第6話 茉莉花
「何か用か?」
夜蘭は相変わらず怪しい笑みを浮かべる蒼牙の前に立つ。
先ほどの女官は落ち着くまで夜蘭の部屋で待機してもらっていた。
「ここで一番いい絹と尚服局の機織り機を貸してください」
「ほう? それは随分難しい要求だな」
躊躇いもせずに言ってのけた夜蘭に蒼牙は難しい顔をしたが、すぐにまたいつもの顔に戻った。
「その要求、叶えられない訳ではないが」
「本当ですか?」
「条件がある」
もちろん、それは想定済みだった。
夜蘭にできることは何でもしようと思うが、金銭に関しては申し訳ないがあの女官に払ってもらおうと思う。
「今度お茶でもしないか? 二人で」
「......」
思わず宰相閣下に虫を見る目を向けそうになった。
ただ本当にお茶だけならば好条件だろう。
「お茶だけ、ですね」
「気分によってだな」
とにかく今は時間がない。
そんなことを考えている暇があるならば一刻も早く作業に取り掛かりたいところだ。
「すぐ用意する。ついてこい」
そう言って背を向ける蒼牙に、夜蘭は宰相閣下とお茶をするその日の自分の安全を願いながらついて行くのだった。
夜蘭は部屋にいる女官を連れて尚服局へやってきた。
女官は涙が枯れたようで先ほどからしゃっくりを繰り返している。
尚服局の角を開けてもらっていたようで、そこには一台の機織り機と大量の絹糸が置いてあった。
早くしなければ間に合わないのかもしれないので早速始めようとすると、女官が声をかけてきた。
「あの、なぜ私を助けてくれるのですか? あなたがしたことではないでしょう」
「そうだね」
夜蘭がこの女官を見捨てるのは簡単だろう。
夜蘭の方が位は高い。
役職上は同じ位だが、種族上どうしても鳳凰が一番になってしまうのだ。
だがいい案が思いついたのだから助けてやりたい。
夜蘭にも他人が鞭に打たれるのを無言で眺める趣味はないのだ。
夜蘭は本心を話すことにした。
「私、後宮に来て一月で友達が一人もいないんだけど」
「......一人も?」
「あなたもでしょ?」
女官は少し苦い顔をして頷いた。
「似た者同士、少しでも近づけたらいいなって思って......」
夜蘭は少し視線を逸らしてそう言うと、女官はぱっと顔を明るくして夜蘭のそばに歩み寄ってきた。
「そうなのですか?! 大変光栄です!」
とりあえず喜んでくれた女官に安心した。
夜蘭はあまり人と話したことがないのでよく言葉の選択を間違えてしまうのだ。
「そろそろ始めるよ」
「はい!」
軽やかな音を立てて機織りを始める。
記憶があっていれば正解のはずだ。
昔はよく幼馴染と哥哥と一緒に歌を歌いながらやっていた。
——とてもきれいな茉莉花 とてもきれいな茉莉花——
かったんとんとん、かったんとんとん。
——かぐわしい枝満開の美しさ 香りと白さを誰もが褒める——
とんとんからり、とんとんからり。
——私にあなたを摘ませて 誰かに送らせて——
かったんからから、かったんからから。
一つ一つの優しい機織り機の音がまるで歌のように聞こえる。
そういえば今頃幼馴染はどこで何をしているのだろうか。
もしかしてもう死んでいるのかもしれない。
気づけば夜蘭の頰に温かいものが伝っていた。
——茉莉花や 茉莉花——
もう自分のものではない記憶を辿って。
黒鳳凰は機を織る。
「完成」
「おおー!!」
——数刻後。
先ほどまで泣きべそをかいていた女官の目がきらきらと輝いている。
出来上がったのは絹でできた壁掛け。
天まで届く高い塔と空を飛び回る鳥、山や川などの自然の風景まで細かく織り込んであったそれは、材料のどれも最上品を使った極上の一品である。
もう少し時間があれば香を焚いたりできただろうが、あいにく時間がない。
