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にこいち(ツインソウル)・・・ありそうでない、なさそうである・・・?

作者: ninjin

 妻と別れて二年。最近、やっと一人の生活に慣れてきた。いや、慣れてきたのではなく、以前の生活に戻ったと言った方が正確か。

 そう、妻と出会い、『結婚』という共同生活を始めるまで、僕はずっと一人だった。

 『子どもの頃、親は?、兄弟は?』、そう思われる方がいらっしゃるかもしれないが、それも(まさ)しく、無かったのだ、僕には。

 僕は物心つく前から、養護施設暮らしだった。親の記憶はない。そして、兄弟もいない。

 決して施設で孤独な寂しい生活だったとか、辛い目に遭ったとか、そんな事を言いたい訳ではないのだ。寧ろ、施設では施設長をはじめ、保護司の先生方、同じ境遇の仲間達には感謝こそすれ、恨みや憤りを感じたことはない。

 それでも、そこはどこかしら、所謂(いわゆる)一般の『家庭』とは違うのだろう、そういう思いを抱えて幼い日々を過ごしていたことは否めない。

 勿論、四六時中そういった感覚に(さいな)まれたり、寂しさを感じていた訳ではない。

 ただ、ふとした時、それは小学校での授業参観や運動会だったり、クリスマスイブの日だったり、そういった何かしらのイベント事の折、ちょっとした違い(他の子との)を感じることがあったのは事実だ。

 子どもながらに、いや、子どもだからこそ、「何故?」「どうして?」そんな堂々巡りの感情だけが大きくのしかかってくる時は、僕は決まって施設の(にわ)(はずれ)にある銀杏の木に登って夕陽を眺めた。

 夕陽は不思議だった。

 あの真っ赤な太陽が、明日の朝は、薄黄色の靄を(たずさ)えて、反対の東側から昇って来るのだ。同じ太陽の筈なのに、それは、全く新しいものに再生して戻って来る。

 その太陽を見詰めながら、僕は思ったものだ。

 今日のことは、今日で燃え尽きてしまえばいい、そして、明日の朝は、何事も無かった様に一日が始れば良いのだと。


 妻と別れる原因、切っ掛けを探そうとしても、『これだ』というものが思い付く訳ではない。強いて言えば、世間でよく言われるところの『性格の不一致』、ということになるのだろうか。

 しかし、それにしたって、そんなあやふやな言い訳じみた理由付けにも、今一つピンと来ないし、恐らくその理由は、僕等にはまったくと言って良いほど当てはまらない。

 それでも僕たちは、離婚という選択をした。

 それが正しかったのか、間違っていたのか、そんな事は問題ではないのだ。

 彼女はもう、僕の傍らには居ないし、僕も彼女に寄り添うことは出来ない。そういう選択をしたという事実だけが在る。そういうことだ。

 僕の思い違いでなければ、実際に何がそうさせたか、それは僕には分からないし、恐らく彼女にも確かなことは分かっていないのではないかと思う。

 金銭感覚がお互いにズレていたかと言われても、それにしたって不満があった訳ではない。共働きで、子どもは無く、稼ぎは私の方が歳の分若干多いくらいで、二人の収入を合わせて、生活するには充分だったと思う。

 万が一子供を授かっても、僕の収入とこれまでの貯蓄で、充分とはいえないまでも、それなりには生活できる水準だった筈だ。

 共働きで夫婦間のすれ違いがあったかというと、それもあまり感じてはいなかった。

 では、何故、『別れる』『別の道を生きる』という選択に至ったのか。

 あの日、二人で映画を観に行った。それがこの選択をする最後の引き金を引かせたことには違いなかった・・・。

 強いて言えば、それは、お互いが、余りにも似通ったもの同士だったからかも知れない。

 似たもの同士・・・だったから、か。そうか、そうなんだろうな・・・。二つで一つ、ではなく、似ていただけ、だったのかも知れない・・・。



 僕が初めて彼女に出会ったのは、僕が二十一歳で、彼女が十七歳、夏の少し前だった。

 大学四年生の僕は、その高校で教育実習生として、約一カ月間の実習生活を送ることになっていた。

 特にその高校に所縁(ゆかり)があった訳ではない。僕は養護施設の出身である。施設の在る地元の高校での実習という選択もあるには在ったが、あまりそれには気が進まなかった。

 別に高校時代に良い思い出が無いとか、施設での生活を思い出すのが嫌だとか、そういったことではないのだ。

 ただ、地元といっても、親しくしている血縁が居る訳でもなく、一カ月間の宿泊先を確保するのが難しい。養護施設には迷惑を掛けたくはない。ならば、現在の住まいである大学寮から通える実習先を選ぶ方が無難だと考えた結果でしかない。

 ただそれだけの理由だ。

 後になって考えると、恐らくだが、養護施設の施設長はじめ先生方が、僕が実習の為に一ヶ月世話になったところで迷惑などと思わなかっただろうし、実習先になる母校の先生方も、僕を暖かく迎え入れてくれたであろうことは、想像に難くない。

 それでも当時の僕は、頑なにその選択肢を拒んでいたというのは、紛れもない自分の意思であったと思っていた。

 但し、本当に、『自らの意思』であったかどうか。それは、否、である。

 何故なら僕は、国立の大学に入学し、教職を得るために教育実習に通う自分を、誰かに認めて欲しかったし、褒めてもらいたいという願望が、心の奥底に確かに在ったのだから。

 しかし、人は(僕は)、往々にして真の欲求、若しくは願望とは真逆の行動を起こす。

 それは自らの弱さを隠すための自己防衛反応であったり、気恥ずかしさ、天の邪鬼(あまのじゃく)的な行動様式。

そして、自分自身の心は、そのことを十二分に理解した上で、敢て自らを正当化すべく、『他人に頼らない』『他者に迷惑を掛けない』自分を、(こと)(さら)に主張したがる。

 いや、弱さを隠すというよりも、今迄もそしてこれからも、自らの『弱さ』を認めてしまっては、頼れる他者を保持しない僕は、生きていく術を失うという恐怖心があったのかもしれない。

 兎に角、当時の僕は、周りの人間に弱さを見せること、同情されること=この先の人生に於いての決定的な弱点=死に繋がる、そう思い込んでいた。

 そしてその僕の強弁は、僕の生い立ちを知る者、知らない者を含めて、(おおむ)ね肯定的に捉えられていたと思う。「あいつは頑ななりに、確りとした意思を持っている」と。

 一人の彼女、そう、(つむぎ)を除いては・・・。


「先生、ちょっと、質問があるんですけど・・・」

「え?僕、ですか?」

 実習での初の一人授業を終え、教室後方で待つ国語の指導教官のところへ向かおうとする僕に、一人の女生徒が話しかけてきた。(たちばな) (つむぎ)だった。

「はい、先生にご相談したいことがあるんです」

「え、質問?それとも相談?でも、僕は実習生なので、進路のこと、生活指導のことなら、本来の担当の先生に相談した方が良いと思いますよ」

 僕は上手くはぐらかそうと、(つむぎ)から目を逸らし、指導教官の方に視線を移した。タイミングが悪いことに、指導教官も別の生徒に捕まっており、こちらの状況に気付いてはいなかった。

 僕は諦めて、紬に向き直る。もし難しい話なら、放課後に担任か科目担当の教師のところへ行くように促せばいい。

「ええっと、確か、(たちばな)さん、だったかな?」

「はい、(たちばな) (つむぎ)です」

「うん、じゃあ、橘さん、質問って何でしょう?」

「はい、でも、『質問』というより『相談』に近いと思うんですけど、今ここでは長くなりそうなので、放課後、職員室に行っても良いですか?」

 あ、いや、放課後に直接職員室で相談かぁ、それは困ったな。ん?待てよ、その方が好都合か。彼女か来たその場で、他の専門の先生方に引き継ぐことも出来るか。

 そう考えた僕は、紬に答えた。

「分かりました。では、放課後、職員室で」

「はい」

 (つむぎ)はニッコリと笑って、踵を返し、自らの席に戻って行った。

 僕は少しばかりホッとして、再度、教室後方に目を遣ると、指導教官は既に教室から出て行ったようだった。僕も慌てて教室を後にした。

 何故か、紬の笑顔が気になっていた・・・。いつか、何処かで・・・。



 六限目の授業は再び指導教官の助手というポジションで、教室の脇でメモを取り、そして教室の通路を歩き、個々の生徒のちょっとした質問に答える。

 50分の授業が、一人で講義をするのと比べて格段に長く感じる。それでも、指導教官に監視されながらの一人授業よりは、緊張感も無く気が楽ではある。

 この先、あと残りの一週間は、一人授業のコマばかりが続く。

 そう考えると、少しばかりのやる気と、膨大なプレッシャーを感じてしまうが、それは教職を取得する者誰しもが通る道なので仕方がない。

 長かった六限目を終え、職員室に戻ったのが午後四時少し前だった。

 これから生徒たちは教室の掃除を行い、帰りのホームルームを終えると、各々部活動、帰宅、三年生は受験の為の補習へと移行する。

 僕はといえば、他の教育実習生たち三人と主任指導教官を交えての懇談があるのだが、この、毎週二回(水曜日、金曜日に)行われる懇談会はあまり乗り気がしなかった。

 何故なら、僕以外は三人ともこの高校出身の同窓生だったからだ。

 三人がひと固まりになって、僕が疎外感を味わう訳ではない。寧ろその方が良かったとさえ思える。実際はその逆なのだ。

 三人は三様に、僕に何かと気を遣ってくれるのだが、それが僕にとっては余計なお節介でしかなかった。

 現在通う大学、出身地、出身高校などの質問攻めに始まり、趣味や食べ物の好み、彼女は居るか、将来は地元に帰るのか、こちらに残るのか、今日の夕食の予定は?、週末一緒に飲みに行こう、この実習期間が終わったら連絡を取り合って、皆で遊びに行こう。そんなことを懇談で集まる度に、三人が三様に僕に投げ掛けてくる。

 そういったことは、一人だけ色合いの違う人間に対しての気遣いであって、一般的には感謝こそすれ、『迷惑』などとは思っちゃいけないことなのであろうことは、僕だって頭では理解しているのだ。

