一話
小島 あいは叔母が別段嫌いではなかった。
叔母はいつも不機嫌そうでなにかにつけてブツブツと文句を言っている。旦那の稼ぎが悪い、が一番多い愚痴であいはそれを少なからず自分への当て付けだと思っている。
それでもあいが彼女を嫌いではないのは必要最低限のことはしてくれているからだ。高校にも通わせてくれることになった。あいにとっては煩わしいと思うだけだったけれども。例えそれが叔母自身の世間体のためだとしても。
あいは中学の卒業式に出なかった。学舎もクラスメイトも教師も別れを惜しむ相手が居なかったからだ。叔母に出るように言われて、あいは制服に着替えて以前から行こうと考えていたネットカフェに向かった。
平日のネットカフェは空いていて利用時間を1時間と答えるとすぐに個室に案内された。
あいは慣れない手つきでインターネットを開くと両親の名前を打ち込んだ。少し探すと目的の物はすぐに見つかった。
あいには両親がいない。幼い頃に二人とも死んで叔母の家に引き取られてきた。あいが調べたかったのは両親の死因だ。
生存者である自分のことも少し書いてあったがあいはそれを読まずにインターネットを閉じた。適当に過ごして帰りにコンビニで漫画雑誌を読んで時間を潰した。ガラス越しに通りすぎて行く同級生達を感情のない目で見ていた。何時間も座っているだけの儀礼でなんであんな笑顔になれるんだろうと不思議に思った。あいはもう何年も笑っていない。
帰っても卒業証書を持っていないあいに叔母は何も言わなかった。興味がないのだろうと思った。
翌日、据え置きの電話のけたたましい着信音であいは目を覚ました。木造二階建ての叔母の家の二階にあるあいの部屋からでも一階からのその音はうるさいくらいよく聴こえた。叔母は少し耳が遠い。
あいは耳を塞ぎながら一階に降りた。耳に当てた手を外すのが億劫だったがどうしようもないので受話器を取った。右耳の奥がキーンと鳴る。左手に受話器を握り直して耳に当てる。
「ハイ、小島です」
「あいちゃん?」
それが昨日まであいのクラスの担任だった教師の声だと辛うじてわかった。あいは未だに彼女の名前を覚えていない。
「あいちゃん、昨日来なかったでしょ? 卒業証書──「今日とりに行きます」
家に来られても迷惑だったのであいはすぐに言った。
「じゃあできるだけ早く来て頂戴」
「いまから行きます」
時計も見ずに答えて返答を聞かずに通話を切った。あいは部屋に戻ると手早く中学の制服に着替え叔母を起こさないように家を出た。もっともあの着信音で起きない叔母にそんな配慮はいらないことはわかっているけれども。
玄関を開けると古びたドアがギィ と小さく軋んだ。あいは新品の自転車に跨がった。高校に入学するにあたって叔母がバスの定期券とどちらが安いか計算した末に買ったものだ。手間は計算に入っていないのであいはこれから毎朝三十分以上かけて高校に通うことになる。
大して遠くない中学校への道程はいつもと代わり映えがしなかった。みんなが同じように暮らしていて、みんなが同じようにあいを見ている。両親を失ったあいの境遇に同情したがる。挨拶に卑屈が混じる。
あいはその視線が、その声が嫌いだった。
この道を通るといつもどこかの窓から誰かが見ている気がして、あいはペダルを漕ぐ足に力を込める。
中学校は普段の喧騒が嘘のように静かだった。校舎の脇の目立たないところに自転車を止めていつもこうだったらよかったのにと思いながら玄関を潜る。職員室に入る。
担任教師は小さく欠伸をしていた。あいはふとなんて声をかければいいか迷った。名前がわからない。気づきさえすればいいや と「先生」と呼び掛けた。
他の先生は気づいてあいを見たけれど担任教師だけがあいを見なかった。あいは歩きながらもう一度「先生」と言った。
彼女はようやくあいを見た。
「名前」あいが彼女の前まで来ると彼女は不機嫌そうに唾を飛ばした。
「はい?」
「私の名前、わかる?」
「わかりません」
彼女は溜め息を吐いた。
「佐藤よ」
「……はい」
「あなたみたいな子は始めて持ったわ」
彼女は少し寂しそうに呟いて引き出しの一番下から薄い黄色の紙を引き抜いた。それをあいにつき出す。あいはそれを受け取り簡単に視線を走らせると二つ折りにして左手に持った。
「いろいろ大変だろうけど頑張ってね」
それは彼女としては深い意味合いを持って言った言葉ではないとわかっていたけどあいの視線は自然に鋭さを帯びていた。あいは無言で彼女に背を向けて職員室を出た。
桜の花の薄いピンク色が目についた。まだ少ないながらあざやかに咲いていた。
自転車に跨がりながらあいはそういえば彼女の名前はなんだったかなぁ と頭の隅で考え初めた。