あとは淑妃の元へ持っていくだけだ。
「あの、どうやってこれをお妃様に届けるのですか?」
そう、その問題があった。
夜蘭たち下級女官は上級妃嬪に近づくことすら許されていないのだ。
宦官などを介して渡せばいいのだが、水墨画を台無しにされてご立腹なあの宦官はもういない。
「いい仲介者を知ってる」
そう言って夜蘭は再び金龍の姿を探し始めたのだった。
何もかもが成功したのは奇跡だったのかもしれない。
あの後蒼牙のところへ行ったのだが、普段驚くことのない彼でも明らかにびっくりしたように切れ長の目を見開いて受け取ってくれた。
淑妃の好みにもぴったり合っていたようで安心した。
さらに眉目秀麗な閣下から渡してくれるなら淑妃も文句はないだろう。
翌日、夜蘭には新たな日々が訪れていた。
「今日は天気がいいみたいだね。よかったら外でお茶でも飲まない?」
「喜んで!」
この女官は感情の振れ幅が大きいようだ。
昨日蒼牙に会ったとき頰を淡く染めてうっとりしていたのに、今は茶器を乗せた盆を持って中庭をぴょんぴょん飛び跳ねてはしゃいでいる。
「茉莉、早く」
「あ、すみません!」
この女官の名前は茉莉と言った。
種族は柄長。
全国に広く生息している小鳥だ。
鳥の姿での外見は目の上の眉斑がそのまま背中まで太く黒い模様になっており、翼と尾も黒い。
肩のあたりと尾の下は桃色で、額と胸から腹にかけて白くなっている。
「今行きますので......って、うわあ!?」
何かにつまづいたのか茉莉の体は茶器と共に宙を舞った。
そして夜蘭が振り向いた頃にはもう遅かった。
「すみません!! 今すぐ片付けますので!」
幸い茶器は壊れていないが、中の茶は全てこぼれていた。
茉莉は謝ったのちすぐさましゃがみこんで片付けを始めた。
本当にこの子は危なっかしい。
夜蘭はくすくすと笑い、茉莉の隣にしゃがみこんだ。
「い、いけません!! 夜蘭様は鳳凰様なんですから......!!」
確かに鳳凰なら地面にしゃがみこむことをしないだろう。
青桐の木にしかとまらない鳳凰は地面に近づくことを激しく嫌がる。
だけど夜蘭は普通の鳳凰ではない。
「大丈夫。......それより」
茶器を拾いながら、夜蘭は顔を上げた。
「茉莉は私を鳳凰として扱ってくれるんだね」
「え? あ、あの、その......」
「ああ、別に責めてるわけじゃないから安心して」
幼い頃からこの黒い羽のせいで化け物だと言われ続け、ちゃんと鳳凰だと言われるのは慣れていなかったのかもしれない。
「こんな黒い羽じゃ、鳳凰なんて言ってもらえないから」
「そんな......こんなに綺麗な黒色、見たことないですよ」
そう言われたとき、夜蘭の緊張が少し和らいだ。
自分が認められた気がしたからだ。
「そう、綺麗......ね」
そうして二人は少しの間笑っていた。
この子となら一緒にやっていけそうだな、と夜蘭は改めてそう思った。
【用語解説】
・尚服局—後宮の六局の中で衣服に関連する仕事を行う局。
・茉莉花—ジャスミン。
本作の途中で出てくる歌は『茉莉花』という中国の民謡を元にしています。
《中国版の歌詞》
好一朵美麗的茉莉花,好一朵美麗的茉莉花,
芬芳美麗滿枝椏,又香又白人人誇;
讓我來將你摘下,送給別人家;
茉莉花呀茉莉花,
《ピンイン》
hǎo yī duǒ měi lì de mò lì huā hǎo yī duǒ měi lì de mò lì huā
fēn fāng měi lì mǎn zhī yā yòu xiāng yòu bái rén rén kuā
ràng wǒ lái jiāng nǐ zhāi xià sòng gěi bié rén jiā
mò lì huā ya mò lì huā