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047.涙




 たしかにわたくしの両足は、イオライトさまの声によって縫い留められてしまっているようでした。

 波が足首に当たっては砕けます。

 体が熱いのか冷たいのか、よく分からなくなってきていました。


 イオライトさまの言葉は続きます。


「アネットの言う通りだ。人間の一生は、竜王に比べればずっと短く儚い。今こうして待ってもらえている瞬間だって申し訳ないくらいだ」


 人間の一生の儚さ。

 それは、決して解決することのできない問題です。

 イオライトさまも、わたくしと同じことを考えていたなんて……。


 背を向けたまま、俯くことしかできませんでした。


「アネットにとっては人間と添い遂げる方が幸福なのかもしれない。だが、情けないことに」


 近づいてくるのが、波の音で判ります。

 一定の距離は保ったまま。

 イオライトさまは、静かに力強く、背中へと語りかけてきます。


「それでは、私が耐えられない」


 耳は、しっかりとイオライトさまの言葉を。

 感情を、受け止めていました。

 胸の奥が静かに熱を持ちはじめます。先ほどまでの激情とは違う、穏やかな熱。


「初めて出逢ったのも海だったな」

「……はい」


 ようやく声を出せるようになったとき、声は頭上から降ってきました。


 砂浜に打ち上げられていたタツノオトシゴを拾って、家に連れて帰った。

 ただそれだけのこと。

 それだけのことが、わたくしたちのはじまり。

 こんなことになるなんて、一体、誰が予想したでしょう?


「嫌な思いばかりさせて済まなかった。アネットの意志を最優先したい。もし望むのであれば、私はきちんと諦める。祭りの後、再び海へと戻ろう」

「嫌ではありません!」


 弾かれたように叫んでいました。

 振り返ると、目の前には今にも泣き出しそうなイオライトさまの姿がありました。


 顔を見ることができず視線を落とします。

 ですが。

 揺れる水面を見つめながら、今度は間違えないよう、慎重に言葉を選びます。


「……嫌では、ありません。ただ、おそろしいのです。自分にそこまでの価値があるとは思えなくて」

「愛に条件は必要なのか?」


 俯いたままのわたくしに近づいてくるイオライトさま。

 差し出された右手が顎に触れます。

 自然な力で頭を持ち上げられると、空と海の瞳にわたくしの姿が映っていました。


「アネット。私は純粋に、君のすべてがほしい」


 揺らいでいるのはイオライトさまの瞳?

 それとも、わたくしの気持ち?


「嫌ではないと言ってくれた。では、アネットは、何を望む?」

「わたくし、は」


 言葉よりも先に流れたのは、涙でした。


 ()()


 何も望まず生きていこうと決めたパライバで。


 気づかされた、たくさんの『好き』。

 誰かのために何かをつくること。

 宝飾職人の仕事。

 それから、――。 


「イオライトさまのお傍に、いたいです」


 たとえ、それが水竜王さまにとっては瞬きするような刹那であったとしても……。


 瞳のなかのわたくしは、泣きながら笑っていました。

 イオライトさまは首を縦に振り、両手をわたくしの肩へ置きます。

 そして、少しだけ身を屈めました。

 目線の高さが揃うと、吐息がかかる距離になっていました。


 こつん、と鼻先が触れ合います。


「イ、イオライト、さま?」


 声が裏返ってしまった理由は。

 イオライトさまの唇がわたくしの頬に触れていたからで。

 涙の跡をなぞるように、優しく、丁寧に……。


 頬にかかる熱い吐息。

 くすぐったさ以上にこみ上げてくるのは、愛しさ、でした。

 引いた波が大きく寄せてくるように一気に広がった感情。

 全身、指の先まで、隅々に広がっていきます。


 ……やがて。

 ゆっくりと離れたイオライトさまを見上げると、とても穏やかな笑みを浮かべていました。


「人間の涙というのはしょっぱいのだな。海と同じだ」


 まるで激しさを抑えているかのような、少し掠れた声。


「これだけ生きてきて、初めて知った」


 そのまま、今度は抱き寄せられました。

 波に足を取られ、わたくしから飛び込むようなかたちになります。


「アネット」


 優しい響きは、まるで、凪いだ海のようでした。

 いつまでも耳に残しておきたい、愛おしい声。

 ただの名前でさえ、好きな相手から呼ばれるだけで特別なものになったような気がしてきます。


「アネット。好きだ」


 わたくしは。

 おそるおそる、両腕をイオライトさまの背中へと回しました。

 かんたんなことの筈なのに、難しいことでした。 

 そして信じられないくらい心地よい温もりに、瞳を閉じます。


 寄せては返す波の音が、静かに耳に届きます。


『アネットが誰のことを好きかは正直どうでもいいけれど、アネット自身がその気持ちを適当に扱っちゃいけないだろう』


 不意にクライオフェンさんの言葉が蘇りました。

 先ほどまで悩んでいたことが幻だったかのようです。

 だからこそ、イオライトさまを傷つけるようなことはしないと、固く誓います。

 わたくしが生きている限り、は。

 誠実であろうと、決意するのでした……。




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