。


「君は“私”は死ぬべきだったと思う?」


 あいは「こころ」を手に取った。パラパラと捲りそれぞれの箇所を思い浮かべる。少し考えて「死ぬべきじゃなかったと思う」と言った。


「俺は死ぬべきだったと思う。それももっと早くにね」と彼は言った。

 それからお互いの考えを少し話した。


 あいは“わたし”は誇り高い人間だと思うと言った。過ちを犯した償いに生きて行くべきだと話した。

 優人は“わたし”を醜い人間だと言った。裏切り、出し抜き、美しい妻を得てのうのうと生きていることなど許されない。と


 互いの考えが平行線を辿ることは目に見えていたのであいも彼もそれ以上は何も言わなかったけれど、あいは彼と自分が全くの同一ではないことを知った。




 彼との会合はそれっきりで夏休みを迎えてしまった。あいが蒸し暑い二階で寝転びながら本を読んでいると誰かが部屋の戸を二度叩いた。「どうぞ」あいは簡単に居住まいを正した。叔母はそういう礼儀にはうるさい人で大分昔に寝転んだまま応対しようとして大目玉をくらったことがあるからだ。ところが戸を開けたのは叔母ではなかった。叔父のほうだった。


「あい、通知表を見せなさい」


 あいは驚いた。叔父こそ自分と関わることが一番ないと思っていた人間だった。あいは少し萎縮しながら頷いてバックから通知表を取り出して叔父に差し出した。


「………」


 叔父はしばらく無言でそれを見ていた。あいのテストの点数は平均点より10から高いものは30ほど上だった。時間が余ってる分、なんとなく手を抜く気になれなかった結果だった。


「あいは頭がいいなぁ」


 おじは本当に嬉しそうに優しい笑みを作った。あいは面食らった。暖かい笑顔を久々に見た気がした。


「あい、高校を卒業したら大学へ行きなさい」

「え……?」


 あいは自分が酷く間抜けだと思う類いの声を出した。


「お金のことはどうにでもなるよ。あいつはあいが思ってるよりあいのことが好きだからね」


 叔父は懐から白い手帳みたいな物を取り出してあいに向けて開いた。それは通帳だった。そこには決して少なくない金額が書かれていた。


「あいつがあいの学費のためにコツコツ節約して貯めたお金だ」


 あいは胸の奥がさぁ っと冷たくなるのを感じた。違った。それは逆だった。積もり積もった“冷たさ”が外に出ていく感触だった。それに押し出されて自然に涙が出た。

 暖かさはこんなに身近にあったのに、

 探せば他にもたくさんあったはずなのに、

 あいはいつもそれを見落としてきた。

 やっと触れることの出来た優しさはそれまでのあいを打ちのめした。

 突然泣き出したあいに叔父は少し戸惑うようだったけどあいに胸を貸して何も言わずに静かに抱き締めた。

 あいはその胸を暖かいと思った。




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