第八戦 終戦
終戦
昭和20年8月、戦局は一気に敗戦へと加速した。
8月6日、広島へ原子爆弾投下。8月8日、ソ連が日ソ中立条約を破棄し対日宣戦布告、満州に侵攻。8月9日、長崎へ原子爆弾投下。大本営は、いよいよ本土決戦の時機到来と最後の反撃の指令を発した。
多摩飛行場で連絡将校の津田が多摩飛行機の少女達を集めて説明をした。
「これまで、横須賀の飛行隊は本土決戦に備えて戦力温存を旨としてきました。しかしこれからは、見敵必滅、敵の艦隊が日本近海に現れ次第、全力でこれを撃滅する方針となりました」
「これは、横須賀からも特攻を出すということです。現在そのために、隊の編成替えを行っています」
少女達は津田の言葉を真剣な面持ちで聞く。
「それに伴い、多摩飛行場にある飛行可能な航空機は全て横須賀へ移すことになりました。今回は皆さんが受け取る代替機はありません」
「それは、私たちは邀撃戦の任を解かれるということですか」
智子が聞き返す。
「そう解釈していただいて結構です。これまで、皆さんが民間人の立場のまま戦闘に参加してきたことが異常でした。横須賀も厚木もパイロットたちはいよいよ死ぬときがきたと覚悟を決めています。そのような中で皆さんに戦闘に参加していただくわけには行きません」
津田はきっぱりと言い切った。
この決定には、横須賀基地の副指令の山田の意向が入っていることは間違いない。
「明日朝夜明けと同時に多摩飛行場を発進、横須賀基地へ飛行機を届けましたら帰りは鉄道で戻られてください。帰るための着替えも準備して飛んでください」
軍の組織の中で正式に決められたことは絶対である。
「はい」
智子たちは姿勢を正して返事をした。しかし心の底では納得はできない。この戦争に勝ちは無いことは彼女たちも知っていた。そして、今回の決定が彼女達を生かすためになされたことも理解していた。しかし、十代の少女達は真っ直ぐである。一緒に戦い、また優しく接してしてくれたパイロット達が死を覚悟した戦いをしするときに、何もすることが出来ないということは辛かった。もし、特攻に行く彼らを直援する話があったらば智子達は迷わず志願したであろう。
源五郎が声をかける。
「この零戦を横須賀にお返しするのならば、皆で最後の整備をしましょう」
手を動かせば気持ちが落ち着く。少女たちはつなぎ服へ着替えて点検を始める。時間が無いので分解整備は出来ないが、エンジン、舵、電気系、隅々まで確認をし、最後は機体を乾拭きで磨き上げる。飛ぶときにいつも身に着けていた諏訪神社のお守りを操縦席に結びつける。
その機体を前に並んで拍手を打つ。
「今まで大変お世話になりました。これまで私たちをお護りいただきましてありがとうございました。どうぞ、次に乗られる操縦士の方もお護りください」
整備を終えたあとは神社を参拝するときのように感謝の言葉を言うのが多摩飛行機倶楽部の風習である。
一緒に整備を手伝った篠原が泣いている。感情の起伏が激しい男である。少女たちの姿に打たれたのだろう。
翌朝、夜明けと同時に3機が飛び立つ。
横須賀では副指令の山田が待っていた。
「これまで本当に良くやってくれた。ありがとう」
「私としては君たち全員を龍子さんへお返しすることができて本当にほっとしている」
事実上の解任の言葉である。
「いろいろとお気遣いをいただきありがとうございました。お世話になりました」
智子が代表をして礼を言う。それ以上は話さない。何を言っても受け付けない思いであることは山田の表情を見れば分かる。横須賀基地の中でも貴重な戦力である彼女たちの任を解くことに反対する者が多くいた。それを押し切って解任へと意見を取りまとめたのが山田である。
少女達は飛行服を着替えて基地を出る。
ともに戦ったパイロット達には会わなかった。死ぬことを決意した彼らに、かける言葉が思い浮かばなかった。
横須賀からの列車の席に3人並んで座る。
列車が横浜、川崎を通る。見渡す限りの焼け野原が続く。その風景も彼女たちには衝撃であった。
自分たちは何をしていたのであろうか。
優秀なパイロットが次々と失われる中、自分たちは日本の空を護れる技量を持った数少ない操縦士であると内心得意になった時もあった。いつも回りから護られて戦っていた自分たちの立場に気づき、天狗になっていた自分を恥じたこともあった。それでも日本の空を護るために戦ってきたのだという自負はあった。
しかし、今、目の前の焼き尽くされた街の風景を見ると、自分たちがやってきた事が全く無意味であったかのような虚無感に襲われる。
涙が智子の頬を伝う。
目はまっすぐに外の風景を見ている。ただ涙が伝う。拭う事もしない。横の民子が肩を寄せる。この時、日本にはいたるところに悲しみを抱える人々がいた。列車の中には彼女たちへ気づく人もいたが皆優しく目をそらせた。
幸い空襲は無かった。これは、東京がもう爆弾を落とす必要が無いほど破壊されつくしていたことを表してもいた。
多摩に戻って是政駅を降りる。多摩飛行場まで歩く。家では龍子と源五郎が待っていた。連絡将校の津田と整備士の篠原は入れ違いで横須賀基地へ戻ってもういない。
夕食、龍子が3人へ向かって話をする。
「不二の家は何度も負けてきました」
「維新の時は日野の土方さん達を応援して甲陽鎮撫隊にも加わりました」
日野の土方とは新撰組の土方歳三である。甲陽鎮撫隊は明治維新の戊辰戦争の際に、甲州街道を経由して江戸を目指した官軍の東山道軍を甲府で食い止めるために新撰組を中心として編成された幕府側の一隊であった。官軍の兵士たちは、薩摩藩、長州藩、土佐藩の下級武士が中心となっており、官軍という名称とは裏腹に、通過する村々で略奪や陵辱など傍若無人の振る舞いをしていることが多摩にも伝わってきていた。多摩の庄屋であった不二家の当主は、官軍から多摩の村々を護るために甲陽鎮撫隊を支援しようと決め、一族の若者も何人かが鎮撫隊へ参加した。しかし、甲陽鎮撫隊は勝沼で官軍との戦い敗れて壊滅をした。
