002.自己紹介
「あなたの、名前は?」
「あ、あぁあ……」
一体、何が起きているというのでしょう。
わたくしはただ、砂浜に打ち上げられていたタツノオトシゴを拾っただけだというのに。
付け加えるならば――小さなキッチンの、小さな木製のテーブルの上に、球状の水槽を用意して。
そこに海水とタツノオトシゴを入れただけだというのに。
全体が黄色くて、青い斑点のある、手のひらサイズのタツノオトシゴだったというのに。
どうして軽い破裂音と大げさな霧のあと、目の前に男性が現れたのでしょうか。
床に座り込んだまま、一生懸命に頭を働かせます。
ただ、唇は震えたまま、うまく動かすことができません。
「すまない。驚かせてしまったかな」
低いけれどもやわらかく耳に残る声に、おそるおそる男性の顔へ視線を向けました。
褐色の肌。
青みがかった金髪は少しパーマがかかっているようです。
まるで彫刻のように整った顔立ちの中心、特徴的なのは、瞳の色です。
左側は明るい青で、右側は濃い青色。
すっと通った鼻梁を水平線に喩えるならば、
「空と、海……」
ようやく零れた言葉。
彼の瞳は、まるで空と海のような透明度を有していました。
美しさに息をするのを忘れそうになります。
幼い頃に心を射抜かれた、海の絵のように。
彼もまたわたくしを見つめてきて、なにかを納得したかのように右手を顎へと遣りました。
よく見れば、まるで王族の正装のような、光沢の強い服を纏っています。そして、それがよく似合っています。
少し困ったように彼は眉を下げました。
「なるほど。君は、この国の人間じゃないのか。だったら知らないのもしかたない」
彼が判別したのは、わたくしの見た目からでしょう。
艶のある黒髪も、瑠璃色の瞳も、この辺境都市はもとより、国じゅうどこにも見当たらないと聞いています。
彼は床に片膝をつき、なるべくわたくしと目線の高さを揃えようとしているようでした。
それから右手を差し出してきました。
「私はイオライトという。スフェーン王国の守護竜のひとつである」
「しゅ、守護竜……?」
聞いたことはあります。
しかし、それは伝説とか御伽噺、童話の存在程度にしか考えていませんでした。
嘘を言っているとはとうてい考えられません。
なんとか、わたくしは現状を理解することに成功しました。
「あらためて、名を問うてもいいかな?」
「……アネットと、申します」
水竜王と名乗った存在の手は取らずに、わたくしは不格好な状態から床に座り直します。
「ご推察の通り、出身はユークレース公国でございます。水竜王さまの存在は存じ上げておりましたが、大変失礼いたしました」
「なるほど、雪の国か。だからそんなに肌が白いのか」
「こちらで暮らすようになって一年は経ちます。だいぶ日焼けしたとは思うのですが」
「それでも、地の白さが違うさ」
柔らかな微笑みに、警戒心はにわかに解けていくようでした。
「!」
失礼なことは承知で、わたくしは勢いよく立ち上がりました。
なぜなら吹きこぼれそうだったからです。火にかけておいた、具だくさんのトマトスープが。
慌てて火を止めて鍋の蓋を開けると、たちまち酸味と甘みの混じった湯気が放出されました。
鮮やかな赤色のなかに浮かぶのは角切りにしたお野菜。
今回は玉ねぎとじゃがいもとにんじんが入っています。
昨日の晩から仕込んでおいたものなので、やわらかく、スープの味がしっかりと染み込んでいることでしょう。
「アネット」
「申し訳ございません、お話の途中に」
振り向いて深く謝罪すると、言葉の代わりに返ってきたのはお腹の音でした。
気まずそうに水竜王さまが両手を合わせます。
「ほんとうに申し訳ないんだが、食事をいただいてもいいだろうか。実は、数百年も、何も食べていないんだ……」