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027.ホットミルク




 塩の博物館を訪れた日の夜。

 なかなか寝付けず何十回目かの寝返りの後、寝ることを諦めて階下へ降りることにしました。

 階段から伝わってくるのは熱ではなく冷たさ。

 日中とは違い、ひんやりとした空気が迎えてくれます。


 テーブルの上の丸い水槽が、月光を受けて美しく煌めいていました。

 黄色くて青い斑点のあるタツノオトシゴ――イオライトさまが浮かんでいます。

 よく見ると、海藻にしっぽを巻き付けていました。


 思わず笑みがこぼれます。

 タツノオトシゴの姿は愛らしくて、いくらでも眺めていることができます。

 ……いえ、人間の姿をしているときには見つめることなんてとてもできません。


 たゆたう様に癒しを覚えます。

 椅子に腰かけて、ダイニングテーブルの上の水槽へ顔を近づけたときでした。


『眠れないのか?』

「お、起きていらっしゃったのですか」


 ――軽い破裂音と霧。


 霧が晴れると、わたくしの向かいにはイオライトさまが立っていました。

 火の魔石でやわらかな明かりをつけてくださいます。


「すみません。もしかして、起こしてしまいましたか?」

「いや、私の眠りはだいたいが浅いのだ。問題はない。それより、アネットが起きてくるということの方が珍しいな」


 仄暗さのなか、不意に視線が合って俯いてしまいました。


「あの、イオライトさま。よかったら、ホットミルクでも飲みませんか?」

「いい提案だ」


 立ち上がったわたくしに、イオライトさまは軽く制するように腕を伸ばしてきます。 


「私が作ろう」

「いえ、そんなわけには」

「弱火で温めるだけだろう? それまでに眠くなったらまた寝室へ上がればいい。夜更けまで活動的になることはない」


 優しさを滲ませながらも有無を言わせない口調に、すなおに座ったままでいることにしました。

 イオライトさまの背中へ視線を向けます。


 おそらく塩の博物館でソベリルに会ったことが不調の原因だと知られてはいるでしょう。

 ……もしくは、両親が原因であると。

 かつて一度だけ話したことがあります。


『両親の許可は必要ございません。国を出るときに、縁を切ってまいりました』


 両親に会いたい、という希望へ返した言葉。


「……」


 泥に沈んでいくような心とは反対に、室内にはやわらかく甘いミルクの香りが漂ってきました。

 顔だけを向けてイオライトさまが尋ねます。


「はちみつも入れるか?」

「はい。お願いします」

「了解した」


 やがてできあがったホットミルクは、ふたつのマグカップから湯気を放ちます。


「どうぞ」


 はちみつ入りのホットミルク。

 湯気を吸い込むだけで甘さが全身へ染み渡るようです。


「ありがとうございます」


 イオライトさまが向かいに座りました。


「甘いものは、疲れたときにいいらしい。釣り人から聞いた」


 昼間目にした、お酒を飲みながら釣りをする人々の姿を思い出します。


「彼らの場合は、甘い酒を飲む、らしいが。ん? その理論ならば、梅酒が完成したら梅酒を飲めばいいのか?」

「そうですね。イオライトさまはそれでいいかもしれません」


 真剣に考えているようなしぐさに笑みがこぼれてしまいます。


「梅酒もだいぶ浸かってきたでしょうし、そろそろ梅の実を取り出さなければなりませんね。実はジャムにしても美味しいかと思います」

「なるほど。それは楽しみだ」

「ヨーグルトと一緒に食べても美味しいですよ」


 少しの間、お互い無言でホットミルクを飲んでいました。

 ですがふと思い出して口を開きます。


「そういえば、ミニトマトを大量にいただいたんです。そのうちセミドライにして、オイル漬けにしましょうか」

「また美味しそうなものを……。なんだか腹が減ってきたな」


 わたくしも、深夜に起きるということが珍しいからか、空腹を感じているような気がしてきました。


「イオライトさま。スコーンを温めて、半分こにしませんか?」

「名案だ」


 制される前に立ち上がります。


「今度はわたくしが」


 冷凍庫に眠らせていた、プレーンの丸いスコーンをひとつ取り出します。

 温め直して腹割れしている部分で割ると、ミルクとは違う甘さが立ち昇りました。

 小さな丸皿ふたつにそれぞれ載せて、クロテッドクリームを添えます。


「どうぞ。クロテッドクリームと共にお召し上がりください」

「いただこう。……うん、美味い。それに、ちょうどいい量だ」


 わたくしもイオライトさまに続いてスコーンを手に取ります。

 まったくぱさついていない、しっとりとしたスコーン。

 クロテッドクリームの絶妙な甘さとの相性は言わずもがな。

 あっという間に食べ終わり、溜め息が漏れてしまいました。


「……深夜のお菓子というのは背徳感がたっぷりあるものですね」

「そういうものなのか? 人間というのは難しいな」


 そういうものなのですよ。とは、敢えて口にしないでおきましょう。

 その代わりなのか、あくびが出てきました。


「す、すみません」

「やはり満たされると眠気というものが出てくるのだな」


 少し恥ずかしいですが、たしかに、今なら眠れそうです。


「おやすみなさい」

「うむ。いい夢を」


 階段を登っていると、イオライトさまの呟きが耳に届いたような気がしました。


「難しいな。人間というものは」


 先ほどと同じ言葉の筈なのに、別の響きを滲ませて。




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