「その時の家長は新政府からお尋ね者にもなったそうです。でも、後になって明治の政府のために働いて、天皇陛下が多摩にこられたときに、お休みどころに不二の本家をお使いになられるまでになりました」
「その前の太閤様の関東征伐のときは、不二の一族は、小田原の北条様を助けて太閤様や徳川様と戦いました」
豊臣秀吉による小田原征伐のことである。このときも北条氏は滅亡、しかしその後、不二家は関東へ移封してきた家康に見いだされ、多摩を統治する庄屋の筆頭として重用された。
「うちの家はいつも負けてばかりなのね」
龍子の言い草に民子が笑う。
「勝つときもあれば負けるときもあるのが世の中です。負けるということは特別なことではありません。勝ったときも負けたときも正しく振舞える、それが大切なことです。勝ったときに振舞いを間違えれば、努力して得たものを失うことになります。負けたときに振舞いを間違えれば、それこそ全てを失うことになります」
この時まだ日本は戦争を続けている。しかし、龍子の言葉は負けたことを前提に話がされている。少女たちも何の違和感も無くそれを聞いている。少女たちの終戦は既にこの日に始まっていた。
3日後、昭和20年8月15日正午、昭和天皇のポツダム宣言受諾の詔勅がラジオにて放送される。玉音放送である。多摩飛行機のラジオは、マリアがよく調整をしてあったため、陛下の声がよく聞き取れた。事前に重要放送があると知っていたので、放送が始まる前から、徹底抗戦を促す放送か、敗戦を告げる放送のどちらかであろうと思っていた。放送を聞いた時、これで戦争が終わるのだということを理解した。今後自分たちに出来ることは正しく振舞うことである。
敗戦後、いくつかの混乱があった。
厚木基地の一部の軍人、パイロット達によるポツダム宣言受諾拒否、徹底抗戦へ向けての様々な行動があった。多摩飛行機へも連絡があった。少女たちへの協力依頼、および、戦争継続のために多摩飛行場を使用することの申し入れである。連絡将校の津田が横須賀へ戻ったことより、電話には智子が応対をした。
「私どもは、横須賀の山田副指令と津田中尉の指揮のもので活動をしております。そのお二人からの指示無しで勝手に戦うことは出来ません」
断る智子に電話の向こうの将校は、あの玉音放送は偽勅であり騙されてはいけないと繰り返し主張をした。しかしマリアが調整したラジオから聞いた声の持つ誠実な響きに、あれはまさしく陛下のお言葉であると智子は確信していた。
共に起たないのならば力ずくで多摩飛行場を占拠する、その時お前たちがどうなっても知らないぞという恫喝も受けた。
「お言葉、確かに承りました」
智子はそれを聞いて静かに受話器を置いた。
「女は脅せば言う事を聞くとでも思っているのか、馬鹿将校」
智子は正義感が強い。理不尽な相手の言うことには取り分け反発する。こういうときの智子は頑固である。そして腹がたった時ほど冷静に、元気になるのも智子である。
「でもどうする。本当にその兵隊さんたちがやってきたら」
民子に智子は答える。
「正しい振る舞いをすること、そして多摩を護ること」
多摩飛行場は、飛行できる機体を横須賀へ運んだものの、3号爆弾や予備の機関砲や銃弾、燃料は置かれたままになっている。また、程度が悪く修理しても十分な性能を出すことが出来ないことから、部品取得用におかれていた零戦の機体も1機残っていた。この機体は、予備のエンジンや部品をつなぎ合わせれば飛べるくらいには出来そうであった。
「まずはこれを隠そう」
「なんだ、智ちゃんこれを使って戦うのかと思った」
「今は平和を目指すこと。戦うのは正しい振る舞いじゃない」
「でも、これをもっていれば、戦わなくてはならないときが来たら戦うことができる」
「戦うときって」
「まだ分からない。多摩飛行場に攻めてきた反乱軍になるかもしれないし」
「米軍が日本を占領して許せないことをしたら、そのときはアメリカの司令官の頭の上の3号爆弾叩き落してやる」
怒りの気持ちが智子を生き生きとさせている。3人で話し合い、飛行場横のハンガー(格納庫)にある装備や弾薬、武器を隠し始める。
捨てるのではなく隠すのである。野ざらしとなる場所や湿気のあるところには置けない。蔵や納屋に分際して配置し、すぐには分からないようにカモフラージュをする。不思議なもので目的を持って行動をすると楽しくなる。民子もマリアも宝物を隠すかのように嬉々として動く。さすがに部品取り用の零戦の機体はハンガーの中に置くしかないがエンジンは外して離れた納屋へ隠す。機材によっては何百キロもあるものもあるが、滑車や台車、自動車を使って大急ぎで運び出す。燃料や食料も貴重である。一部は近くの神社の社殿へも隠した。
相手は厚木の航空隊である。いざとなったら航空機で多摩飛行場へ強行着陸して制圧に来るかも知れない。電話の向こうで将校は、日本は神国である、降伏はない、国体に反するごとき命令に我々は絶対に服さない、逆らうものは許さないと叫んでいた。精神状態も尋常ではない。武力で制圧されたときは少女たちもどのような目に合わされるかも分からない。
「来たら逃げる。でも何も渡さない」
これが智子の方針である。民子とマリアも納得している。とは言いながらも智子は愛用の居合い刀を身につけて離さない。マリアも祖父の猟銃と金庫に入っていた弾丸を出して手元へ置いておく。やる気満々である。民子は飛行場を見下ろせる斜面へ「秘密基地」と称して忍者の隠れ家のようなものを作り20ミリ機関砲を据え付ける。
しかしそれから5日、日本軍首脳の度重なる説得が功を成し、厚木基地の抗戦派も戦闘継続を諦め武装解除に応じた。
8月30日マッカーサーが厚木基地に到着、本土においての日本軍の武装解除と兵士の復員が進められる。日本側とアメリカ側がお互い誠意を以てことに当たり、日本国内においては当初心配された大きな報復や不必要な流血の事態は起こることは無かった。
混乱はあったが、一ヶ月足らずのうちに人々は戦争の無い新しい生活へと順応しようとしていた。
9月、津田が多摩飛行機へやってきた。
