1・婚約破棄って本気ですか?
「リーア・ルスコ子爵令嬢。君との婚約を破棄させてもらいたい」
華々しく飾り立てられ、たくさんの人々が笑いさざめく舞踏会の中で、その言葉だけがいやにハッキリとよく聞こえた。
声のした方を振り向けば絶望に顔を青くした世界で一番可愛らしい少女……私の妹のリーアが、震えながら一組の男女に対峙している。
男は妹の婚約者であったはずのヨアキム・ロイマランタ侯爵子息。線の細い、やや神経質そうな金髪碧眼の美しい顔立ちをしている。そしてその腕には妹ほどではないが可愛らしい顔立ちのエリサ男爵令嬢が貼りついている。
本来だったらその隣にいるべきなのは、婚約者のリーアの方だというのに。
「そ、そんな、ヨアキム様……嘘でしょう……?」
悲壮感に瞳を揺らすリーアは散りゆく花のような儚さを思わせた。
はー、私の妹が今日も可愛すぎる。本当にどんな表情をしていても可愛い……けれども、こんな顔をさせた馬鹿は許しがたい。
ロイマランタ家からの申し出で婚約した三年前からずっと、彼は事あるごとにリーアを罵った。彼に気に入られようと着飾っても、やれそんな派手なドレスはお前に相応しくないだのもっと似つかわしい地味なものにしろだのと、一言も褒めたことがなかった。
さらに交友関係にまで口を出し、他に話し相手がいなくなった彼女はよりヨアキム様だけを追いかけたけど、その努力が今日まで実る事はなかった。
(玉の輿といえば聞こえはいいけど、結局はお相手の理不尽に逆らえない。つり合いのとれない結婚など不幸の元だと言ったのに、お父様が侯爵家の財産に目がくらんでいたから……!)
親に押しつけられた婚約だというのに、リーアは本当によく耐えていた。
それでも黙って耐える妹があまりに不憫で、罰せられるのを覚悟でヨアキム様に直談判した事もあった。だけど彼は馬鹿にしたように薄笑いを浮かべるだけで全く相手にされなかった。はるか格下の子爵家の、さらに嫡子でもなんでもない私にそれ以上何が出来ただろう。
(ああ、悔しい! 私にもっと力があったなら……!!)
妹もまた、ただの子爵家の娘にすぎないと軽んじられているのだろうか。
リーアは頭の回転が良くて詩の暗唱をしたり外国語を話したりすることも得意だったし、マナーも気遣いもできる自慢の妹だ。それなのに身分が高いからというだけで偉そうな態度をするヨアキム様が、私は本当に大嫌いだった。
すぐに助けに行かなければと駆け寄ろうとすると、大勢の人達が壁となって行く手を阻んでいる。
「あ、あの、ちょっとどいて頂けませんか?」
「しっ! 今良い所なんだから、割り込むなよ」
(くっ……なんて邪魔なの! 全員ハイヒールの踵で足を踏んづけてやりたい……!)