 だがしかし、自らの生い立ち上、他人(ひと)との距離感が上手く計れない僕にとって、それはどこまでが本気の質問なのか、どれ程の答えを返せばいいのかが分からずに、戸惑うことの方が多かった気がする。

 要するに、僕は彼等との付き合いにストレスを感じていた、そういうことだ。

 彼等だって、本気で僕に興味があったり、親切を施したりしようとしたわけではなく、一般的な社会通念上の『共同体意識』の発露として、異質である僕に対しての『善意』だったに違いない。

 しかしながら、心が狭いと言うか、大人に成りきれていないと言うのか、その社会的行為を、頭では分かっていても心が受け付けない僕にとっては、彼等の方が如何にまっとうであったにせよ、それを素直に受け入れられない自分が居た。

 他者から『善意』や『好意』を向けられると、僕の心の中では『僕は一人で生きていける』『誰ともなれ合いには成らない』『他人(ひと)に頼ることはしない』『最初から仲間など居ない』、勿論ハッキリと言葉にすることは無いのだが、そんな感情が渦巻くのだった。


 そして今日も、懇談の為に談話室に向かう僕の足取りは、いつも通り重い。


 談話室に向かう為、職員室を出ようとしたところで、ちょうど職員室にやって来た橘 紬とバッタリ鉢合わせになった。

「あ、先生」

「あ、橘さん」

 二人まったく同時にお互いを呼び合い、少し変な空気になる。

 僕は紬との約束を忘れていた訳ではないが、来るのは懇談会の後くらいだろうと思っていたし、懇談会の最中に来たのであれば、別の先生が代わりに対応してくれるだろう、それくらいに思っていた。

 紬は紬でどう思ったかは分からないが、何とはなしに『ひょっとして、私との約束、忘れてました?』と、少しばかり非難の色合いをした視線を、僕に向けているようにも感じられた。

 どうしたものか、もう既に懇談会メンバーは談話室に集まっている筈で、僕が行けば、直ぐにでも始まるに違いない。そして、懇談会が始れば、恐らく一時間くらいは掛かるであろう。

 僕は職員室を振り返り、国語の指導教官を探したが、見当たらない。他の国語教師も、その日に限って職員室には一人も居ない。

 弱ったな・・・。

 すると、どう対応していいものかと迷っている僕より先に、紬の方から口を開いた。

「先生、これから何かご用事ですか?もしそうでしたら、また後で伺いますけど・・・どれくらい後に来ればいいですか?」

「あ、いえ、あ、そうですね。これから・・・」

 あたふたと答えに窮する瞬間、ふと、違う考えが浮かぶ。

「あ、橘さん、ここでちょっと待っておいてください。直ぐに戻ります」

 僕は紬にそう告げ、その場を離れようとした時、

「あ、大丈夫です・・・」紬

「あ、大丈夫だから・・・」僕

 また二人は同時に同じ言葉を発していた。

 お互いに何が『大丈夫』なのか、恐らく深く考えている訳ではない。

 僕はそのまま紬をその場に残し、小走りに、校長室隣の談話室へ向かった。

 談話室の前で、『これから上手に嘘を吐く』心の準備を整えて、扉をノックする。

「はい、どうぞ」

「失礼します」

 そう言いながら扉を開けて中に入ると、その瞬間に、主任指導教官と僕以外三人の教育実習生達のにこやかな視線が一斉に僕に集まる。

 もう既にこの状況が、僕にとっては居心地が悪いのだ。

 主任指導教官が促す。

「さて、では皆揃いましたので、始めましょう。さ、今村先生も、席に着いて」

 しかし僕はその場に立ったまま言う。

「あの、すみません、先生。実は、今日、私が担当した授業で、生徒の一人が授業についての『質問』があるとのことで、今、職員室に来ておりまして、ちょっとそちらを先に済ませる訳には・・・」

 主任指導教官は「ほう」と、僕にはどういう意味かは分からない声を上げ、再びニコリと笑って、「では、今村先生はそうしてください。早く終わって、戻れるようでしたら、戻って来て、時間が掛かるようでしたら、後で私のところに、今日までのレポートを持って来て下さい。今日の懇談会の議事録は、その時お渡しします」、そう言った。

「ありがとうございます。では」

 僕は一礼をしてから、踵を返して談話室を後にしようとした。

「あ、今村先生、因みに、その生徒というのは?」

 僕は再度振り向き、「ええっと、二年三組の、橘 紬さん、です」、そう答える。

 一瞬、主任指導教官の表情が曇ったような気がしたが、僕の気のせいだったのかもしれない。


「お待たせしました」

 僕が職員室の入り口で待つ紬に声を掛けると、紬は少しばかり神妙な面持ちで「良いんですか?」と訊ね返して来た。

「え?良いんです、良いんです。気にしないでください。僕も少し助かりました」

 つい本心が口に出てしまって、『しまった』とは思ったが、そんな僕を見て、紬は如何にも嬉しそうな笑顔に表情を変え、小さく「よかった」と、呟くように言った。そして直ぐに今しがたの僕と同じように『しまった』という感じに瞳を泳がす。

 不思議な感覚だった。

 先ほど、職員室前で鉢合わせした時に、同時にお互いを呼び合った瞬間、それから、紬を残して談話室に向かった時の『大丈夫』という言葉、それから今の『しまった』という表情・・・

 決して嫌な感じや、気味の悪い感覚ではなく、それはデジャブにも似た懐かしさを覚えるような、奇妙ではあるが心地よい感じさえした。

 紬も同じような感覚を共有していたのか、紬の方から僕の目を覗き込むように、彼女の視線を僕に合わせて来て、その瞳は少しの意地悪さと、幾らかはにかんだような嬉しさを含んでいるようだった。

 そこの仕草は僕とは明らかに違う部分ではあった。

 僕は自分から他人に対して視線を合わせに行くことは出来ないから・・・

「先生、じゃ、もう良いんですね?」

「あ、ええ、大丈夫です。では、職員室の僕の席に行きましょう」

 僕がそう言って紬を促しながら、先に職員室に入って行こうとすると、紬はその場に立ち止まったまま、付いてこようとはしない。

「どうしました?」

 付いてこようとしない紬を振り返りながら声を掛けると、紬は「すみません」と言う。

「さっきは、職員室で良いかなって、思ったんですけど、考えてみたら、私の相談って、ちょっと変かも知れないので、他の先生に聞かれたら、ちょっと嫌かなって・・・。教室とかじゃダメですか?それか、若しくは校外のファミレスとか?」

 いやいや、ちょっと待て。

 百歩譲って教室はありかも知れないが、ファミレスは無しに決まっている。

 不味い展開になっているような気がする。

 おや、でも、よく考えてみろ。まだ就業中の身である僕にとって、ファミレスは当たり前にNGだが、こっちにその気が無ければ、何も問題は起こり得ないのではないか?

 それにだ、まだ相談内容の一つも聞いていないではないか。僕が勝手にこっ恥ずかしい妄想を膨らませたに過ぎない。

 一瞬でもバカな想像をしたことを恥じるような気持ちのまま、流石にこの(いたい)()な女子高校生に詫びる気持ちもあり、僕はある意味勇気を振り絞って、こちらから紬の瞳に僕の視線を合わせにいった。

 するとまた、同時にお互いの視線が合い、そして同時に(恐らく紬にも)お互いの考えていることが分かった。

 紬は『おかしな言い回しで、変な誤解を与えてしまったみたいでごめんなさい』

 僕は『勝手におかしな妄想をしてしまって、申し訳ない』

 僕には紬のことが分かったし、紬にも僕の(よこしま)な妄想が伝わっていたのだろう。お互い、合わせた視線の手前で、妙な気恥ずかしさと相手に対する申し訳なさ、そして、何とも言えない『共鳴』を覚えていた。



「先生は、どう思いますか?」

 どう思うかと訊かれて、僕は答えに困る。

 二年三組の教室の教卓を挟んで差し向いに座る紬に、僕は『この子に対して、どう答えるのが正解なのだろうか』、そう考えながら、自分でもその答えを探っていた。

 決して100点の答えでなくても良さそうだし、果たしてそんな答えが在るのかさえも怪しいのだ。

 紬が言うのは、所謂『ソウルメイト』についてであった。

 僕は実際、そんなものは信じてはいない。けれど、思春期の女子高校生に対して、無下に『そんなものは無い』と答えてしまうのはどうかという思いが、この二人の会話を奇妙奇天烈なものにしてしまうという一面もあった。

たまたま大学一年生の時に履修した『哲学・心理学概論Ⅰ』の中で、プラトンによる嘗て両性具有だったものが二つに引き裂かれた片割れ同士としての原論から、哲学者サミュエル某と詩人ワーズワース義妹の話、そして近現代に於ける心霊診断家エドガー・ケーシーによる『繰り返す転生の中での片割れ探し』とカルマの克服まで、哲学・心理学のあくまでも傍論として、ひと通り解説を受けていたことを思い出していた。

 しかしそれは、ただ単に、そういった説を唱えた変わった歴史上の人物が居た、そしてそのことについての科学的根拠は何一つなく、ただの空想世界の話、その程度の認識だった。

 簡単に言ってしまえば、僕の認識としては『精神世界』=『ファンタジー』=『宗教』=『絵空事』≠『科学的証明による事実』『現実社会』、ただそれだけの話で、ファンタジーとしては興味深いので、覚えておいて損は無い、いつか話のネタくらいにはなるだろう、そんな感じで記憶していたに過ぎなかった。

 実は紬からの最初の質問で、僕は決定的な選択ミス(?)をしていた。(いや、その後の人生に於いては、正解だったのかもしれない)

「先生、『ソウルメイト』って言葉、ご存知ですよね?」

 そうなのだ、この最初の質問に、僕は「いえ、知りません。知らないので、教えてください」、そう言えば良かったのだ。

 しかしながら、僕は「ええ、勿論知っています」と、全く逆の答えをしてしまった。

 確かに知っているのに「知らない」と、嘘を吐くのは良くはないことなのかもしれないが、僕が『知っている』と答えたのは物事の良し悪しではなく、女子高校生からの質問に対して『知らない』と答えてしまうことが恥ずかしいことのような気がするという、何とも間の抜けた可笑しなプライドの為だったと思う。