一綴りの書類を智子達へ渡す。
「山田副指令と相談をして、皆さんへ災いが及ばないように、多摩飛行機さんに関する記録を全て処分して来ました。皆さんがされたことは、海軍の歴史には一切残らないことになりました」
「しかし、皆さんが示された志と活躍は消えることの無い事実です。そのため、この書類は私の独断で持ち出してきました。お持ちになるのも、処分をされるのもお任せをします。本当にご苦労様でした」
津田は、まっすぐに智子を見つめながら言う。
書類を受け取り智子が尋ねる。
「津田さんはこれからどうされるのですか。もし、よろしかったらここに残っていただけませんか」
「いえ、それは出来ません。私はここにいても、もう皆さんのお役には立てません。私の同期はこの戦争で沢山死にました。そんな時、私は多摩飛行機にいて夢のように幸せな時間をすごしていました。これから私に何が出来るかまだわかりません。でも死んだ仲間の分も日本のために役立つような道を進まないと、私は彼らにあわせる顔がありません」
書類を渡すと津田は多摩飛行機を後にした。
智子達にとって、撫子邀撃隊は、この日完全に過去のものとなった。
龍子は、智子たちへ命じる。
「もう、多摩飛行機倶楽部は飛行機の仕事は出来ません。でも、戦地に行った人たちはやがて戻ってきます。あなたたちはその人たちの生活を成り立たすための術を考えなさい」
少女たちはいろいろと考え始める。
残されたものは、飛行場の土地、多少の機材、ハンガー、自動車とガソリン、機関銃と弾丸、3号爆弾、通信機。また、軍の仕事を手伝った際の軍票(軍が発行した通貨)は殆ど紙くずになってしまったが、併せて提供された米や砂糖、小麦粉などは随分残っていた。しかし物の切り売りではすぐに底をつく。事業を始めなくてはいけない。いろいろと考え始める。
自動車の修理や整備、ラジオの修理などはマリアの十八番である。源五郎もいろいろと手伝える。当初は多摩飛行機の取引先に話を持ちかけ、その後は口コミでお客が増えていく。
智子と民子は、養鶏、乳牛の酪農を始める。
多摩飛行機の飛行場は水の便の悪い丘陵地にあり田畑には向かなかった。また、食糧難のこの時期、畑などを作ると作物泥棒に持っていかれる恐れがある。盗まれること以上に盗人を作ってしまうのが嫌で、「芋泥棒はいても、さすがに牛を盗んでいくやつはいないだろう」と智子が言い出したのがきっかけである。動物好きの民子も異は無かった。
多摩地区には軍の飛行場や施設が沢山ある。智子は、米軍がそういった多摩の基地に進駐することより、卵や牛乳の需要があるだろうという見込みを持っていた。智子の頭の中には、早い時期から米軍相手に取引をする考えが浮かんでいた。不二の家は戦で敗れたあとも、新しい時の統治者と良好な関係を持ち、一族と多摩の人々を護っていく伝統がある。米軍と戦ったことと、米軍相手に商売をすることは彼女の頭の中では矛盾や葛藤は無かった。
軍から譲り受けた米や砂糖との交換で鶏や牛を手に入れて、飛行場やハンガーはそのまま牧場や養鶏場へ使用が出来た。しかし、すぐには米軍相手に商売が出来るほど卵も牛乳も生産は出来ない。だが、遅くなると商機を逃がす。幸い多摩飛行機にはトラックも燃料もある。近所の牛や鶏を飼っている家に声をかけて、一緒に米軍へ納品することを持ちかける。ある程度の数を供給できるめどを立てて、立川基地の米軍へ直接納品できるよう交渉に行くことを決める。立川基地には旧日本陸軍の関係者や立川飛行機の人員も残っており、多摩飛行機倶楽部時代の知り合いの伝手で、立川ベース(米軍基地)の主計の米軍将校を紹介してもらう。
智子、民子、マリアの三人は母親のスーツを箪笥から引っ張り出して着込む。子供や商売女と思われたら米軍は交渉してくれないであろう。智子のアイデアで、立川のベース(立川基地)へ行くときにサンプルの卵と牛乳を持って行くこととする。それも多少の量ではない。家にあるトラックに一杯積んで行き、無料で置いて行ってしまう。そうすることで供給能力が十分あることをアピールする。この辺は不二の家に伝わる商売の知恵である。先代の不二正蔵も結構な商売人でもあった。
また、この時代、なまじ中途半端に食料を持って移動をすると「闇物資」として警察の取締りを受ける。場合によってはたちの悪い警察官に取上げられることもある。しかし、米軍相手の納入物としてトラックへ積んで街中を堂々と走ればかえって怪しまれない。トラックの運転は源さんに頼む。3人とも車の運転は出来るが正式な運転免許を持っているのは源さんだけである。源ざんも箔をつけるためにジャケットを着せられ、窮屈そうに運転をする。
ただ、家を出るときひと悶着あった。一緒に卵や牛乳を収める農家のおかみさんたちが、「智子ちゃん達が直接米軍基地に行ったら何されるか分かったもんじゃないよ」と反対したのだった。しかし、智子達は笑って、「もし、酷い目に遭うようなことがあったら、後で爆弾落として立川基地を火の海にしてやるから大丈夫」と言いながら車に乗った。おかみさんたちは、不二の娘さんたちなら本当にやりかねないと不安な顔で見送った。
立川ベースのゲートでは、この見慣れない少女たちが乗ったトラックに門番の米兵が怪訝な顔をしたが、マリアが英語で基地の主計将校の名前を出してアポイントメントがあることと、米軍のための牛乳と卵を運んできたことを説明して取り次いでもらえた。門までジープが迎えに来て、ジープの先導で主計将校のオフィスのある建物の前までトラックを着けた。
主計の大尉はアポイントメントがあることは憶えていたが、来た日本人が少女たちであったこと、流暢な英語を話したこと、サンプルがトラック一杯積まれて来たことに驚いた。戸惑いながらも内務班の軍曹を呼び、彼女たちの持ち込んだ卵や牛乳を評価させた。赤ら顔の軍曹は内務班の炊事係であるが元は生粋のコックである。卵を割り、牛乳を舐め、品質が良いことを確認した上で、彼女たちにどのようにこれを生産しているかを尋ねる。