一体何事かと遠巻きに、しかし食い入るように三人を見ている人垣が何重にも立ちはだかる。夜会で婚約破棄などという不祥事にこの先どうなるのかと瞳をギラつかせている。
出来る事なら人を押しやって前に進みたいが、遥かに身分の高い人々の、万一汚してしまったりしたらとんでもない金額になるであろう盛装を前にわずかに怯んでしまう。
そんな風に人垣に邪魔されている間にも馬鹿男の断罪劇は進んでいく。
「いいか、お前は今後……」
「お、お待ちください! 一方的な宣言など酷すぎます!」
騒動の近くにいたお父様がリーアを庇うように前に出る。僅かに期待するが、父は娘より遥かにお金を愛する守銭奴だった。
「ヨアキム様にこんな場所で大々的に婚約破棄されては、娘は貰い手に困るでしょう。こうなったからにはたんまり慰謝料を頂かなくては」
「お、お父様、そんな……」
「ふん、慰謝料だと? 図々しい、支払って欲しいのはこちらの方だ。そうだろう、エリサ」
ヨアキム様が視線を向けるとエリサ様がこれみよがしにわっと泣き縋った。
「そうですとも、ヨアキム様! これまでにも私は何度もリーア様から嫌がらせを受けているのです!」
「そ、そんな馬鹿な……。娘が、リーアがそんな事をするはずがありません」
お父様はリーアを信じているわけではない。
たとえ目の前で嫌がらせをしていても、賠償金を払いたくない一心で嘘をつくこともいとわない、そんな人だ。
「証拠だってあります! ほら、私を脅迫する手紙もここに!」
だからエリサ様が手紙の束を見せつけてくれば、簡単に黙ってしまう。そんな態度をしたらますますリーアが悪者になってしまうのに。
エリサ様は証拠などと大層な事を言っているけど、掴んでいる手紙に子爵家の家紋が入っているわけでもない。そこらで手に入れられそうなよくある手紙に見えた。妹の無実を信じる私からすればちゃちな作り話でしかないが、問題はヨアキム様がどう思うかだ。
エリサ様はもちろん、我が家にとってもはるかに上位である存在のロイマランタ家が黒だといえば白いものでも黒にひっくり返る。理不尽だけどそれが貴族社会だった。
「ち、違います。私はそんな事……お願い、どうか信じて下さい」
「まあ! 私が嘘をついているとでも言うのかしら。ヨアキム様、私を信じて下さいますよね?」
(ああ、ヨアキム様がリーアを信じるわけがない……)
私は見届けるまでもなくわかりきった結末に気が遠くなりそうだった。
腕に婚約者ではない女を貼り付けている男が、どうして今更リーアの味方をしてくれるというのだ。
歯噛みしている私達をあざ笑うようにエリサ様が突然ぱっと明るい顔になった。涙の跡のない目尻を見るに、やはりウソ泣きだったらしい。
「ねえヨアキム様。婚約破棄されたリーア様はきっと次のお相手を探すのにとても苦労するでしょうね。せっかくだから教えて差し上げたらいかがですか? あの獣人の国から向こうに嫁ぐことの出来る令嬢を探して欲しいと依頼されている、例のお話ですわ」
「エリサ、その話の事は……!」
会場がザワリとどよめいた。
この国の隣に『獣人』と呼ばれる種族の者達の国がある。彼らは人間に近い容姿をしているけれど、体のどこかに獣の耳や尾、羽や尾などを持っていて、通常の人間には持ちえない視力や聴覚などの優れた特性を持っている。数年前に我が国と協定を結んでいるし、それ以前から市井の中ではまれに見かけることもあった。
それに実はウチに出入りしている商人の中にもウサギの獣人がいて、いつもとても珍しい品を持ってきてくれるので重宝していた。お父様達には内緒でお話を聞かせてもらった時もとても穏やかな人で、皆がまことしやかに囁くケダモノのような獣性を持っているようにはとても見えなかった。
(だけど獣人の国に嫁ぐなんて、そんな……!?)
まだまだ偏見が強い貴族の中で誰がそんな事を承知するだろうか。
同じように感じたのは私だけでは無いようで、他の貴族達も顔を見合わせてヒソヒソ囁き合っていた。
「獣人は気性が荒いというけれど、大人しくしていれば多分食い殺されるようなことはないはずですわ。お相手はとても身分の高い方だという噂ですし、きっとリーア様にぴったりのお話ですわよ」
おーほほほとエリサ令嬢が高笑いする。
そんな話は初耳だ。恐らく正式に話が決まるまで情報統制していたのだと思うけれど、日頃から空気を読まないエリサ令嬢は得意満面にペラペラと喋っている。その横でヨアキム様が余計な事を言うなと焦っていたけれど、こんな人になんでもかんでも教えてしまったのは彼自身の責任だ。
なんて愚かな人達だと失望するけれど、自分の知らない情報を聞かされたリーアはそれなりにショックを受けているように見えた。
「ヨアキム様、お慕い申し上げておりました。ですが……貴方は私に、別の誰かに嫁げとおっしゃるのですね?」
リーアの瞳からポロリと涙がこぼれ落ち、その後に儚げな笑みが残った。
「かしこまりました。貴方がそう望まれるのでしたら……私、獣人の国へ参ります」
(やめて、まだ諦めないで!!)
妹の側に行きたいのに、行く手を阻まれて先に進めない。くやしい、私がもっと高位の貴族だったなら彼らの方から道をあけてくれただろうに……!
