003.求婚
粗末なものを口にさせる訳にはいかず、慌ててわたくしは食事を用意することとなりました。
自分ひとりのみでしたらトマトスープだけで事足ります。
しかし、お相手は水竜王さまなのです。
厚切りのベーコンの表面は、熱したフライパンの上で動かさずにじっくりと焼くことで、焼き目がつくだけではなく煌めくような脂がじんわりと現れます。
早朝に市場で購入していたお野菜のなかから、青々しいだけではなくて花蕾がしっかりとしまっているブロッコリーを取り出しました。
小房に分けたのち、水洗い。塩を入れて沸騰させた湯で食べやすくなるように茹で上げます。
それから晩に食べようと思っていた丸いパンを、紙袋からかごへと移しました。
特別な日に食べる高級なバターもふたかけらだけ室温へと出します。
とはいえ庶民の食事以上にランクアップすることは不可能です。
数百年ぶりの食事がこんな些末なものになってしまったことに胸が痛みます。
ところが水竜王さまは、空と海のような瞳を細めて、うれしそうに口角を上げました。
「あぁ、とても美味しそうだ」
「申し訳ございません……」
「何故謝る? 突然食事を要求したのはこちらの方だ。もちろん、後で見合う対価は与えるつもりだ」
「いえ、結構です。水竜王さまからなにかをいただくなんて、とんでもないです」
「イオライト」
わたくしがテーブルの向かいに座ったところで、水竜王さまはしっかりと一音ずつ、ご自身の名前を口にしました。
「他はそうでもないけど、私は『気さくな竜王』という立ち位置でスフェーン王国の建国以来やってきている。是非とも、名前で呼んでくれたまえ」
「恐れ多いです……」
水竜王さまが心底ふしぎそうに首を傾げられます。
わたくしとしましては、水竜王さまの態度の方がふしぎでなりません。
「どうぞお召し上がりください」
「うん。いただこう」
まずは、沸騰直前で止めることができた熱いトマトスープからいただきます。
口のなかでとろけるように崩れる野菜たち。
トマトの酸味だけではないコクとからまって、食べているのにお腹が空いてくるようです。
新鮮なブロッコリーは茹でただけでもじゅうぶん。
青臭さは一切なく、程よい塩味が効いています。
唯一ナイフとフォークを使う必要のある厚切りベーコン。
ナイフを入れるだけでも伝わってくるのは弾力で、零れてくるのは肉汁です。
食べやすい大きさに切って口に運ぶと、旨みが口のなかいっぱいに広がります。
ふと水竜王さまを見ると、ベーコンを切らずにそのまま食べるところでした。
大きな口を開けて、ひと口で。
ゆっくりと、丁寧に咀嚼しています。
瞳が輝くのがわたくしにも分かりました。どうやら、好みの味だったようです。
ようやく安堵することができました。
パンを両手で割って、そこへちょっぴりバターを載せます。
すっきりとしながらもミルクの濃厚な風味がたまらない、高級品です。
「こんなに美味しいもの、久しぶりに食べた……」
水竜王さまが言葉を零しました。
数百年ぶりの食事だからこその感激かもしれません。
「パンもバターも美味しいですよ。どうぞお好きなだけ召し上がってください」
「ありがとう」
すなおに受け取ってくださった水竜王さまがわたくしを真似するようにしてパンを頬張りました。
「なんで……なんでただのパンとバターなのにこんなに味わい深く染み渡るんだ……」
「空腹だったからではないでしょうか」
「いや、違う。そんな単純な話ではない。素材と作り手の腕がすばらしいのだ!」
「おそらく、素材が九割を占めていると思います」
「そんなことはない。一対一だ」
謙遜はすなおに受け取ってくださらないようです。
何を思われたのか、水竜王さまは立ち上がると、わたくしの方へと歩いてきました。
それから再び片膝をつき、今度はしっかりとわたくしの右手を取ると――
「?!」
手の甲に、やわらかな感触。
なんということでしょう。水竜王さまは、恭しく口づけをしてきたのです。
「アネット。私は君のことが気に入った。どうか、結婚してほしい」
「お、お断りさせていただきます」