プロローグ 小さな天使
カーナビに従って狭い道を選んで行くと時機に港に出た。そこでブレーキを踏み込み車を止める。
「あの子は?」
狭い車内で男は声を潜めて振り返ればすぐにわかるその様子を、隣に座る女に尋ねた。一度でもその姿を見れば決心が鈍ってしまう気がしたのだ。
「大丈夫、よく寝てるわ」
女は後部座席を振り返って彼女の小さな天使の姿を確認する。薄いピンク色の頬をして幸せそうな表情で静かに寝息を立てていた。
子供を連れての遊園地からの帰り道だというのに、男も女も表情は固かった。
二人はこの世の影が全て集ったような暗闇の中にあった。
「この子は俺達を恨むかな……」
「恨むでしょうね…… だけどどうしようもないじゃない。この子を残して行くのもかわいそうでしょう?」
「それもそうか」
男は自分を納得させるように小さく頷いた。
「……じゃあ」
「ええ、行きましょう」
男は何かを祈るように力を込めてキーを回した。エンジンがかからなければいいのに、と思ったのかもしれなかった。
エンジンが数度空転した後にゴゴゴ、と安定した低い音を鳴らし始めた。男はアクセルを踏み込んだ。スピードメーターが急激に振れていく。男は女の肩に腕を回した。フロントガラスを見ていなかった。そんな必要はなかった。その道が途絶えていることも知っていた。
ドバァン!
轟音を立てて車は冷たい海水の中に飛び込んだ。
男は目を閉じてしっかりと女を抱き止めキスをした。
女は目を開けて車内の空気が一気に出ていくのを見ていた。
彼女の天使がドアのロックを外して外に出ようとしていた。彼女は一瞬その足を掴んで引き止めようと手を伸ばしたが寸前のところで思い直し、その手を男の背に回した。
二人はしっかりと抱き合ったまま古びた車と共に、深く、暗い海の中へと落ちて行った。