046.衝突
「水竜王祭で、イオライト様は正式にアネットへ求婚するんだって」
「……求婚……とは……?」
求婚という単語の意味を理解するのに時間がかかってしまいます。
ぽかんと口を開けたままのわたくしに向かって、やはり淡々とピネルさんが続けます。
「やっぱり、その様子だと聞いていなかったみたいだね」
「聞いていません。そんな……。イオライトさまはどこまで本気なのでしょう」
「どこまでも本気だとは思うけれど」
ピネルさんは珍しく唇の端を吊り上げた後、長い長い溜め息を吐き出しました。
「目立つことが嫌いなアネットに対して黙っているのはよろしくないから話しておく。商業組合には、祭りのために花嫁用のヴェールを作る部隊もいる。ちなみに、副リーダーがトリン」
「トリンさんが……」
そんな話はまったく聞いていません。
寝耳に水とはこのことです。急に、眩暈がしてきました。
「嫌なら、ちゃんと嫌だと言った方がいい」
「ですが、ピネルさん。どうして教えてくださったのですか?」
「逃げ出したくなったらいつでも頼ってほしいと言ったのは自分だから。アネットに辛い想いはさせたくないから」
「……ありがとう、ございます」
お礼を口にするも、自分自身の声ではないようでした。
ピネルさんは再び無表情に戻ります。
「うん。じゃあ、また店で待ってる」
わたくしはピネルさんが去った後も、しばらく動けないでいました。
何を買いに来たのか、まったく思い出せません。
そのまま館に帰ることにしましたが、イオライトさまは既に出かけた後でした。
*
*
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「嫌なら嫌って言うだけでは?」
さらりと返してきたのは隣に座るクライオフェンさんです。
「我慢する感覚っていうのが分からないんだよね。ワタシは嫌なものは嫌だって言うし、自分の主義に反するものは認めないから。それができないっていう人間は理解できないんだ」
なんともクライオフェンさんらしい持論です。
そして話題そのものに興味を失ったようで、研磨に戻ります。
わたくしはわたくしで練習をするように指示されているため、作業台から飛び出しているすり板と糸鋸に向かいます。
「ただ、問題は他のところにあるような気がするけれど」
クライオフェンさんは作業をしながら、ひとりごとのように声を発しました。
わたくしは糸鋸を動かす手を止めます。
「そうかもしれません。わたくしのいちばんの願いは、『無理のない範囲で穏やかに暮らす』なのです。水竜王祭で注目を浴びるということは、その願いに反しています」
ははは、とクライオフェンさんは愉快そうに笑いました。
「じゃあ結論はシンプルだよ。ちゃんと、自分の考えを伝える。それ以上でもそれ以下でもない」
「そう、ですね」
「いや、違うな。考えじゃなくて、気持ちだよ気持ち」
クライオフェンさんがわたくしに顔を向け、片目を瞑ります。
「とどのつまり、好きなんだろ。水竜王のこと。だったら『好きだけど目立ちたくありません!』で万事解決」
「なっ……」
「腕輪を作りたいっていうことは、そういうことでは」
何故。どうして。
メラルドさんといいクライオフェンさんといい、わたくしが引こうとしている問題について背中を押してこようとするのでしょうか。
「アネットが誰のことを好きかは正直どうでもいいけれど、アネット自身がその気持ちを適当に扱っちゃいけないよ」
うぅ、と変な声が漏れてしまいました。
言わんとしていることは分かります。ですが、理解とは別の次元でもあります。
「まぁ、作業用の水でも汲んでおいで」
「……はい」
溜め息を吐き出すしかできません。
そして、岩の工房の外に出たときでした。
「アネット?」
耳に慣れた柔らかく低い声がして、顔を向けます。
小川の対岸。少し離れた場所にイオライトさまが立っていました。
「イオライトさま。どうしてこんなところに」
「ここは神殿への近道なのだ。アネットこそ、魔石商会に通っていたのではなかったのか」
反射的に俯いてしまいます。
こちらへ歩いてくることはせず、イオライトさまは髪の毛をかきむしりました。
「……嘘をつかねばならない何かがあるということか」
声から、普段はない暗さと棘を感じます。
わたくしの指先はみるみるうちに冷たくなっていくようでした。
「イオライトさまだって黙っていることがありますよね。わたくしは水竜王祭で目立つことは望んでいません。正式な求婚だなんて……」
驚いたように見開かれる空と海の瞳。
言葉が勝手に零れます。
「わたくしには荷が重すぎます。イオライトさまの気まぐれで、わたくしの人生を振り回さないでください」
違います。伝えたいことは、そんなことではないのです。
「気まぐれだなんて……。そんなつもりで接したことは一度もない……」
イオライトさまの表情が翳ります。
傷ついているのは、……傷つけてしまっているのは明らかでした。
耐え切れずわたくしは踵を返します。
「ん?」
戻ってこないわたくしをふしぎに思ったのか、岩の奥からクライオフェンさんが姿を現しました。
視線が合います。
ですが、口だけが動いて、音が出てきません。
「……」
工房に戻ることもできず、立ち尽くすイオライトさまの脇を走り抜けます。
胸に何かがつかえているようで、苦しくて張り裂けそうでした。
瞳から熱いものが溢れてきます。
鼻をすすりながら夢中で走りました。
申し訳なくて、情けなくて。
ありとあらゆる負の感情が全身を駆け巡っています。
泡となって消えてしまいたいとまで。
思います。
――やがて走り切った先は海岸でした。
黄昏時の海は黄金。
空は青とオレンジ色が絶妙に溶け合っていました。
水平線の上で今にも沈もうとしている陽の光は、まっすぐこちらへと伸びてきています。
靴を脱ぎ捨てて海に入ります。
波が足に当たり、砕けました。水の抵抗にも構わず足を前へと進めます。
「アネット!」
わたくしの足を縫い留めたのは、少しも息切れしていない張りのある声でした。
「待ってくれ!」
「待ちません!」
自分でも信じられないくらい大きな声。
一方で。
「……それでも、立ち止まってくれている」
イオライトさまの声は、落ち着きを取り戻していました。