 紬の知識は恐らく、何かしらの占いやスピリチュアル本に影響されたのだろうと思われたが、彼女の真剣な眼差しを、やはり否定的な言葉で遮断するのは(はばか)られる。

 そして、僕も止せばいいのに、大学で聴いた自分の薄っぺらな『ソウルメイト』についての知識を、紬に話して聞かせた。

 案の定と言うべきか紬は、哲学的でもなく精神性の欠片もない、その代わりに学問的無機質な僕の話に食い入り気味に聞き入っていた。

 僕が言いたかったのは、実は『そのような考え方は、太古の昔から存在するが、誰も証明できていない』ということだったのだが、紬はそうは捉えなかったし、寧ろ却ってそのことについて俄然興味を持ち始めた感じさえした。

 然も紬は、僕の話の後、何か確信めいたものを感じたらしく、何故だか僕を質問攻めと説得工作の渦に巻き込んでいく。

「ね?先生。先生にも分かっている筈ですよね?」

「え?何がですか?」

 僕ははぐらかすことに必死になっていた。

「だから、今、どうして、こんな話をしているかってことです」

「・・・・・・」

「ダメですよ、黙り込んではぐらかそうとしても」

 読まれている。

「私には分かっているし、先生だって本当は気付いている筈です・・・」

 何を言っているのか、本当に解からない。

 違う。想像はつく。恐らくは・・・

 けれど、その『恐らく』の想像が、当たっていても外れていても、僕が困った状況になることに変わりはない。だから、こちらから答えを出すことが出来ない。

 それが分かっていて紬は僕を困らせようとしているのだろうか。僕の反応を面白がっているのか?

 いや、そんな風には見えない。

 しかし、ちょっと待てよ。何なんだ、この可笑しな感覚は?

 今日、紬と関わってから、何度も起こる、今迄経験したことの無い不思議な状況・・・

 物心ついてから此の方、僕は自分でも意識的に他人が自分のテリトリーに入り込んでくることをあからさまに拒んでいた。そういった僕の態度や所作・行動は、少なからず周りの人間には伝わっていたのだと思う。

 だからこそ、他人は僕に対して最初は表面的な好意や善意は示しても、僕がその最初のコンタクトであまり愛想のない態度をとっていれば、そのうち誰もがそれ以上踏み込んでくることをしなくなった。(ただし、僕が愛想のない態度をとるのは、他人との距離感を計れずにいた結果としての、やむを得ない状況がそうさせているのだが・・・)

 他人との関わりでストレスを感じるのは、最初のほんの一時(相手や集団によって、その一時が一日なのか一週間なのかの違いはあるにせよ)で、それをやり過ごしさえすれば良いだけだった。

 ところが、である。どうやら紬は通常の(一般の?それとも普通の?)人とは明らかに違うのだ。どこがどう違うのかと、それを言葉にするのは難しいが、それでもそれは感覚で分かる。

 初めはまだ幼さの残る彼女の、所謂『無邪気さ』がそうさせるのかとも思ったが、どうもそれとは違うことにも直ぐに気付いた。

 何しろ、僕には紬の考えていることが、手に取るように分かるのだ。

 そしてそれは恐ろしいことに、間違いなく僕の考えていることも、紬には知られているであろうことが容易に想像できた。

 勿論、相手の考えを言葉や文字にして、一言一句の全てを読み取る訳ではない。そして、心理学者でもないので相手の表情や仕草、言葉の抑揚などを注意深く読み解くなどというまどろっこしいことではなく、紬の胸の内の感覚が、彼女が言葉を発した瞬間に、瞬時にこちらに伝わってくる、そういうことだ。

 そのことを紬は、僕が今日初めて感じたよりずっと前から感じ取っていたに違いない。

 僕は恐怖さえ覚え、『・・・気付いている筈です・・・』、そう言った紬をまじまじと見詰めることしか出来ないでいた。

「先生?」

 紬は先ほどまでの、何かを訴えかけるような真剣な表情から一転して、にこやかに微笑みながら僕を見詰め返すのだが、僕には返す言葉すら見当たらない。

「先生、そんなに怖い顔しないでください」

 この瞬間も僕の心の内の動揺は紬には分かっているだろうし、その代わり、僕にも紬に悪意や僕を揶揄(からか)う気持ちは欠片(かけら)もないことは理解できている。

 僕は深呼吸をするように大きく息を吸い込んで、それから「ふーっ」と、敢て大袈裟に紬にも聞こえるように声にしながら息を吐いた。

 もうこれは観念するしかなさそうだ。

「分かりました、橘さん」

 この返答だけで大丈夫なのだ。何せ、紬には僕の心の動きは丸分かりなのだから。

 紬の胸の内が、嬉しさと安堵で満たされていくのが僕にも分かる。

 その先はもう、紬の言葉は単なる音でしかなく、会話というよりも、僕は唯々この空間に身を委ねているだけのような感覚だった。

 決して聞き流している訳ではなく、話の内容も理解はするし、都度、彼女の感情は直接的に僕の中にも流れ込んでくる。

 強いて例えるならば、SF映画などに出てくる、母体の羊水を模した水槽の中で眠る感覚は、ひょっとしたらこんな風なのかもしれない・・・。


「さっき、先生が私に言おうとしていた、『誰も証明できていない』ってことなんですけど・・・」

 そういうことね。紬は僕よりもかなり精度の高い『読み取り』が出来るらしい。

「え、ああ、そのことだったら、それはもう橘さんと僕の間では、問題にしてもあまり意味がないんじゃないかな?」

 僕は正直に思ったままを答える。

 すると紬は少し不思議そうな顔をして、「ホントに?」と僕に訊ねるのだった。

 ここで僕も「おや?」、という気付きがあった。

 そうか、どんなに心が繋がっていたにしても、現在の紬と僕は別人格なのだ。全てを共鳴し、共感する訳ではない。

 相手の気持ちが分かっても、その気持ちに賛同するしないは別の問題であることを悟った。

「ええ、本当に僕はそう思いますよ。何しろ、あなたと僕の間では、既に現実としてそういった事象が存在している訳ですし、『証明』と言ったって、科学者でも研究者でもない僕等にとって、それを証明することに意味があるとも思えないし・・・」

 僕の言葉は半分本当で、半分は嘘である。

 実際に、いま二人の間で起きている事象については、『ソウルメイト』(この言葉が適切かどうかは別として)に於ける共鳴と、惹かれ合い理解し合える現実がここにあり、その現実はそれ以上でもそれ以下でもないことをお互いに理解している、証明する必要のない『当たり前のこと』なのだ。

 しかし、そのことを本気で『証明』しようとなると、ここに来ても未だ、誰かと(それが紬であっても)共同で作業をすることに拒否感を覚える自分が存在し、更にはその先、更に多くの他人と関わらなくてはならないであろう想像が、否定的な意見を言わせている。

 そう、意味が無いのではなく、その意味を見出し、それを他者と共有すること(それは他者と深く関わること)が怖いのだ。

 そのことだって分かっている筈の紬だが、彼女は執拗に僕の説得を試みる。

「でも先生?本当にそうかしら?だって、最初は先生だって、私のことを、ちょっとイタイ女子高校生って、そう思ったでしょ?でも今は違う。ううん、まだ心のどこかで受け入れきれていない部分があるのは分かるけど、それでも、このことがどういう意味なのかを知りたいという欲求が、見えるんです・・・。違いますか?」

 今の紬に抗うことは無理に等しいと瞬時に理解した僕は、諦めて、「うん」とだけ頷くのだが、それは決して、心ならずも言い(くる)められた時の不満感や、論破される敗北感がある訳ではなく、寧ろ何か心の(かせ)が外されたような清々しささえ感じられた。

 紬は続ける。

「実は私も、そんなことは少しも信じていなかったんです。高校生になるまでは・・・。確か中学二年生の時に読んだファンタジー小説にそんな話があって、その時はただ単純に面白いなぁって思って、そのあと、何かの占いの本で、『ソウルメイト』の話があったんだけど、それでもそんなに真剣には考えなくって・・・。先生みたいに、大学でそのことについての講義を受けた訳でもないから、哲学的とか宗教・心霊学的とか心理学的な位置付けとかは分からないんだけど、この一年くらいの間、私、自分でも意識しないうちに、ふと気付くとずっと探してるような気がして・・・。ここ半年くらいは、それが『何』で『誰』かも分からないのだけど、近付いて来ている予感だけがずっと在ったんです・・・。そして、段々その足音って言うか、近付いてくる気配って言うのが大きくなっていって、教育実習で先生が来た時、『あ、この人だったんだ』って・・・」

 一度そこで話を切った紬は、今迄ずっと僕に向けていた視線を、不意に窓の外の校庭の方に向けた。

 僕も釣られて校庭のを見遣る。

 もう随分と陽が傾き、オレンジ色の夕陽に包まれた世界が何とも美しい・・・。子どもの頃に見ていた夕陽は、もっと真っ赤で、その生命(いのち)が尽きるまで燃えさかるイメージだったような気がする・・・。

「先生っ、『夕陽が綺麗だ』なんて言ってる場合じゃありませんっ。もう一時間以上経っちゃってますっ。早く談話室に戻らないと・・・」

 僕も慌てて腕時計を確認すると、時計の針は既に五時半を回っていた。

 一瞬、紬に促されるまま、起ち上がろうとしてはみたものの、直ぐにそれを止めた。

「いえ、もう今から行ってもあまり意味はありません。気にしないでください。ただ、今これ以上ここで橘さんと話し続けることも出来ませんので・・・」

「そうですよね・・・。あの、先生、明日、土曜日はお休みですよね?何か予定はありますか?」

「いいえ、特には・・・。強いて言えば、一週間分溜っている洗濯物をコインランドリーに持って行くことと、後は来週の授業の準備とシミュレーションを少し・・・」

 その先に紬が提案するであろうことは、既に理解している僕は、続けて答える。

「ええ、良いですよ。ただし、学校や他の生徒の目もあるから、隣町の駅でどうでしょう?駅前に『琥珀』っていう小さな古い喫茶店があります。そこに午後二時に待ち合わせということで。お客は大学生ばかりで、高校生や一般の社会人なんかは殆ど来ませんから、そこでなら、周りの目も気にしなくて済むし・・・」