そして納得をした上で、主計将校に、
「とても良質な卵と牛乳です。こんなのがずっと欲しいと思っていました」と進言した。
すかさず智子が申し入れる。
「私たちにはトラックもあります。適切な対価と納品の証明書、そして運搬用のガソリンを配給していただければ、トラック1台分の量を毎日納品できます」
主計将校はしばらく智子の顔を見る。
智子は真っ直ぐに将校の顔を見る。
凛とした表情である。
将校は目をそらせて言う。
「軍曹、卵と牛乳を調理場へ運んでくれたまえ」
「証明書の手配と価格の取り決めは私のオフィスですることとしよう」
民子と源さんが調理場のある施設までトラックを動かし、卵と牛乳を運び込むのを手伝う。智子とマリアは将校についてオフィスへ戻る。
納品価格は標準的なものであるが、納品時に基地内の施設でガソリンの提供を受けられることを確約してくれた。その旨も納品の証明書と併せて文書にしてもらい、横にいる従卒の兵にタイプをさせて、大尉がサインをしたものを封筒に入れて持たせてくれた。
全てが効率的に進む手続きに智子は不思議な心地よさを感じていた。そして先ほどの軍曹に電話をして受け取った卵と牛乳の量を確認し、伝票を発行して経理から現金を取り寄せた。智子がサンプルであるからと現金の受け取りを断ろうとしたが、主計将校は食材を使用するためには正式の手続きで受け取ったものであることが必要であり、正式な手続きをするためには支払いが必要であると智子へ金を受け取らせた。智子は持ってきたバックからメモ帳と判子を出し、手製の領収書を素早く作成し提出をした。
「君たちは優れたビジネスの資質を持っているようだ」
智子の手際のよさに、初めて主計の将校は笑顔を見せた。
この時期、米軍は日本の占領を円滑に進めるために、統治を担当する将校には特に人間性に優れた人材を選んで送ってきていた。智子の相手を務めた将校もそのようなうちの一人であった。
彼は、マリアへ目を移し、頬のガーゼを見て尋ねる。B29の邀撃戦で負った火傷の跡がまだ完治していないため、外出するときは頬にガーゼをあてている。
「そのガーゼは我々の爆撃で負った怪我ですか」
マリアは、はにかみながら小さく顔を横に振る。まさか、B29と空中戦をしていて負った傷とはいえない。将校は少しホッとした顔をして二人を見送った。
オフィスの建物を出るとトラックの前に源さんと民子が立って待っていた。民子は小さな紙の箱を一抱え、10個ほど持っていた。
「なにこれ」
「コックさん(軍曹)からレーションを沢山もらっちゃった」
民子が答える。
一箱だけ、説明のために軍曹が封を切ったものがある。中を見ると、ビスケット、缶詰、チョコレート、タバコ、ちり紙、粉コーヒー、石鹸などコンパクトに収められている。米軍では軍事行動中に、各兵員へ携帯用の糧食が入った、「コンバット・レーション」を配布することがある。この中には1食分のスナックと一日分の消耗品が入っている。このレーションは内務班に多く貯蔵がされているが、実際に日本国内で使用される事は殆ど無かったため、往々にして兵士たちの間食用に配布されていた。米兵たちは、街で日本人の子供たちに、「ギブミー・チョコレート」など度声を掛けられると、しばしばこのレーションを投げ与えたりもした。
民子は冷蔵庫に牛乳と卵を運びながら、炊事係の軍曹と意気投合し、アイスクリームを振舞ってもらった挙句に、レーションを持てるだけ貰って帰ってきたのである。
行きは荷物を番するために民子とマリアが荷台へ乗ったが、帰りは3人とも前の助手席へ座る。トラックといえども4人乗るときつい。2人の膝の上に1人が乗るように乗車する。特に民子は尻が大きいので智子からは、「民子のお尻邪魔」といわれながらも、3人がくっついて笑いながら助手席に乗っている。戦争中にはあまり見られなかった少女たちの笑顔を見ながら、源五郎は平和の良さを感じている。日野橋の上を越える。P51に追われたマリアが橋下をくぐり抜けた橋である。
「マリア、よく、くぐり抜けたね」
橋を越えながら、今更ながらに民子が言う。
マリアが答える。
「うん、でもあの時くぐり抜けるしかなかったから。でみ、なんか不思議と怖くなかったかな。周りを見る余裕は無くて、橋の下だけがぽっかりと口を開けているように見えて、ああ、ここを通るんだなって。通り抜ける特はすごくゆっくりと通ったような気がした」
「でも、民ちゃん、よく私を見つけて助けに来てくれたわね」
「マリアは見えなかったけどP51が見えて、その飛び方みたらその下にマリアがいるって分かったから。高度を上げると相手に見つかるから、こっちもぎりぎりまで高度を下げて、そしたら中央線の鉄橋の下越しにマリアが見えたから、もうこれは行くっきゃないって突っ込んだの」
二人の会話を聞きながら、智子は川上に見える中央線の鉄橋を見ている。
この川原で命がけの空戦をしたのもほんの数ヶ月前のことであるが何故か遠い昔のことのように思える。零戦に乗って空戦をしていたこと自体が現実でない夢の中での出来事のような奇妙な違和感を覚えながら車に揺られている。
橋を渡ってしばらく走ると校舎が見てくる。智子達が通っていた学校である。智子は無意識のうちに目をそらす。大好きな学校であった。戦時中、軍の仕事を手伝うために休学を申し入れると、校長先生からは再考をするように諭されたが、教頭先生は「大和撫子の鏡」と全校生徒の前で賞賛した。しかし、戦争が終わり復学を申し入れると、教頭は既に退学手続きが終わっており復学は出来ないとかたくなに拒んだ。校長先生が何とかしようとしたが、それも教頭が押し止めた。戦争協力をした少女達が復学することで、学校に災いが及ぶことを懼れたからである。同級生へ聞いたところ、智子達の存在は名簿からも削除されており、在学した記録も一切消されたとの事である。好きな学校だっただけに、智子には辛い仕打ちとなっていた。
トラックが家に着くと、一緒に卵や牛乳を出荷した家のお上さんたちが心配そうに待っていた。3人が無事戻ってきたこと、交渉がうまく行ったことを聞き皆が喜んだ。そしてもらってきたレーションを皆に分けた。
