042.ホットケーキ
まだ夜の明けきっていない、薄闇のなか。
一階へ降りて行くと、イオライトさまはタツノオトシゴ姿で眠っているようでした。
黄色くて青い斑点のあるタツノオトシゴ。
いつものように、海藻にしっぽを巻き付けていました。
『人間の姿のときは、そうでもないのだ』
けがをしたときの言葉を思い出します。
タツノオトシゴの姿のときも、強そうには見えません。
では、強いときというのは……やはり、水竜王本来の姿のとき、なのでしょうか。
御伽噺でしか触れたことのない、水竜王。
巨大な、あおい色の竜だという知識だけはあります。
ですが人間の姿を見慣れてしまっているからか、まったく想像がつかないのでした。
わたくしが降りてきても、イオライトさまは珍しく起きません。
早く起きたのは、朝食だけでなくお弁当の用意をするためなので、このまま進めていくことにします。
ブラウンのエプロンをつけ、両手をよく洗ったら、鍋に湯を沸かし始めます。
冷蔵庫から取り出したのはきゅうり。
新鮮だからこそいぼの部分がはっきりとしていて、重みも感じます。
薄く輪切りにしたら軽く塩を振っておきます。
湯が沸いてきたら冷たいままの卵を入れて時間を計ります。
固ゆで卵をつくって、マヨネーズなどと合わせ、粗めのペーストをつくるのです。
薄切りのハムも冷蔵庫から出して、一枚ずつ剥がしておきます。
きゅうりがしんなりしてきたら手で水気を絞ってしまいます。
手を洗い直して、カンパーニュを木のボードに置きます。
サンドイッチに適した厚さにスライスしましょう。
「そういえばトマトもありましたね……」
「トマトか」
「ありがとうございます」
隣から渡されたトマトと、人間の姿になったイオライトさまを交互に見比べてしまいました。
「……イオライトさま。いつの間に起きていらっしゃったんですか?」
「前にも言ったような気がするが、私の眠りは浅いのだ。作業するアネットを見つめていてもよかったのだが」
それはそれで気づいたときに恥ずかしいものがあります。
敢えて触れずに、軽く頭を下げました。
「おはようございます、イオライトさま」
「おはよう」
薄暗いキッチンだからこそ、顔を見合わせて微笑むことができます。
「指のけがは治りましたか?」
「あぁ。もう大丈夫だ。ありがとう」
指先の綿は外されていました。
ささいな傷だったので、治りも早かったのでしょう。
「精が出るな。こんな時間からサンドイッチづくりとは」
「今日はわたくしも出かけますので、ふたり分のランチボックスを作ろうと思いまして」
イオライトさまが大きく手を叩きました。
「最高だ! 昼にもアネットの手料理を食べられるとは!」
「そんな。かんたんなサンドイッチですよ」
「それがいいのだろう。では、朝食は私が作ろう」
イオライトさまが改めて手を洗い、ボウルへ小麦粉と砂糖を量ります。
「何を作ってくださるのですか?」
「ホットケーキだ」
「ホットケーキ!」
「アネットのものには遠く及ばないだろうが、見よう見まねでやってみるのも大事なことだからな」
そう言うとイオライトさまは片手で卵を割ります。
期待しておくことにしましょう。
わたくしはわたくしで、トマトを輪切りにして水気を拭きます。
さらに、鍋の湯を捨てて、水を流しながらゆで卵の殻を剥きます。
きれいに剥けたゆで卵はボウルに入れて、フォークの背で、白身が大きく残るように潰します。
塩こしょうを振るときは、こしょうを敢えて多めに。
マヨネーズとざっくり和えたらペーストの完成です。
スライスしたカンパーニュには薄くバターを塗り、バランスよく具材を載せていきます。
隣からは甘い香りが漂ってきました。
「……よしっ!」
勢いのいい掛け声。
ちらりと見遣ると、イオライトさまがターナーでホットケーキをひっくり返すところでした。
完璧なきつね色になっています。
横顔からも嬉しそうにしているのが分かりました。
わたくしまで、嬉しくなってきます。
……些細なことではありますが、こんな時間が続けばいいのにとも思います。
もちろん、それは叶わない願いではありますが。
諸々の感情を悟られないように俯きながらサンドイッチを仕上げます。
外はすっかり明るくなっていました。
窓を開けると涼しい風が入ってきます。
「できたぞ! 朝食にしよう」
なんとコーヒーまで淹れてくださったイオライトさまは、手際よくホットケーキとコーヒーをテーブルに運びます。
ホットケーキの上には角切りのバターが融けかかって染み込んでいました。
メープルシロップの小瓶と、コーヒー用のミルクもテーブルに揃いました。
湯気にそれぞれの美味しさが混じり合っていて、嗅ぐだけでお腹が鳴りました。
「ありがとうございます、イオライトさま」
「こちらこそ。早速いただくとしようか」
ホットケーキの一口目は、バターのみでいただくことにします。
さくっとフォークが表面に入った後、ふんわりとした感触が伝わってきました。ちょうどいい大きさにナイフで切り分けて口に運びます。
香り通りの香ばしさが広がった後に、優しいと表現するのがぴったりな甘さを感じます。
完璧な焼き加減のホットケーキです。
「とても美味しいです」
「当然だ。アネットの手元を見て学んだからな」
「そんな。恐れ入ります」
メープルシロップを垂らすと、表面を流れるようにして皿へと滑り落ちました。
切り口へたっぷりとシロップを染み込ませてからいただくと、一口目とは違った味わいがあります。
じゅわっと染み出るように、シロップがホットケーキから飛び出てくるようです。
コーヒーも渋みが一切なく、ほろ苦い濃さがちょうどいいです。
「うん、美味い。我ながら完璧なホットケーキだ」
イオライトさまも自らのホットケーキの出来に満足しているようでした。