 僕からの提案に先を越された格好になった紬だったが、それはそれで嬉しそうに「はい」と返事をし、

「じゃあ、今日は私も帰りますね。それじゃあ先生、また明日、宜しくお願いします」

 そう言って僕より先に立ち上がった。

「ええ、それでは、明日」

 僕もそう言いながら席を立ち、教室を出ていく紬を見送ってから、職員室に戻った。



 翌日の喫茶店での会話を要約すると、


・『ソウルメイトの証明』といっても、それを学術的に証明する訳ではなく、飽くまでも我々二人が納得できる答えを探すということ。


・現在の二人の関係は、飽くまでも教育実習生とその生徒の女子高校生であって、少なくとも紬が高校を卒業するまでは、それ以上の関係にならないこと。


・どうせお互いに思っていることは筒抜けなのだから、相手に変に気を遣わないこと。


・僕の教育実習が終わった後、何かあった時は、電話や直接会うことは避け、極力SMSかメールでのやり取り、若しくは時間は懸かっても郵便での手紙で済ませること。


・お互いのどちらか一方でもこのことに疑問を感じて、それ以上続けることを拒否した場合は、速やかにこの関係を解消すること。


・それから、このことはどんなに仲の良い友人であっても、親、兄弟(僕にはどれも当てはまらないが)にも、他言無用であること。


・以上のことを遵守することが難しくなったと感じた時も、やはり、この関係を解消する理由とすること。


 大体こんな感じだった。

 そして、『証明』の検証方法を、紬が既に考えて来ていて、僕もそれに同意することにしたのだった。

 紬曰く

「もし、先生と私が本物の『ソウルメイト』だったら、いえ恐らく本当にそうなのだけど、私は私の片割れである先生から離れることは出来ないと思うの。だとしたら、今ここでちょっと難しいとこにハードル設定しても、それをクリア出来ると思うんですよね」

「?どういうこと?」

「分かりません?先生は、私の学校の成績って、知ってます?」

 昨日、学校を出る前に、流石に紬のことが気になって、来週の受け持ち授業の参考にと、(あたか)もそれっぽい理由を付けて、二年三組の生徒の成績表、内申表を確認していた。

 そして、紬の成績が、お世辞にも良いとは言えないことを、僕は知っている。いや、寧ろ、『悪い』方に分類されることを・・・。

「うん、知ってる・・・」

「ですよね?だとしたら、私が、これから、今、この時点から、先生と同じ大学を目指すことって、粗略(ほぼほぼ)、無理ゲーだと思いません?」

 非常に答え難いのだが、お互い『変に気を遣わない』取り決めだ。ここでいきなりそれを反故にすることは出来ない。

「そうだね。それは不可能に近いと思うよ。可能性がゼロとは言わないけど、そこに何かの奇跡が起こるか、それとも君が血を吐くような努力をしない限りね・・・」

 自分でも言っていて心苦しいのだけれど、現状の数値なり評価なりを基に考えると、そう言わざるを得ないのが現実だったりする。

 その言葉を聞いて、紬は如何にも満足げに、「そうなんですよ」と答えた。

 多分、この僕等二人の状況を知らない誰かがこの様子(特に紬が嬉しそうな反応)を見ていたとしたら、かなりイカレた会話に聞こえたに違いない。

「それでも、その目標設定を、私が『必ず先生と一つになる』条件って決めてしまえば、奇跡が起こるか、血を吐かなくても一定の努力とか、何かのラッキーの積み重ねとか、そんなことでクリア出来そうな気がするんですよね・・・、そんな気、しません?」

 確かに面白い考え方だ。僕にとっては何のメリットもデメリットも無いのだけれど、紬にとっての良いモチベーションになることは間違いない。

 紬の瞳には、既にやる気の炎みたいなものが見て取れる。

「先生、ちょっと安心したでしょ?私が変なこと言い出さなくって」

 教育実習生とはいえ、僕もこの先は教師になることを望んでいる人間として、関わった生徒のやる気を引き出すことも大事な仕事だと思う・・・。

 ・・・?おや・・・?何かが変だ・・・。

 紬が変なことを言ったのではなく、僕の方が変だ。

 僕は何か胸の奥の辺りがこそばゆいのを感じたのと同時に、少しばかりの青臭い恥ずかしさと、それとは逆に妙な高揚感を覚えていた。

 何なのだろう?今、僕の気持ちは、非常に『前向き』になっていないか?

 いや、というより、これが『前向き』っていう感覚なのか・・・。

「先生?」

 現在の状況に戸惑いを覚えながら、ついボンヤリと物思いに耽るような僕に、紬の声が突き刺さる。

 僕は慌てて視線のピントを彼女に合わせて、「ごめん、ごめん。ついボンヤリ考え事しちゃったよ」そう言いながら、随分と(ぬる)くなったコーヒーにひと口、口を付けた。

「良いんです、先生。私にも分かります。先生よりちょっと早くから、私の人生も変わり始めましたから・・・」

 ・・・・・・・・・

 そうなんだな。紬も僕と同じ感覚を経験済みだったのか・・・。

 今度は僕の方から紬に質問をしてみる。他人に(もうある意味、紬とは他人とは言えないのかもしれないけれど)、僕の方から、その人個人の質問をすることは、生まれて初めてかも知れない。

「橘さん、当たり前のことなんだけど、君と僕は生まれも育ちも違うよね?それなのに君も、やっぱり僕みたいに、何ていうか・・・。そう、他人に頼らない、とか、迷惑を掛けない、とか、そんな事を考えて生きてきた?」

 僕の言葉に、紬は少し考えてから答える。

「・・・そう言われるとそういった一面もあるし、そうじゃない部分もあります。先生の生い立ちを私は知りませんけど、先生は、学校の資料で、私の家庭環境とかもちょっとはご存知ですよね?・・・多分ですけど・・・私のそれと、先生のそれとでは、随分な違いもあると思います。先生の心の中を感じると・・・、あ、ごめんなさい・・・」

 謝りながら言葉を濁す紬に、僕は昨日から何度目かの同じ気付きを覚える。

 そうだよな、この子には、僕の感情は丸分かりなんだったな。過去のことは知らないにせよ、今この瞬間の、僕の中の心の動きは、手に取るように分かるのだろう・・・。

 しかしそれも、昨日最初に感じた恐怖にも似た驚きとは違って、何だか凄く気持ちが楽なのは、僕自身が一番よく分かっている。

 そして紬が、学校内では他の生徒とは違い、ちょっと異質で浮いた存在だったことも何となく理解した。

 僕は強く生きたいと思う反面、出来る限り自分の存在を消しにかかっていたが、紬の場合、その可愛らしい容姿とも相まって、自らの意思がどうであれ、どうしても目立ってしまったのだろう。

 そこに更には、この物怖じしない性格のことを考えると、昨日、主任指導教官が表情を曇らせたのは、僕の見間違いでは無かったということか。

「いや、良いんだよ。多分、君の思った通り、僕は二十一年間の人生で、かなり、他の人とは違った考え方をしながら生きてきたんだと思う。それが良い悪いは別として、そうしなくちゃ生きていけないって、頑なに思い込んでいた、って言うのが、今言えることなんだと思う・・・」

 紬は声には出さずに、黙ったまま「うん」と、小さく首を縦に動かした。

「それじゃあさ、僕からも一つ提案って言うか、約束をしよう。もし・・・いや、必ず僕もそうなるとは思うのだけれど、橘さんが無事大学に合格したら、一番最初に、僕の生い立ちの話をしよう。多分、君が感じている僕は、特に昨日までの僕は、酷くねじ曲がった性格の人間に見えていると思うけど・・・言い訳をしたい訳ではないけど、その時にはちゃんと知って貰いたいんだ」

 紬は今度は首を横に振る。

「ううん、そんなこと無いです。先生はねじ曲がってなんて無いです・・・」



 喫茶店を出る時、僕はカウンターの中に居た『琥珀』のマスターのTomyさんに、「ご馳走様でした」と、挨拶をした。

 Tomyさんは少し驚いた表情をして見せたが、直ぐに笑顔になり「毎度」と返してくれた。

 そして僕ではなく紬に話し掛ける。

「可笑しな男でしょ?でも心配はしないで。優しい男でもあるから」

 紬も笑顔で「はい」と答えた。

 Tomyさんは続ける。

「私は、この今村くんの、唯一の友達。私の唯一の友達じゃないよ。()()、だよ。ん?逆か?ん?正しいのか?どっちだ?」

 紬が何と答えて良いのやら分からないといった表情で僕を見るので、代わりに僕が答えることにした。

「いえ、マスター、それで当たってます」

 そして僕はクスリと笑う。小さな笑いだったが、それは心の底から楽しいと思える笑いだったと思う。



 一年と半年なんて、長いようで、実は本当にあっという間だ。

 僕はやがて、教職に就いて一年になろうとしていた。

 そしてその日、三月十五日は、紬の合格発表の日だった。

 僕自身も卒業大学の県の教員採用試験に合格し、公立高校の教員になり、自分が受け持つ受験生が居る訳だが、そんなことよりも紬の合否の方が気になるのが正直なところだった。

 学校ではまだ一、二年生の授業は残っているが、三年生が居ない分、その分のコマ割りは各教師とも少なくなっており、受け持ち授業の無い時間帯の教師は、職員室で卒業生からの合否報告を待つことになっていた。

 その日の僕のコマ割りは、午前中に一限目と四限目、午後は六限目のみの授業だった為、午前中の二時間と、午後からの昼休みを含めた二時間が、職員室での電話番だった。

 特に午前中に電話は集中し、僕が職員室に詰めていた十一時過ぎまでに凡そ九十件、そして僕が四限目の授業を終えて職員室に戻った時には、既に百十件を超える合否報告を受けていた。

 まだ新任一年目の僕は担任のクラスは持っていなかったが、それでも教育学部国語科や文学部国文学科を受験する生徒に対しては、教科担任として、科目の受験指導は行っていた。