智子はこの米軍相手の取引を組合形式で行うことと決めており、今回受け取った現金も組合の会計に蓄え、各農家たちは納品した量に伴いお金を受け取る仕組みにしてある。会計を公開し監査の仕組みも整え、不正が起きないように仕組みを整備する。今、不二の家にはは自分たちしかいない。やがて戦地から帰ってくる人たちが路頭に迷わないようにするための仕組みを作っておくのが今の自分の仕事と決めている。
智子の父と母は満州のさらに奥地、モンゴルで日蒙両国の合弁の航空会社を作り、それを運営するために日本を離れていたが、ソ連の対日参戦以来全く連絡が取れなくなっている。満州航空が日本軍との半軍半民化し、時として阿片の輸送等にも関わるなどの裏の仕事もする会社となる中、平和のためには多国籍の民間の航空会社を維持することが必要との志を持っての取り組みだった。モンゴルはソ連の影響を受けた社会主義国であったが、航空産業の必要性を感じていたことよりこの申し入れを受け入れた。もちろんソ連の了解も取ったもので、資本こそは入っていないがソ連の要員も会社へは参加している。
一方、民子の両親は日本と東南アジア、インドを結ぶための民間の航空会社を作るために南方に行ったままである。民子の父は陽気な男で、運輸だけでなく、南国でリゾート開発をし、いつかは一大パラダイスを作るといって言っていたが、太平洋戦争が激化するとともに、彼らとも連絡が取れなくなっていた。
マリアの父は、第一次大戦のときはドイツ軍のパイロットだった。やがてドイツの機械メーカーの技師となり日本へ赴任して不二正蔵の娘と結婚してマリアが産まれた。彼がマリアの母と知合ったのも多摩飛行機倶楽部であった。彼は第二次大戦が始まると、ナチスは支持できないが、ドイツのために故国へ戻るといい、マリアを不二正蔵へ預けてソ連経由でドイツへ戻ったが、独ソの戦争が始まってからは音信普通となっていた。
だから、智子の心の中では今の不二の家の当主は自分であった。不二の家は長く多摩の庇護者の家系であり、人々の生活を護るのが使命との気概を引き継いでいる。B29の邀撃戦へ参加したのもそれが理由であるし、今、事業を立ち上げようとしているのもその思いがさせている。ただ、そう考えながらも負う物の重さが物憂く感じるときもある。まだ、18歳の少女である。そんなときに支えてくれるのが民子とマリアであり、見守ってきたのが龍子と源五郎である。
ふと智子がため息をついたところへ民子が飛び込んでくる。
「智ちゃん、大変。お勝婆さんがレーション食べて泡吹いちゃったよー」
「どうしたの」
智子が振り向いた民子は、口を押さえて今にも笑いが爆発しそうなのを必死にこらえている。その後ろには懸命に笑いをこらえているマリアもいる。
民子は笑いをこらえるので精一杯でそれ以上は話せない。代わりにマリアが説明する。
お勝婆さんは近くに済んでいる90歳の老婆である。
孫の幸恵さんは今回の米軍相手の商売に卵を提供してくれるお上さんの一人である。持ち帰ったレーションを開けて、家族で中の食べ物を取り分けていたときに、SOAP(石鹸)と書かれた小さな包みを開けた。アメリカ製の石鹸には香料が入っている。当事日本の石鹸には香料などは使われておらず、家族はそれをアメリカの菓子ではないかと思った。レーションへ入った一日分の石鹸は小さい。
「せっかくだからこれは婆ちゃんへ食べてもらおうか」
幸恵さんは子供たちへ言った。
物欲しそうへ見ていた子供たちも、婆ちゃんへあげるのならば仕方ないと納得し、小さく切り分けて寝たきりの婆ちゃんの部屋へ持っていった。幸恵さんは小さく切ったSOAPを婆ちゃんの口へいれ、「これはアメリカのお菓子だよ」と説明した。
婆ちゃんは歯のない口でクチャクチャと噛んでいるうちにだんだん口からブクブクと泡が出はじめる。驚いた幸恵さんが、「婆ちゃん、どうしたの」と驚くと婆ちゃんは言う。
「石鹸みたい」
そこまで話したところでマリアも弾けるように笑い出す。
智子も畳の上を転げ回りながら笑い出す。3人ともがんばって来たが、皆少女なのである。本来は箸が転がっても笑う年頃である。目に涙を浮かべながら笑いまくる。一息ついて智子が言う。
「もう止めてよ、こんなに笑ったのはお祖父ちゃん(正蔵)のお葬式以来よ」
それを聞いた民子とマリアが一瞬息を止めた後、悲鳴を上げながら笑い出す。
4年前、太平洋戦争が始まったとき、緒戦の勝利に日本中が沸く中、大変なことになると苦虫を噛んだような表情をした正蔵が突然倒れ、意識を戻すことなく逝った。その葬式へは海外に行っている息子や娘たちは戻ってくることが出来ず、妻の龍子が喪主となり、少女たちと一緒に葬式を行った。多くの人が焼香し、いくつも並んでいる香炉の上には抹香が山となった。するとある参列者が何を勘違いしたのか、燃えている抹香をつまんで抹香入れに戻すという、逆の仕草をした。人間は不思議なもので、そのようなときに自分の間違えに気がつかない。その参列者は少女たちの目の前で、
「あっちち、あっちち、あっちち」
と言いながら逆の焼香を3回繰り返す。おそらく指先を火傷したに違いない。
少女達は目を丸くしながら見ていたが、我に返ると爆笑しそうになる。祖父の死が悲しくてもそれとこれとは違う。しかし、葬式の真っ最中である。笑うわけには行かない。咄嗟に口を押さえ、腰を折って顔を伏せて表情を隠す。しかし、彼女たちへ止めを刺したのは次に来た叔母である。顔を伏せる少女たちを見た叔母が彼女達を励ます。
「智子ちゃん、民子ちゃん、マリアちゃん。気をしっかり持ってね」
智子は目を押さえながら小さく頷き、立ち上がって奥に走る。民子も両手で顔を覆い智子の後を追う。マリアもうつむいて後を追う。3人は正蔵に可愛がられていた。大人たちは3人を同情のこもった温かい眼で見送った。3人は奥の間で顔を真っ赤にして、口を押さえて声の出すのをこらえる。お互いの顔を見てさらに笑いがこみ上げる。3人は口を押さえて転げまわる。他人が見たら気が狂ったと思ったかも知れない。