「先ほどからなにやらお困りのようだが、手助けが必要か?」
突然、斜め上方から低い声が聞こえた。
顔をあげると、ずいぶんと大柄な青年が一人立っていた。見かけない顔だが着ているものは上等で、明らかに高位の貴族のように見える。少し風変わりな様相をしていて、もしかしたら外国のお客様なのかもしれないと思った。
「あのう! もし可能でしたらちょっと私を後ろから押して下さいませんか?」
「押す?」
青年は首をかしげた。
貧乏子爵家の私が高位の方々を押しのけるのは厳禁だが、彼らよりも(多分)さらに高位の誰かが私を押したなら、それは不可抗力といっていいだろう。
そうだ、それしかない!
「どうしてもあの場に行かなければいけませんの。この際髪が乱れようがドレスが破れようが構いませんから、さあ、グイッと思い切り!」
「それは構わないが、ずいぶんと必死だな。よほどの野次馬根性なのか?」
ちょっ……失礼な!
「私、あの子の姉ですの」
キッと睨み返すと青年はふむと頷いた。
「憎い妹の断罪を、最前列で見たいということだな」
「そんなわけないでしょうがあああ!! 可愛い妹を助ける為です! 決まっているでしょう!」
ああ、思わず全力で突っ込んでしまったわ!
無礼を働いてしまったと怯えたが、青年はあまり気にしていないようだった。
「何故妹だからと助ける?」
あ。なんかちょっとうっとうしいなこの人。
一向に協力してくれなさそうな貴人に興味を失い、再び人垣の壁をなんとか無礼にならないように進めないだろうかと思案する。
……いっそ後のことなどなりふり構わず、体当たりで強引に道を作るしかないのかも。
「妹とはいえ別の人間だろう。どうしてそんなに必死になるんだ。相手は自分より身分が高い相手なのだから、逆らわずに居た方が得策じゃないのか」
「ちょっとそこどいて下さいね。助走をつけないといけないので」
「それにあの男の言うことがもし本当だったら? お前の妹は間違いをおかしたのかもしれない」
「ええそうですわね、そこにいると蹴とばしますわよ」
「証拠もなく信じられる理由は?」
「家族だからです」
「血が繋がっているから? 人間は家族同士でも殺し合うじゃないか」
(あー、もう!!)
私はぐるりと振り返った。
「幼い頃からあの子を知っているからです。血が繋がっているから無条件に信じているわけでも、だから可愛いと思っているわけでもありません。あの子がどんな個性を持っているのかを理解した上で、そんな事をするはずないと信じているからですわ。わかったらすっこんでいらっしゃって!!」
カッとなった勢いでまくしたてると、しつこくわめきたてていた青年の目が驚きに見開かれた。見開いたその虹彩が、一瞬縦長になったような気がしたが、見間違いかなにかだろう。
青年はすぐに表情を戻すとニヤリっと笑った。
「そうか、質問に答えてくれてありがとう」
「どういたしまして!」
「そうそう、あそこの野次馬をどければいいのだな。そんな事は造作も無い」
青年がふ、と鋭く息を吹くと同時に突風が起こった。
「きゃああ!!」
「わああ、な、なんだ!?」
すっかり意識を断罪劇にとられ、前のめりで鑑賞していた貴族達は足をもつらせバランスを崩し、無様に転げ回っていた。
(え……? な、なんなの一体……!?)
「さあ、行くがいい」
青年の瞳には何かを見定めるような、推しはかろうとする期待のようなものが込められているように感じた。
い、いや今はそんな事どうでもいい。これはチャンスだ!!
人垣が消え、私はようやく妹の側に駆け寄った。
「リーア、もう大丈夫よ!」
「レ、レベッカお姉様……」
妹に駆け寄るとその小さな体をギュッと抱きしめた。その震える背中を撫でながら、ぐっと顔をあげて浮気で軽薄な敵を睨みつけた。
(おのれ、ヨアキム・ロイマランタ侯爵子息! 許すまじ!)
普段は地味で温厚と言われている私だけど、可愛い妹のためなら話は別。このまま悪役を押しつけられたまま泣き寝入りなどしてたまるもんかと気合を入れた。