「今村先生、先生の担当されてた生徒は、全員、報告有りましたか?」

 中堅の世界史教師に訊ねられ、僕は一応確認の為、手元の名簿を指でなぞりながら答える。

「ええ、私の担当の国語科、国文学科系の受験生からは、全員報告入っています。残念ながら、全員合格とはいきませんでしたけど・・・」

「そりゃ、そうですよ。全員合格なんて、そんな事が起こったら、奇跡ですよ」

 奇跡・・・か・・・。

 僕は一年半前に紬に言った「奇跡が起こらない限り・・・」という言葉を思い出した。

 紬からの連絡はまだ無い。

 ジャケットの内ポケットに忍ばせた携帯電話が、やけに気になった。

「あと、報告待ちは何人ですか?」

 教頭の声が職員室に響き渡る。

 少し室内がざわついた後、三年の学年主任がそれに答えた。

「あと八人の報告待ちです」

 更に教頭が問い質す。

「内、合格者は何人ですか?」

 少し間をおいて、学年主任が「三十三人、ですね」、そう答えたが、少しばかり気おくれ気味の声に聞こえた。

 また職員室内がざわつき始める。

 そちらこちらで「三割強かぁ・・・」とか、「残り八人が上手くいっても・・・」などと、どちらかというと悲観した言葉が飛び交っていた。

 僕にとっては教師としての初めての受験シーズンのことで、その数字にあまりピンと来ないのが実際のところなのだが、それでも僕が担当した教科受験生は、十人中七人が合格の報告をしてきていたので、少しだけ安心感を覚えた。

 そんなことよりも、僕は紬からの連絡が入らないことにヤキモキするのだが、午後一時を過ぎても、未だ連絡は来ない。僕は何度も席を立ち、如何わしいくらいに教職員用トイレに行っては携帯の着信メールを確かめるのだが、それも一向に更新されることは無かった。

 恐らくこの一時間で五度目のトイレに向かおうとした時、教頭と学年主任が会話をしている脇を通りがかり、その会話が聞こえた。

「主任、もうこちらから残りの八人に連絡してみてはどうかね?連絡すること自体を忘れているかも知れないし」

「いえ、教頭、それは止しておきましょう。本人達の気持ちの問題もあるでしょうし・・・。その残りの八人全員が合格していれば問題も無いでしょうけど、そうでない場合は、やはり、報告する本人達にも・・・」

「・・・そうですか・・・。そうですね・・・」

 僕は内ポケットから取り出し掛けていた携帯電話をそっと元に戻し、トイレに行くのも止めにして、自分の席へと戻った。


 六限目の授業でも、僕は今にでも携帯電話が振動するのではないかと、気が気ではなかったが、結局は携帯電話はピクリとも動かず、そのまま授業を終えることになった。

 職員室に戻る前に、やはり職員用トイレに立ちより、携帯電話のアンテナを確かめる。

 四本確りと立っていることを確認し、少しガッカリしながら職員室に戻った。

 職員室に戻ると、この一時間で、残り八人中五人が報告をしてきたようで、内四人が合格していたとのことだった。

 先ほど僕が職員室を出て行った時よりも、幾分か室内の雰囲気が和んでいるように感じたが、教頭の席の前で立ったまま話し込む教頭と学年主任だけは、二人して難しい顔をしていた。

 時間も午後四時を回り、各部活を受け持つ教師たちは、各々の担当に向かい、職員室はそれ以外の少数の人間だけになって、随分と寂しい雰囲気だ。

 紬からの連絡を待ちわびる僕にとって、先ほどまでのざわついた室内の方が幾分でも気が紛れていたのだが、こうも静かになってしまうと、やるべきことにも手が付かず、時間は遅々として進まない。

 紬は今頃、何処で何をしているのだろうか?

 連絡を寄越さないということは、不合格だったということなのだろうか?

 いや、そんなことは無いはず・・・。


 この一年半、紬と僕は、二人で約束した通り、直接会うこともしなければ、電話も一度を除いてしてはいない。

 紬は健気にも、SMS、メールさえ使わずに、本当に郵便を使って手紙を書いてきた。それも、多くを書くと受験の妨げになるからと、月に一度だけ、便箋に三枚程度の手紙を書いてくるのだった。

 僕もそれに対して同じくらいの分量の手紙を返すのだが、お互いに内容は至ってシンプルで、紬は受験勉強の進捗状況を中心にその一ヶ月で起こった少し面白い話を書いてきたし、僕はその返信に、少しばかりの受験のテクニックや僕が受験生時代に実践していた勉強方法を書き足して送った。

 一度だけの電話は昨年の暮れの手紙で、紬が「どうしても、『あけましておめでとう』だけは、直接、言葉で言いたい」、そう書いてきたので、その返信に、「君に約束を違えさせる訳にはいかないから」「別に願を掛けている訳でもないけど、万が一受験で失敗した時に、そのことを後悔して欲しくないから」、そういう理由で、「僕の方から、年明け0時に電話をします」と書いて、返事を送った。

 そして本当に、僕からの電話で二人は『あけましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します』と、それだけで電話を切った。

 しかし、寧ろ、それだけで充分だった。

 携帯電話の通話ボタンを切った時、僕も紬も心にそこはかとない幸せを感じたのだから・・・。

 そしてここ最近の最後のやり取りは、SMSだった。

 三月二日の国立B日程の試験が終了した後、紬から送られて来たショートメールには、ピースサインと『多分、大丈夫』『でも、合格発表まで連絡しない。最後の願掛け。(笑)』と、記してあった。

 僕もそれに納得し、『分かった。ごくろうさま、よく頑張ったね』とだけ返信をし、この約二週間を、それほど心配もせずに過ごしていたのだった。

 ところがどうだ?実際に発表当日、夕刻になっても連絡が来ないではないか。

 もうここまで来ると、午前中のちょっとした焦りとは比べ物にならないほどの、焦燥感と不安感で、僕の胸は張り裂けそうなのだ。

 然も遅々として進まない時間は、本気で就業時間まで耐えることが出来ずに、胸が押しつぶされて、呼吸困難で倒れてしまうんじゃないかと思えるくらい、精神的にも酷い状態に陥っていた。

 全く心のゆとりは無いのだが、それでも心の中で苦笑、いや、自嘲気味に、『まったく、僕は紬と出会って以来、すっかり弱くなってしまったもんだ』と、自分を落ち着かせようとした。

 そのこと自体は、嫌なことではなく、実は僕の中での喜びなのだ。確実に僕はそれ以前の僕ではなくなっていたし、そんな自分が好きになっていることにも気付いていたから・・・。

 腕時計を確かめると、(ようや)く午後四時五十五分、終業五分前だ。

 もうこれ以上の我慢は無理だった。僕は机の上の明日以降使用する授業の資料や、持ち帰るべき書類を、片っ端から鞄に詰め込み始める。

 そんな僕の様子を見ていた隣の席の世界史教師が、「あれ、今村先生、今日は何か用事ですか?ひょっとして、デートとか?」などと冗談めかして訊いてくるのに、「ええ、まぁ」とだけ素っ気なく答えてから、勢いよく席を立った。

「お疲れ様でしたっ。本日はお先に帰らさせて頂きます」

 僕はそう叫ぶように言って、職員室を飛び出したのだった。


 学校を飛び出したは良いものの、一年前、就職と同時に借り始めた独り暮らしのアパートに帰るでもなく、僕は気付くと自宅駅から六つも離れた喫茶『琥珀』の入り口前に立っていた。

 辺りはすっかり暗くなり、腕時計を確認すると、時計の針は既に午後六時を少し回っていた。

 確か、最後に来たのは半年くらい前、昨年の秋頃だったか。

 僕は扉を押し開け、店に入る。

 夕刻よりお酒の提供の方が多くなる店内は、薄暗い照明で、少し怪しげな雰囲気さえ漂う。

 Tomyさんに挨拶をしようと、カウンターの中を覗いたが、この時間は外しているようで、その姿はそこに無かった。

 カウンターには年齢の若そうな女性が一人座っていたが、勿論知らない人・・・、いや、

 そう思った瞬間、その女性が振り返り、少しもブレることなく、一発で僕に視線を合わせて来た。

 紬っ。

 声に出したつもりが、全く声は出なかった。

「待ってたよ。先生の視線、直ぐに気付いた。だって、刺さるくらい痛いんだもん」

 そう言って笑う紬に、僕は何て答えれば良いのか分からずに、唯々、両の目から涙が溢れて来た。

 すると紬は、今度は本当に済まなそうな顔をして、「ごめんなさい、そんなにまでって、思わなくって・・・。ちょっとだけ、驚かそうと思って・・・。本当にごめんなさい」、そう言いながら席を立ち、僕に駆け寄ってくる。

「良かった。本当に良かった。大丈夫だったんだね。うん、本当に良かった」

 僕が自分ではどうしようもなく止められない涙を、紬が彼女の親指でなぞるように拭いてくれる。

 あと半月はまだ高校生の女の子に、涙を拭いて貰う高校教師・・・。

 二年前の僕には恐らく耐えられなかったであろうこのシチュエーションも、今の僕には余りにも自然過ぎて、不思議な気分だ。

 すると、誰かがパチパチと手を叩き始め、それが店全体に居る七、八人のお客皆が釣られて手を叩きだす。

 何なのだろう、この照れくさく、恥ずかしいのに、何故か温かい感じは。

 そんな事を思っていると、ひと通り拍手が止み、何処からともなくカウンターの中に戻っていたTomyさんが、お客さん達に声を掛けた。

「今日は、ここに居る紬ちゃんの、大学合格祝いです。私から、皆さんに、ビールを一杯ずつサービスしますので、皆でお祝いしてあげてください。紬ちゃんはまだ未成年だから、チョコレートパフェで良いかな?」