今もそれを思い出した3人がその時と同じように転げまわり始める。
今回は遠慮なく声を出して笑う。しばらく笑って肩で息をしながら、3人がやっと落ち着きを取り戻す。智子が言う。
「ありがとう」
「なにが」
笑いながら民子が聞き返す。
「いろいろ」
「うん」
智子の気が晴れる。
翌日、3人で牧場となった飛行場で草刈と柵の補修をする。源五郎もそれを手伝う。他にも何人か、戦地から戻ってきた者たちが仕事を手伝う。日本を統治するGHQの命令で日本人は飛行機を生産することも操縦することも禁止され、多摩飛行倶楽部は最早再建の見込みはない。しかし、戻ってきた者たちが新しい道を歩み始めるまでの間、その生活を支えるためのものを智子達は作り上げつつあった。まだ18歳。少女として自分たちの人生を楽しみたいと思うこともあるが、今はまだ戦後の混乱の中で自分たちと戦地から戻った人たちの生活を成り立たせることで精一杯であった。
一方で農地改革が噂され、大地主が土地を失うことになるといった話も流れている。しかし龍子は、
「分からないことを思い悩んでいても何にもなりません。大切なのは土地でも会社でもなく、貴方達の志です。正しいと思ったことをやりなさい」
と意に介していない。
飛行場で作業をしていた民子がふと顔を上げる。
「飛行機の音だ」
今、日本の上空を沢山の米軍機が飛んでいる。多摩の地にも、立川基地、福生基地(横田基地)、厚木基地と米軍の航空機が多く展開されているので飛行機は珍しくも無い。しかし、民子が反応をしたのは、いつも聞いている米軍機のエンジンの音と違う爆音が聞こえてきているからである。
見慣れない機体が上空を飛んでいる。
「キ77か」
思わず源五郎が呟く。
キ77は、旧日本陸軍の肝いりで製作された長距離連絡機である。18000キロメートルの航続距離を持ち、その足の長さからアメリカ本土への戦略爆撃や特殊工作員の輸送に使うことも検討された実験機であった。大量の燃料を搭載するために製造過程では様々な欠陥も発生し、源五郎もその対応に協力した経緯があった。
そのキ77と思われる双発の機体が上空を飛んでいる。多摩飛行場の上空を旋回しながら高度を下げてくる。
「この狭い飛行場に双発機が降りる気なの」
見ていた智子が驚く。
「あの飛行機、エンジンが1つおかしい」
民子が叫ぶ。左のエンジンのプロペラの回転が明らかに遅い。何らかのトラブルが起きている様子だ。
「無茶だ、エンジン1つだと着陸のやり直しはきかないぞ」
源五郎が言う。
飛行機は着陸の際、進入角度やポイントが合わない場合はエンジンを吹かして再度上昇をして着陸をやり直す。しかし、この時代の双発機がエンジンひとつで着陸を行う場合、やり直しをすることは非常に困難である。ましてや、多摩飛行場は小型機用に作成された小さな飛行場である。双発機が降りるには滑走路の長さが不十分である。
しかし、双発機は高度を下げて着陸態勢に入る。マリアと民子が急いで乳牛を追い立てて、滑走路を開ける。智子は事故に備え、トラックに工具と消火器を乗せてエンジンをかける。
双発機は失速しないぎりぎりの速度を保ちながら機体をコントロールして、見事に滑走路の西のはじへ接地、残りの滑走路を使って速度を落とす。やがて方向を反転、地上をゆっくり滑走しながら少女たちのいるハンガーの前に機体を止める。
「ほー、見事なものだ」
源五郎が感心する。
エンジンが停止をする。
回転が落ちていた左のエンジンからはボタボタとオイルが漏れている。潤滑油系の障害が起きていたようだ。
飛行機の左側面のドアが開く。
中から梯子が下ろされる。
飛行服を着たパイロットと思われる人間が1人降りてくる。
そして、それから続いて降りてくるのは女と子供ばかりである。小さな子供は先に降りた女が受け取るようにして降ろす。降りてきたのは大人が7人、子供が5人。最後の1人も飛行服を着たパイロットである。長時間の飛行を経て来たのであろうか、皆、一様に疲れている様子で、女や子供たちはその場へへたり込む。
「まるで難民船みたい」
民子が思わず呟く。
2人のパイロットが飛行帽を取る。そのパイロットも女であることが遠目でも分かる。
そのうちの一人、つり目の女性パイロットが智子達に気づき、そちらへ向かって歩いてくる。
それを見ていた智子が硬直する。
表情が変わり、目を見開く。
一息おいてパイロットへ向かって走り出す。
「ママ、ママ」
智子は自分でも気づかないうちに叫んでいる。
そして、パイロットの、母の恵子の見の前で立ち止まる。
「よ、智子。大きくなったね」
「ママ」
笑いながら声をかけた母に、智子が体当たりをするかの様に抱きつく。
それ以上は声にならない。母親の胸に顔を埋めて泣きじゃくる。
「大きくなったと思ったら赤ちゃんへ逆戻りかい」
恵子は笑いながら言う。
民子やマリアも近くへ駆け寄る。
知らせを聞いて龍子もやってくる。こんな時も瀧子は落ち着いている。
「恵子、この人たちは」
「外蒙の東アジア航空の日本人社員の家族たち」
「高志さんは」
龍子が尋ねる。
恵子は龍子の娘、高志はその夫で東アジア航空を立上げたメンバーの1人である。高志は多摩飛行倶楽部の会員でもあった民間のパイロットで、同じく倶楽部で飛行機を操縦していた恵子と知合った間柄である。結婚前は二人で空を飛び、当事には珍しい友人のような夫婦であった。
「あいつは会社の他の男衆たちと一緒に歩いて帰ってくる。会社のあったのはモンゴルだったから満州みたいにソ連軍の侵攻は受けなかったけど、近々ソ連軍がやってくるって噂でね。モンゴルの人たちが日本人は帰った方が良いって勧めてくれて戻ることにしたんだ」
