055.絵画
「アネット様。水竜王様。本日はお越しいただきありがとうございます」
イオライトさまと栗の渋皮煮を作った、数日後のことでした。
完成した渋皮煮を持ってわたくしたちは塩の博物館を訪れました。
新たに開設される予定の喫茶スペースに招かれていたのです。
博物館の館長、ソベリルは入り口までわたくしたちを出迎えて、開放感のある席へと案内してくれました。
開店前なので、客はわたくしたちのみです。それもあってか、とても広く感じました。
「しかも、立派な栗の渋皮煮をありがとうございます。アネット様が作られたのなら、間違いなく美味しいことでしょう。堪能させていただきます」
ソベリルは今日もスーツ姿。
白髪交じりの髪はオールバックに整えています。
わたくしと同じ瑠璃色の瞳が微笑むと、目尻に刻まれた皺が深くなりました。
手にはわたくしが渡した栗の渋皮煮があります。
「お口に合うといいのですが」
「合わないことは決してないでしょう。家での楽しみができました」
イオライトさまがわたくしたちしかいない店内を見渡します。
「実にいい空間だ。一層、塩の博物館は盛り上がりをみせるだろう」
わたくしもつられるように、天井を見上げました。
博物館内の統一された雰囲気は喫茶スペースにも続いていて、白くて明るくて静か。天井が窓となっていて、光が燦々と降り注いできています。
そしてわたくしの視線は、奥に釘付けとなりました。
「……持ってきてくださったのですね」
奥の調理スペースに繋がるカウンター席の壁を見て、思わず言葉が零れました。
「はい。公主様が、大切に保管しておりましたから」
壁には、わたくしが海を知るきっかけとなった、一枚の大きな絵画が飾られていました。
「どうぞご覧くださいませ。この絵画は、アネット様のものですから」
「ありがとう、ございます」
ゆっくりと壁に近づきます。
両手を広げてようやく指先が額縁に触れられるくらい、大きな絵画。
目の前に立つだけで、その複雑な青に飲み込まれそうになります。
海。
焦がれて、辿り着いた青。
こんなにうつくしい光景がこの世界に存在することを教えてくれた絵画は、記憶と少しも違わずに目の前にありました。
胸の内が震え、指先にも伝わっていきます。
「ひょっとして、旅商人から買ったという絵画か?」
隣にイオライトさまが立ちました。
「はい。そうです……」
わたくしはそれ以上言葉を紡ぐことができませんでした。
イオライトさまが静かにわたくしの背中に手を当てます。
大きくて、温かな手のひら。
――海を知らなければ、知ることのなかった温もりでした。
そのまま、しばらくふたりで絵画を見つめていました。
*
*
*
ようやく絵画から離れたわたくしたちは、最初に案内された席へと戻りました。
ソベリルが微笑みかけてくれます。
「アネット様。何でも好きなものをご注文ください」
「ありがとうございます」
新品のメニュー表を受け取り、テーブルの上で広げました。
「すべて塩にちなんだメニューになっているのですね」
「どれどれ?」
イオライトさまも覗き込んできました。
「塩チョコレート。塩キャラメル。塩バニラアイスクリーム。塩のテイスティングもあるのか」
「塩レモンサイダーなんて、さっぱりしていそうですね」
「冷たい飲み物に合わせるなら、フライドポテトもいいな!」
バラエティに富んだメニューに、イオライトさまは興味津々な様子です。
「決めたぞ。私は塩レモンサイダーと揚げたてフライドポテト、三種の塩を添えて、にする」
「わたくしは塩キャラメルラテと、塩チーズケーキにします」
「かしこまりました」
ソベリルが恭しく頭を下げ、厨房スペースへと去って行きます。
その背中を見ながらイオライトさまが言いました。
「ここはアネットのための場所だな」
「そんな。公共の空間ですよ」
「しかし、あの絵画はアネットのものなのだろう? リオドール殿の意気込みが伝わってくる」
「そうでしょうか」
「そうだとも」
埃を被っていない、まったく劣化していない絵画。
ソベリルの言葉通りお父さまがきちんと管理してくださっていたというなら、感謝しかありません。
わたくしたちは再び絵画へと視線を向けます。
「それにしても、いい絵画だ。海のすばらしさを一枚に凝縮している。力強さ、雄大さ、清らかさ、穏やかさ。あれは、海を知らなければ描けないだろう」
「わたくしはパライバの海しか存じませんが、イオライトさまがそう仰るということは、真なのでしょうね」
わたくしの大切にしてきたものを褒められて、とてもうれしく思います。
いつか。機会が、あれば。
パライバ以外の海も、目にしてみたいものです。