 紬は嬉しそうに「はい」と微笑む。

「あ、それから、もうひとり、ここに居る彼氏の今村くんにも、これから頑張れって、応援してあげてください。ま、そっちは皆さんの気分に任せますけど」

 誰かが「ピューっ」と、指笛を鳴らし、店内には「おめでとう」の声が響き渡る。

 ご丁寧に『彼氏』と紹介された僕は、穴があったら入りたいくらい恥ずかしいのだが、嬉しさと涙で、顔はもうぐちゃぐちゃだった。



「じゃあ、約束通り、僕の生い立ちの話をしよう・・・」

 喫茶『琥珀』を出て、近くの公園のベンチに二人、腰掛けて、僕は話し始めた。

 僕の話を聞きながら紬は、所々で、強烈な感情の動きを僕に見せて来た。

 それは、悲しみや同情、苦しみに対しての共感、そういった類の、どちらかというと『負』の感情が多かった。

 僕はそれを感じ取ると、都度、「でも、もう大丈夫だから」、そう紬に言い聞かせるのだった。

 紬に出会うまでの話をひと通りし終わると、少しぐったりした様子の彼女だったが、それは恐らく、僕に紬の感情の動きが見えた以上に、紬には、僕の話の時々の感情が、直接的に彼女の心の中に流れ込んでしまったからだろう。

「先生、辛かったんだね・・・」

「いいや、そんなことは無いさ」

「ううん。そんなことあるよ・・・。でもね、もう心配しなくて良いの。私が居るから・・・」

 女子高校生に涙を拭いて貰い、慰められる高校教師は、案外に悪いものでもない。

「そうだね。橘さんに出会えて良かったよ」

 僕のその言葉に、紬は少しだけ眉間に皺を寄せた。

「先生、その『橘さん』って、もう止めにしませんか?『紬』って呼んでくれた方が・・・」

「ああ、そうか、きっとそうだね。じゃあ、そうするよ。それじゃあ・・・」

 言いかけたところで、紬が被せるように「貴史さん」と言う。

 二人で目を合わせたまま、クスクスと笑い合った。

「ところでさ、紬」

「なに、貴史さん」

「これで『ソウルメイト』の検証と証明は終わりかい?」

「いいえ、これからが始りなんじゃないかしら?」

「だと思った。じゃあ、次のハードルはどうする?作る?」

 紬は少し考えてから、僕の表情を覗き込むようにして、ニコリを笑う。

「そんなの、無理、でしょ?私も、無理。だって、あんなに会いたくても会えない時間を過ごすのなんて、もう二度と経験したくないもの」

「確かに」

 まだ酷く寒いはずの三月の夜の空気も、二人にはこれっぽっちも冷たくは感じなかった・・・。



 それから三年半が経った。

教員採用試験で小学校教職員としての合格採用が決まった紬は、実家の両親に了承を得て、独り暮らしを始めることになった。

 まぁ実際のところ、独り暮らしというのは建前で、僕の住むアパートの隣が空き部屋になったところに紬が越してくるという、言ってみれば半同棲みたいなものだった。

 しかしそれは不思議なことに、紬が独り暮らしを始めたいから物件を探すと言い出した翌日に、その隣の部屋は空き部屋になった。

 冷静に考えると、二人にとって有り得ないくらい好都合なのだけれど、もうその頃の僕等にとっては、そういったことは大いに通常運転の範疇だった。

 少し怖いくらいの予定調和・・・。

 勿論、そんなことは紬の両親は知る由もない。抑々(そもそも)、僕等が交際していることさえ紬の両親は知らないでいたのだ。

 紬と出会ってからというもの、他人との距離感、それに付き合い方を徐々に覚えていった僕にとって、紬の両親と会って挨拶をすることに、僕自身は何の引け目も感じなくなっていたのだが、問題はそこではなかったらしい。

 紬は父親の実子ではあるが、母親は父親の再婚相手だった。家族は他に半分だけ血の繋がった歳の六つ離れた弟が居たが、紬が中学に上がる頃から、両親は喧嘩ばかりしていたのだと紬は言う。

「前の奥さんと、そう、私の本当のお母さんね、別れてまで、新しい女の人と結婚したのに、あの人たちはどうして毎日喧嘩ばかりしてるんだろう?って。そんな時にあの『ソウルメイト』の話に興味持っちゃって・・・。ううん、決して二人のことを嫌いな訳じゃないの。それぞれに父親も母親も良い人たちで、弟だってとっても良い子なんだよ。でもね、私の中では、私は絶対に、私のもう片割れを探し出さなきゃって・・・」

「そこに僕が現れたってことだね?」

「そう。でね、そのことなんだけど、これって、もう、奇跡と呼べるくらい凄いことなの。だって、『ソウルメイト』って、お互い日本人だって限らないし、世界中の何処に居るかも分からないの。そんな相手がある日突然ひょっこり近くに現れるなんてこと、実際には起こり得ない確率なのよ」

「でも、現れた」

「そうなの。だから奇跡なの。そう考えると、私が大学に合格できたのなんて、実は奇跡でも何でもなくて、私の努力がちょっとだけ凄かったってこと」

 紬は「どうよっ」とばかりにワザとらしい笑みを浮かべる。

「そうなんだね。それは偉かったね」

「もっと褒めてくれてもいいのよ」

「偉い偉い」

「あー、何かその言い方、ちょっとバカにしてるぅ」

 そんな他愛もない会話で盛り上がる二人なのだけれど、紬がいつも何処かしらに不安めいた感情を押し殺していることも僕には分かっていた。

 そして、そのことがあるが故に、紬の両親に会うことを拒んでいたのは僕ではなく、紬の方が頑なにそれを回避しようとしていたのだ。

「ねぇ、貴史さん。私たちの関係って、やっぱり、ずっと一緒に居られる関係なのかな?ううん、答えなくてもいいわ。あなたがそう思っているのは分かるから・・・。でもね、うちの父親と母親、そう、母親は二人ね。それだって、別れたり喧嘩したりするのが分かっていて一緒になった訳じゃないと思うの・・・。私の言ってること、間違ってるかな?」

「いいや、そんなことは無いと思うよ。それに、君のご両親は君のご両親で、僕等は僕等、全く違うんだと思うよ。僕は何も気にしていないし、心配もしていないから、大丈夫だよ」

「ありがとう・・・。でもホントはね、私、私の家庭が、私が思うくらい良い家庭だったら、貴史さん、あなたにも直ぐに紹介したいって、そう思っていたと思うの・・・。貴史さんにも家族を作ってあげれるかもって・・・。でも・・・今のうちの両親を見て、あなたがガッカリするんじゃないかと思うと、何だかそれも・・・ね・・・」

「大丈夫だよ。そんなこと、気にしなくって」

 僕は本心からそう思う。僕には紬さえ居てくれれば、それで充分で、紬とだったら、新しい、そして僕にとって初めての家族になれるし、そうなって欲しい、と思った。



 紬が新任教師として県内の小学校に赴任し、初めて迎えた夏休み、僕等は二人別々だったアパートの部屋を引き払い、2LDKの賃貸マンションに引っ越した。

 引っ越しが終わったその日の午後、僕等は市役所に赴き、婚姻届けを提出し(証人は僕の養護施設の施設長と保護司の先生にお願いした。婚姻届提出の一週間前にご挨拶と証人のお願いのため、僕が育った施設を紬と共に訪ねると、二人とも大変に喜んでくださった)、その足で紬の実家に報告に向かった。

 招かれざる客の突然の訪問と報告に、紬の父親は目を白黒させて顔を強ばらせていたが、特に怒鳴りつけられることも無く、僕は緊張し、しどろもどろになりながらも、どうにか報告をやり切った。

 そこにきて紬の母親はというと、終始ニコニコして、所々で会話に詰まる僕のことをおっとりと見守っている風だった。

 報告が済むと、母親の「今日は一緒にお夕飯でもどぉ?」という誘いをあっさりと断った紬に促されるままに、僕と紬は彼女の実家を後にした。

 僕等が実家から新しい二人の住処に帰る道すがら、紬が言う。

「あの人たちね、今頃大喧嘩してるわ、きっと。それを考えるとひろゆき(弟)はちょっと可哀想かな。変なとばっちり受けなきゃいいけど・・・。多分ね、父親が母親に向かって『何でお前はずっと笑っていられるんだっ』『お前はこの事、知っていたのかっ』って怒鳴り散らして、母親は母親で『知る訳ないじゃない』『もう子供じゃないあの子に、何をどう言うっていうのよっ』って、遣り合ってるのよ、ちょうど今頃・・・」

 そんな紬の横顔を見詰めながら、僕は思う。

 僕とは違うのだけれど、君もやっぱり辛かったんだね・・・。

 僕は君との出会いに感謝している。

 あの時、君が僕に話し掛けてくれなかったとしたら、今頃僕はどうしていたのだろう?

 そして、君のことが本当に、好きだ。

「ん?どうかした?」

「いや、何でもない」

 僕は慌てて視線を前に向ける。何故かドギマギしてしまう自分に苦笑しながら、「今日の夕飯、何にしようか?」と、誤魔化す。

 紬は少し考えてから、「鰻屋さんに行きましょうよ」と言った。

「うん、僕も今、鰻を食べたいって、そう思ってた。確か、昨日が土用丑の日だったような気がするなぁ」

「うん、そうだった気がする」




 光陰は矢の如し・・・。

 紬と出会って十年、紬との結婚生活はやがて四年、僕の教員生活は九年目で、紬は五年目を迎えていた。

 六月のとある土曜の午後、久々に二人で映画を観に行った。

 恋愛もののストーリーに、ファンタジーとコメディのエッセンスを加えたような内容の映画だったように記憶している。

 そして確か、海辺の家の映画だった気がする。

映画自体は非常に面白かったし、観終わった後は、胸の辺りがじんわりと暖かくなるような良い映画だった。クスッと笑える部分もあり、楽しい気分になった・・・はずだった。

 映画の帰り、特に申し合わせることも無く、紬と僕の足は、喫茶『琥珀』に向いていた。

 店内の一番奥のテーブル席に向かい合って座った二人は、それぞれに注文したコーヒーに口を付けるでもなく、ただ黙ったまま、お互いの携帯電話をいじっているフリをしながら、ゆっくりと時間だけが流れていく。

 どうやら紬から口を開くつもりは無いらしい。

 そして、僕もそれは同じだった。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。

 三十分・・・いや、一時間?