東アジア航空は現地との合弁会社だから会社としては存続することが出来るかもしれないが、ソ連軍が来たら日本人は拘束され、場合によっては、男はシベリア送りになる恐れもあった。また、満州の日本人家族の妻や子供たちが遭遇した悲惨な話はモンゴルにまで既に伝わっていた。現地のモンゴルの代表者は東アジア航空の日本人たちへ親切であった。国としては親ソの社会主義国家ではあるが、心情的にソ連の強圧的な態度に反感を持ち、日本へ好意的であった。会社として管理している九七式輸送機や百式輸送機は渡すことは出来ないが、実験用として満州航空から借用していた帳簿外の長距離連絡機のキ77を、日本人が国に戻るために使うことを認めてくれていた。
「キ77は、元々6人乗りだから、中をつめても女衆と子供を乗せるのが精一杯でね、男達は地上を行くことにしたんだ」
操縦は恵子と義理の妹の亜紀子。亜紀子は高志の妹で、同じく多摩飛行機で操縦を学んだ同士だ。モンゴルから日本の東京まで飛行距離は4000キロ近くあるが、長距離連絡機のキ77にとってはなんでもない距離である。機体を軽くするために燃料は3分の1だけ搭載をした。最大の危険はソ連の戦闘機に襲われる事で、そのため夜間に中国大陸を通過できるよう日暮れ前に離陸し、ソ連軍が充満している満州を避けて一旦南下して中国の上空を経由してから日本へ向かった。当事極東のソ連軍や中国軍の航空隊は夜間飛行する航空機を捕捉する能力は低くそれが最も確実との判断からだった。しかしこの時代、飛行機だから安全という訳ではない。飛行機が事故や故障を起こさずに日本までたどり着けるかも不明で、気象情報も不十分であった。また、恵子と亜紀子も多摩飛行機で飛行機の操縦は経験しているがキ77のような大きな飛行機の操縦経験は乏しく、長距離飛行の航法を正式に学んでもいなかった。しかし、無防備な日本人の女子供が満州や中国大陸を歩いて帰るリスクと比較して飛行機の方が安全との判断をして賭けであった。即席で東アジア航空の正規パイロット達から航法と夜間飛行のコツを学び、短時間で出来るだけの準備をしての出発であった。夫たちと、「日本でまた会おう」と言葉を交わして、日の暮れ前のモンゴルを飛び立って日本へ向かった。
この後、東アジア航空の男達は、現地のモンゴル人が用意してくれた馬を使い、地元の馬賊達の助けを受けながら日本を目指すこととなる。
「でも、何でわざわざこんな狭い多摩飛行機の飛行場に降りたんだね」
源五郎がきくと恵子が答える。
「日本にまで来たら、きっと米軍の飛行機がやってきて警告をするだろうから、そうしたらその飛行機に先導してもらって着陸するつもりだったんだ」
「でも何も飛んでこなくてね。しかも途中雲が多くてさ、高度下をげられないまま、もたもた飛んでいるうちに東京まで来ちゃってさ、そしたら多摩飛行場が見えてね。妙に懐かしくなってついここに降りちゃった」
「立川飛行場あたりに降りていれば滑走路も倍ぐらい長かったのに」
「だけど米軍がいる飛行場へいきなり降りようとして下から撃たれたら嫌だったからね。それに多摩飛行場は何度も降りていたから勝手も分かっていたしね」
源五郎と恵子が話をしている間、智子はずっと恵子へくっ付いていたが、ふとお腹が出ていることに気がつく。
「ママ、何、このお腹」
「ん、あんたの弟か妹が入っているの。まあ、今さら子供作る気は無かったんだけどね。あっちは楽しみが少なくて他にやることが無いからいろいろやっているうちについ出来ちゃった」
「何、ママ、それ」
智子はあけすけな話に顔を赤らめる。
龍子が言う。
「あんたも無茶をするね。空気が薄い中長い時間飛んでいて、産気づきでもしたらどうする気だったの」
「まあ安定期に入っていたしね。万一のときは亜紀子へ任すことも出来たし」
恵子はあっけらかんとしている。彼女の性分である。
「ところで飛行機に乗っていた人たちの間で具合の悪い人や熱の出ている人はいるかい」
「長い間飛行機で揺られていたから皆疲れているけど、取り合えず病人はいないと思う」
龍子は日清戦争や日露戦争で大陸へ出征した兵士が帰国の際に様々な病気に冒されて帰ってきたことを知っている。太平洋戦争でも外地や大陸から戻ってきた兵士や人々は、まず、厳しい検疫が課せられてから入国を許されていた。実際、太平洋戦争では何万人という人々が帰国後隔離され、そのうちの4千人近い人々が故郷へ帰れないまま、日本国内の隔離先で病死をしている。痛ましい話であるが、日本国内へ様々な伝染病を持ち込まないためには必要な処置であった。
「民子、マリア、すぐにお風呂を沸かして。お風呂は大風呂の方です。そして風呂を出た人から着替えをして離れのほうへ入ってもらいなさい。着替えは古着をあるだけ出しなさい」
離れは、以前は津田や篠原たちが泊まっていたところであった。洋館である。龍子は帰国した母子たちの隔離所としてそこを使うつもりだった。
「恵子、皆さんには悪いけど、お風呂と着替えが終わるまではハンガーの中で休んでもらって下さい」
恵子もすぐに状況を納得する。
「智子、急いで茣蓙をハンガーへ運び込んで。それが終わったらすぐにお湯を沸かしてお茶を用意しなさい」
智子と民子とマリアが一斉に駆け出す。
「源さん、ご手数ですけど警察と立川の米軍に電話してもらえますか」
「分かりました」
龍子の仕切りでみんなが動き出す。
万一の感染を考え、今は身内だけで全てを進める。
1時間ほどして警官が、さらに1時間ほどしてからジープに乗った立川ベースのMP(ミリタリーポリス、米軍の憲兵)が到着する。MPはマリアの通訳で説明を聞き、本部と連絡を取り合い、龍子たちの適切な処理に謝意を示す。そして、帰国者の隔離と監視を行うこと、指示があるまで飛行機に一切触れないことを命じ、警官には龍子たちがMPの命令を守っていることを監視するように言う。
風呂を沸かしたり、食事や寝床の用意をしたりしながら民子がマリアへ言う。
「恵子伯母さん帰ってきて良かったね。高志伯父さんも少ししたら戻って来るし、本当に良かったね」
「うん、そうね」
マリアが微笑む。
しかし口には出さないが、民子のマリアも自分の父や母が今どうしているかと思いながら体を動かしている。