 携帯電話の時計表示を確認すると、17:25。

 二人がいつからこうやって黙っているのかが分からないので、今現在の時間を知ったところで、あまり意味は無かった。

 それでも恐らくは一時間近くは経っていたのだと思う。

 口も付けずにテーブルに置かれたままのコーヒーは、もうすっかり冷めてしまっているようだ。

 僕は意を決するように、携帯電話の画面から視線を外し、その視線を紬に向けた。

 当たり前のことだが、紬も同時に僕にその瞳を向けるので、お互いに見つめ合う状態になる。

「ねぇ、紬・・・僕たち・・・」

 僕は僕が発した言葉を耳で聞きながら、同時に胸の中では『ねぇ、貴史さん・・・私たち・・・』、そう言う紬の声が聞こえていた。

 実際の紬は、瞳を涙で潤ませ、喉まで出掛かった言葉を、必死に飲み込もうとしているようだった。

「いいんだよ、紬・・・。僕にも君にも分かってることなんだから、無理に言葉にしなくてもいいんだ・・・」

 僕もそれ以上は言葉が見つからない。

 それでも、紬と僕が思っていることを、紬の口から言わせたくはなかった。そんな僕にとっても彼女にとっても辛い言葉を、紬には言わせたくない・・・。

 僕は心にも無いことを、自分にも言い聞かせるように言う。

「ねぇ、もう一度、あの時みたいに、もう一度さ、何か・・・何でもいいから、そう、何か、僕等のことを『証明』出来ることを、やってみないかい?」

 そんなことは、ただの時間の引き延ばしに過ぎないことは分かっているのだ。

 二人の結末は、恐らくもう既に決まっている。早いか遅いかだけの話だと思う。

 それでも、悪足掻きだろうが何だろうが、今は足掻くしかない、そう思った。

 小さく頷く紬の頬を、一筋の涙が伝った・・・。



 最後に二人で喫茶『琥珀』を訪れてから半年後、部屋の荷物が半分ほどに減り、がらんとして何とも無機質な部屋のソファーで、僕は視線を何処に向けるでもなく、ただぼんやりとそこに佇んでいた。

 紬の居なくなったこの部屋で、今この瞬間も、そしてこれから先も、何をどうしていいか分からない。そんな状況だった。

 ただ唯一の救いは、何をどうすれば良いか分からなくても、あと一週間は学校の授業が残っていることだった。

 週末はクリスマス・・・、そして冬期休暇を迎える・・・。それまでに、少しでも紬の居ない生活に慣れないと・・・。



 気付けば、年も明け、受験シーズン最終盤の二月中旬を迎えていた。三年生の国語の教科担当だった僕は、受験生たちの練習問題と模試の採点、小論文の添削、そして個々との面談と、毎日が目が回るほどの忙しさだった。

 いや、敢て自ら忙しくしていたのかもしれない。昨年よりも明らかに採点や面談に力が入り、それなりに時間も割いていた。それは自分でも認識してはいたのだ・・・。

 兎に角、考えることを避け、考える時間を無くしたかった・・・。



 新学期、GWもあっという間に過ぎ去り、そして梅雨のシーズンもそろそろ来週には開ける頃だった。

 梅雨が明けると、そのまま学校は夏季休暇に入る。

 勿論、教員の僕等は交代ではあるけれど、各々十日間の長期連休以外は、学校に詰めていなければならない。

 酷く暑い夏になりそうな気がする・・・。

 紬に会いたい・・・。



 夏季休暇は、敢て後半のお盆明けに連休を取得し、一人、沖縄へ旅行に行った。

 一人きりの旅は、やはりそんなに楽しいものではなかったが、だからといって酷くつまらない訳でもなかったのだが、それでもやはり何かが足りない。

 紬との新婚旅行も沖縄だった。

 辛くなるのは分かってはいても、僕は敢て、あの時紬と泊まったホテルに宿泊したし、観光地巡りも同じ場所に足を向かわせた。

 足りない『何か』は、僕の片割れの紬。そんなことは分かっている・・・。



 紬と別れてちょうど一年になる十二月に、僕は冬のボーナスのほぼ全額を使って、引越しと新しい携帯電話の購入を行った。

 どちらも限界だった。

 紬との思い出の詰まったこの部屋でこれ以上独りで生活することも、紬の連絡先が登録された携帯電話を持ち続けることも。

 一年間、紬からは一度だって電話もメールも無い。勿論、僕から連絡することも無かったが、僕はいつだって紬に会いたかったし、声が聴きたかった。

 僕はこの一年の間に、何度も携帯電話の電話帳を開いては閉じていたのだが、もうその行為にも疲れていたのだと思う。

 新規で購入した携帯電話は、何もデータ移行せず、真っ新(まっさら)な状態で使い始めることにしたし(携帯ショップの店員は、電話帳などは無料でデータ移行出来ることを伝えてきたが、僕はそれを断り、古い携帯電話は、そのままショップに廃棄をお願いした)、引越し先での家具や冷蔵庫は、全て新しいものに買い変えた。

 ハッキリと何をどう思ってそんな事をしたのかは、後になって自分でも思い出せないのだが、その時はその時で、きっと思うところがあったのだろう。

 それでも、紬に会いたい・・・。



 再び次の新学期を迎える頃、僕は紬の居ない生活にも慣れ始めていた。

 そして何故か時々思い出すのは、紬と出会う前の自分だった。

 勝手に『紬以前』『紬以降』と名前を付け、僕は可笑しな空想に耽っては、週末をお酒と共に過ごした。

 自嘲気味に自らを思い返す。

 紬は本当に居たのだろうか・・・。

 いや、僕が本当に存在しているのだろうか・・・。

 ドラマや映画、漫画でよくあるやつ、自分の頬を(つね)って、夢じゃないかと確かめるポーズを、僕も実際にやってみる・・・。いてっ・・・。

 バカみたいだ・・・。

 それでも、紬に会いたかった・・・。



 大枚を(はた)いて新居に引っ越してから一年と経ちはしないのにも関わらず、僕はその秋、県内B地区(僻地、離島地域)への異動・転勤希望書を提出していた。

 自分でも何を考えていたか分からなかったが、兎に角、思い付きというか、何かの勢いで、僕はそれを提出してしまっていた。

 確かに県の公務員である僕たち公立高校の教職員は、必ず一度はそういった地区での勤務が義務づけられてはいるのだが、何も来年でなくても良い。

 提出した翌日、流石に冷静になって『しまった』と思いはしたが、今更引っ込みも付かず、取り下げはできない。あとは三月の異動辞令が有るのか無いのか、それを待つしかなかった。

 希望書を提出したからといって、必ず異動を命じられる訳ではない。

 紬と別れてやがて二年・・・。

 そして、何事も起こらず二年が過ぎ、年を越し、受験シーズン真っ只中へと突き進んでいった。



 三月初旬、僕は校長室に呼ばれ、離島への異動(内示)を命じられた。



 三月三十一日午前中に、引越し業者に部屋の荷物全てを運び出してもらい、ありとあらゆるものが全て無くなった殺風景な部屋で、夕刻、不動産屋と鍵の返還を行った。

「今村さん、このお部屋、一年半、でしたっけ?」

「ええ、それにもちょっと足りないくらいですね」

 苦笑しながら答える僕に、不動産屋は「学校の先生も大変ですね」と、愛想笑いを浮かべる。

「ところで、今日はどちらにお泊りですか?それとも今日中に飛行機に乗って、あちらに向かわれるんですか?」

「いえ、飛行機は明日です。今日は、実は何も決めていないんですが、空港の近くのホテルにでも泊まろうと思って」

「そうでしたか。いえ、もしなんでしたら、お引っ越しで出ていかれる方の為に、実はお布団の無料貸し出しサービスをやってるんですよ。ガス、水道も二~三日は止めずにこちらでお持ちしますが、如何なさいます?」

 へぇ、確かに良いサービスだ。

 しかし、僕は丁寧にそれを断り、キャリーバッグ一つ持って、不動産屋と一緒に部屋を出た。

「それでは、また、何かご縁がありましたら、何卒宜しくお願い致します」

「ええ、こちらこそ、お世話になりました」

 不動産屋とありきたりな挨拶を交わした後、僕は喫茶『琥珀』に向かった。



「マスター、ご無沙汰してます」

 バカに明るい調子でカウンターの前に立つ僕に、Tomyさんは凄く驚いた様子で、それでも嬉しそうに「ホントに久しぶりだね、いらっしゃい」と、カウンターの椅子に座るように促してくれた。

「何年ぶりになる?」

「そうですねぇ、最後に来てから、もうすぐ三年ってとこですかね」

「そうだよねぇ。確か、最後に来てくれたの、季節は夏前頃だったっけ?」

「よく覚えてますね?」

「そりゃあね、二人でコーヒー頼んでおいて、その二人とも一口もコーヒーに口付けないで帰られたことなんて、この店始まって以来、後にも先にも無い珍事だったからねぇ。これでもうちの店、コーヒーの味も売りのひとつなんでね」

 そう片目を閉じながら笑うTomyさんには、どうやら嫌味を言っているつもりは無いらしい。

 それは分かっていても、やはり申し訳なく思う僕は、本当にすまなそうな表情を作って、僕の注文したコーヒーを作っている最中のTomyさんに謝罪の言葉を述べた。

「あの時は、本当に失礼しました。いや、本当に申し訳なかったです」

「いやいや、いーのいーの。そんなつもりで言った訳じゃないから。ところで、今日、紬ちゃんは?元気にしてる?」

 僕は特にドキッとする訳ではなかった。

 何故なら、僕はそのことを誰かに話したくてここへ来たのだし、それよりも、ここに来れば、ひょっとして、紬に会えるのではないかと、紬も僕と同じ時間、同じ場所に来てくれるんじゃないかと、紬と僕が、本当に片割れ同士だったとしたら・・・、そんな淡い期待を抱いていたから・・・。

 僕はTomyさんに、紬とは別れたことを話した。特に細かいことは言わなかったし、Tomyさんもそれを聞こうともしなかった。

「そうだったの・・・。それは残念だったね・・・。私はてっきり二人は一生仲良くやっていくんだとばかり思っていたよ・・・」

「ええ・・・僕も・・・そう思ってました」

 僕は苦笑いを浮かべるしかない。

「ここに顔出してくれないのも、何処か県内の遠いところに異動になってるんだとばかり思ってたから、そのうちまたこっちに戻ってきたら、きっと顔出してくれるんだろうなって、そんな風に思ってたからねぇ」

「その異動なんですけど、実は、明日、なんですよ。だから、また、今日が最後で、暫く来れなくなっちゃいます・・・」

「ええ?なんなの、それって・・・」

 Tomyさんは僕にコーヒーを差し出しながら、暫く黙っていたが、僕がコーヒーをひと口、口にした時、こう言った。

「今村くんさ、今日はそのコーヒー代だけお代貰って、その後は、私がビール奢るから、ゆっくりしていきなよ。最後の夜なんだからさ」

 Tomyさんはどうやら、僕がこの店に顔を出した目的を分かってくれているみたいだった。

「じゃ、お言葉に甘えて・・・」

 僕は素直にTomyさんの好意に甘えることにした。

 ふと思った。『紬以前』では有り得ないことだな、と。



 当たり前だが、紬が店に現れることは無かった。


 僕はバドワイザーを三本平らげ、更にTomyさんのキープボトルのWild Turkeyをロックで一杯飲み干して、気付けば、時計の針は午後十時を回っていた。


 今日はまだまだ飲めそうな気もしたが、Tomyさん「ごちそうさまでした。何れ、また戻った時には顔を出します。()()()()()()()()()()()」、そう挨拶して、席を立った。

 自分で言っていて虚しくなったし、Tomyさんが少し悲し気な表情をしていたのは、僕の気持ちを察してくれていたからかも知れない。


 予約した空港傍のホテルの最終チェックインが午後の十一時だった為、僕は店を出ると直ぐにタクシーを拾って、、ホテルに向かった。


 最終チェックインの十一時ギリギリに部屋に入り、シャワーを浴び、そのままベッドに倒れ込む。そして、堕ちていった・・・。


 夢を見た。

 何の夢かは覚えていない。

 ただ、何かが近付いてくる夢だったような気がする。

 その『何か』は決して怖いものでも嫌なものでもなく、何かは分からないのだけれど、高揚感と言うほど大袈裟ではないにせよ、近付いてくるその『何か』に、心はざわついている。

 一体何なのだろうか?

 僕は知っている筈なのだ・・・それが、何であるかを・・・。



 朝の八時に目を覚ますと、二日酔いだろうか、少しばかり頭が痛い。

 ホテルの部屋のバスルームで、飛び切りに熱いシャワーを浴び、眠気と同時にアルコールも飛ばす。

 バスルームから出て、着替えを済ますと、僕はチェックアウトの準備をし、荷物とルームキーを持って、一階のレストランの朝食バイキングに向かった。

 着替えをしている最中からなのだが、夢の続きなのだろうか、胸の中のざわつきはずっと継続していた。

 これから始まる新天地の生活に、心動かされているのだろうか・・・。


 クロワッサンとスクランブルエッグ、それにサラダとを皿に取り、バーカウンターでオレンジジュースを一杯貰った。

 朝食なんて、二年以上摂ってないな・・・。

 AM11:00発の飛行機のことを少しばかり気にしながら、最後にコーヒーを飲もうかどうしようかと迷っていると、不意に声が掛かる。

「おはようございます。異動ですか?」

 僕が顔を上げると、そこには恐らく以前何処かの教育セミナーか何かで会ったことが在るのだろう、見覚えのある男性が立っていた。

「あ、おはようございます。ええ、これから飛行機で・・・。そちらも?」

「ええ、まぁ、そういうことです。因みにどちらへ?」

「T島です」

「そうですか。私はG島なんですよ。一緒じゃないのかぁ、残念。何か、話によると、今年はT島、本土からの異動、多いらしいですよ。良いですねぇ、仲間がたくさん居て・・・。」

「そうでしたか」

 僕は実際、そんなことはどうでも良かった。

「それでは、またこっちに戻った時には、何れ何処かで。その時はまた、宜しくお願いします。では」

 その男性教諭と思しき男は、軽く会釈をすると「まいったなぁ・・・」と、独り言のように呟きながら、僕を残して去って行った。

 そうか、今日は地方公務員は異動の為、一斉に県内を動き回るのだな・・・。大変だ・・・僕もその一人なのだが・・・。

 そのせいか・・・。何だか朝から僕も落ち着かないのは、きっとこの周りの雰囲気に影響されていたのかもしれない。

 今もずっと、心はざわついている。

 さて、僕もそろそろ行くとしよう。

 最後に、もう一度、紬に会いたかった・・・。



 飛行機に乗り込み、離陸から着陸までの間の、ほんの五十分程度のフライトだったが、昨夜のお酒でまだ疲れが残っていたのか、僕は寝入ってしまい、そして、また、夢を見た。


 夢には、今度はハッキリと紬が出て来た。

 夢の中で、僕は嬉しい。

 夢の中で僕は紬に訊ねる。

「どうして?」

「どうしてもよ」

 夢の中の紬は笑顔でそう答えた。

「いや、だから、そうじゃなくて、どうして?」

「だから、どうしてもよ」

 僕は悲しい顔をして、そして紬は笑顔で、同じ質問と同じ答えを繰り返す。

 夢の中で、埒が明かない。

 夢の中なのに、僕は僕自身を俯瞰していて、『今、目を開けて、この状況を打開したい』、そう思う。そして、それとは逆に、『目を開けた瞬間、今、目の前に居る紬は、霧のように消えていってしまう』、そうも考えるのだ。

 半分醒めかかっている中途半端な意識の中で、僕は勇気を振り絞って質問を変える。

「ねぇ、紬、君は今、幸せなのかい?」

 紬は暫くの間、それには答えずに、もう一度笑みを作って、僕を見詰め返す。

「ねぇ、紬、君は今、幸せなのかい?」

 やはり同じ質問を繰り返す僕に、今度はハッキリと「ええ、とっても幸せよ」、そう答えた。

 夢の中でその言葉を聞いた僕は、酷く悲しい気分になり、このまま目を開けようかと思って、それでも、紬に対する未練を捨てることが出来ずに、もう一度、紬のことを目に焼き付けようとした。

 すると、紬は続けて話し始める。

「今ね、とっても幸せよ。そして、これからも、もっと幸せになると思うの・・・。それは多分、貴史さんも一緒よ・・・。これまでも、これからも、あなたもきっと、幸せだったし、幸せになれると思うの・・・」

「どういうこと?紬が居なくなって、僕はずっと寂しいし、これからも紬が居ないまま・・・僕は幸せになんて・・・」

「ううん、もうあなたは大丈夫。大丈夫なの、きっと。そして、私も」

「言っている意味が分からないよ。君が居なくて・・・僕は・・・」

「あなたは、ずっと、幸せよ。これから、もっと。そして、私も・・・」

 僕は紬に出会って今まで一度だって、彼女に腹を立てたことは無かった。なのに、僕は今、酷く怒っている、夢の中なのに。

「どうして君は、そんなことを言うんだい?君だけが幸せなのか?君に、僕の気持ちの何が分かるって言うんだよっっっ」

 僕は目を覚ました。

 大声を上げてしまったのではないかと不安になり、そっと隣の座席と周辺を見渡したが、誰もこちらに関心を持つ者は居なさそうだった。

 僕は気恥ずかしさを押し殺しながら、何事も無かったかのように、窓の外、眼下に広がる海を眺める。

 海は驚くほど蒼かった。

 涙が流れるのかと思ったが、僕の頬は乾いたままだった。

 また少し、心がざわつく・・・。


 機内アナウンスで、飛行機が着陸態勢に入ることを知らされ、座席のリクライニングを元に戻しながら、今見た夢のことを思い返す。

 酷く悲しい気分になった・・・。?。

 ?

 ?

 ?

 あれ?そういえば、最後に僕が怒鳴った後、紬は何か言おうとしていたような気がする。

 僕は大声を上げた(夢の中で)勢いで、そのまま目を開けてしまったが、確かに紬は次に口を開こうとしていたような・・・。

 胸のざわめきが、次第に大きくなってきている。初めはさざめくほどだった心の揺れは、今、それが波だと分かるくらい、大きく揺らぎ始め、僕の胸に打ち寄せ始めていた。

 そう、確実に、大きくなりながら・・・近付いてくる・・・。



 僕は到着ロビーを飛び出し、そして、目指す。

 勿論、初めて降り立つ空港、初めて訪れる島、右も左も分からない。

 それでも僕には目指す場所が分かっていた。

 そこに行けば良い。そう思った。

 もう胸の中の大きな波は、すぐそこまで来ているのだ。



 キャリーバッグを引きずりながら、僕はそこまで、右に曲がったのか左に曲がったのか、それとも真っ直ぐ歩いたのか、どこをどうやってそこに辿り着いたのかは分からない。

 それでも辿り着いた。

 空港から一番近い、見晴らしのいい、海辺。

 僕が息を切らしながら浜に降りると、その先の波打ち際に、日傘をさして独り佇む女性の後ろ姿が在った。

「つむ・・・」

 僕が声を掛けるより先に紬は振り返り、僕より先に「貴史さんっ」と叫ぶように僕の名前を呼ぶ。

 映画のワンシーンなら、二人、駆け寄って、抱き締め合う・・・ところなんだろうけど・・・。

 僕はゆっくりと歩みを進め、紬はそこで微笑んだまま、ジッと僕を待った。

「遅かったじゃない?」

「そうかい?」

「私はてっきり八時の飛行機に、あなたも乗っているものだとばかり思っていたんだけど・・・」

 そう言って少し意地悪そうに笑う紬に、僕は答える。

「でも、こうやって、今、ここに居るよ。少し遅くなったけど・・・。でも、ただいま」

「うん、おかえりなさい。もう少し遅かったら、私、帰っちゃってたかもよ?」

「・・・いや、それは無いね」

「うん、ないかもね・・・。ないわね、きっと」

 そう言って二人で笑い合う。

 大きな波が、ゆっくりと引いていくのが分かる。



「そういえば貴史さん、聞いて。面白いのよ。私が借りたアパートと、あなたが借りたアパート、また同じみたいよ。しかも、隣同士・・・」




       おしまい


お読みいただき、有難うございました。

つうと言えばかあ、阿吽の呼吸、共振、共鳴・・・以心伝心・・・

前世での縁・・・

ふしぎなこと・・・

信じる、信じないは・・・

いずれまたお会い出来れば、幸いです。

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