夜、龍子に呼ばれた医師が往診に来て、帰国した全員を診察し、今のところは病気の兆候は無いとの診断書を書いて帰る。
帰国した母と子供達は、疲れと日本へ戻った安心でその日は昏々と眠った。ただ、恵子だけは智子達の話を聞き続けた。B29を相手に戦ったこと、戦後皆のために頑張っていること、身重の体で無理するなと龍子止められるまで聞いていた。智子は母と一緒に寝たいと言ったがそれははしばらく待てと恵子に諭された。
「智子、あんたよく頑張ったね」
恵子の言葉を聞いた智子は声を出して泣き始めた。
民子やマリアにしても、こんな智子を見たのは初めてだ。恵子はしばらく智子の頭を抱いて、民子とマリアへご免ねと目配せしてから離れへと向かった。
翌日、立川ベースの米軍の技術将校がやってきて、キ77を検分し、同行した旧日本陸軍の元将校へキ77を飛行できる状態へして横須賀基地へ運ぶようにと指示を出した。横須賀で船に積み、研究用にアメリカへ運ぶとのことである。日本人の元将校は多摩飛行機倶楽部のことを良く知っており、龍子や源五郎へ相談した。源五郎は左翼のエンジンの破損が激しいため、交換のエンジンや部品が必要なことを説明する。それらは立川飛行場の旧立川飛行機の会社の中にストックされており、それらを供与することがその場で決まる。
その日の午後、源五郎や少女達が立川基地を訪れ、主計の将校の承認を貰ってエンジンや部品の持ち出しと運搬を依頼すると主計将校は、
「君たちが卵や牛乳だけでなく、飛行機までも作っていたとは知らなかった」
と驚いた。
彼は、納品のときも価格の交渉のときも笑うことは殆ど無く、いつも冷静に応対をする男であったが、このときばかりは呆れたような顔をして笑顔を見せた。
コックの軍曹はすっかり民子が気に入っており、民子が智子とマリアをつれて挨拶に行くとボールに大盛りのアイスクリームを振舞ってくれた。アメリカのアイスクリームは乳脂肪分が多く味が濃厚である。 少女たちも戦前は夏にアイスクリームを正蔵たちと食べに行ったことはあったがそれよりもはるかに美味い。驚きながらアイスクリームを食べる少女たちに、軍曹は段ボール箱へ氷を入れて、その中にアイスクリームを詰めた入った大きなビンを入れて少女たちへ持たせてくれた。このアイスは、帰宅するとすぐに帰国した母子たちへ振舞われた。
エンジンと部品を搭載した米軍のトラックが到着する。久しぶりの飛行機の仕事である。源五郎や少女達は生き生きとしながら作業をする。
1週間後、修理が終わったとの連絡をすると機体を横須賀基地まで空中輸送するよう指示が来る。出発は翌日の午後13時、輸送の際は米軍機が先導をするとのことであった。
キ77の操縦は恵子が行い、少女3人が同乗することとなる。危ないからといって聞くような3人ではない。戦争が終わって様々な重石が消えたこと、恵子が帰ってきたことで、3人はすっかり元の元気な少女の明るさを取り戻している。
龍子が聞く。
「あんた、お腹の子供の方は大丈夫なの」
無理がたたったのかここ数日、恵子は腹に痛みを感じることがあり、医者からは安静を命じられている。
「大丈夫、横須賀までだったら30分もかからないし、万一何かがあっても智子達がいるから安心よ」
少女達以上に恵子は無茶な性格である。
翌日の午前、出発前に米軍の技術将校たちが多摩飛行場へやってくる。
その中の一人を見て民子が声を上げる。
「赤鬼さんだ」
その将校は、以前、夜に不二の家の台所で食べ物を探していたところを少女達が捕まえた、撃墜されたB29の乗組員だった男である。日本刀を持った智子と猟銃を持ったマリアを見て抵抗することを諦め、民子へ拳銃を渡して降伏をした。その将校を龍子たちは丁重にもてなし、捕虜として日本軍に引き渡した。
将校はクレーグと言い、今は情報将校としてGHQのオフィスで勤務しており、日本語が話せることも打ち明けた。
彼は民子へ目配せをした後、マリアのところへ向かい、
「マリアさん、あなたへプレゼントがあります」
と1通の手紙をマリアへ渡す。
検閲がされていたのだろう。手紙の封は開いていた。
手紙を見たマリアの眼が大きく開かれる。智子や民子へ振り返り、
「パパからの手紙、皆生きているって。元気にしているって」
その顔は喜びで輝き、目には涙が溢れている。
その手紙には、マリアの父は無事であり、今は連合軍の収容所へ入れられているが、やがては釈放される見込みであること。親戚も皆無事であることが綴られていた。実際は、けして親戚全員が無事であったわけではないが、そのような凶事は手紙には書かれていなかった。
「マリアー」
体当たりするかのように民子がマリアへ抱きつく。
その二人を抱えるかのように智子が抱きしめる。
龍子と恵子が笑顔でそれを見ている。
源五郎は涙ぐんでいる。
気のいい男なのであろう。それを見たクレーグまで目を赤くしている。
他の米軍将校も好意的な目で少女たちを見守っている。
ただその時、智子とマリアは気づいていた。自分たちの父母の無事が分かり喜びを感じている一方で民子の両親の消息がまだ分からないことを。
民子は気にしていない風であったが、それだけに二人の心は痛んだ。
源五郎と少女達で最後の点検を終える。
午後1時、上空へ米軍のP51が2機が飛んできて旋回を始める。
恵子と少女達がキ77に乗り込む。するとクレーグも横須賀まで一緒をすると乗り込んで来る。一瞬惑ったがそれでよいという話になり、全員が着席する。主操縦席は恵子、副操縦席は智子、機関士の席に民子、通信士の席にマリアが座る。その後ろの座席へクレーグが座るが大柄のクレーグには日本人の体格へ合わせて作られたキ77の座席は狭すぎる。窮屈そうに膝を曲げているクレーグを見て民子が思わず笑う。それに気づいたクレーグも照れくさそうに微笑む。
源五郎が起動車を操りプロペラを回す。
キ77のエンジンは零戦と同じ栄エンジンである。源五郎や少女達がさんざん整備をしてきたエンジンで整備は万端である。心地よい音を出しエンジンが回転し始める。機体を飛行場の西の端まで滑走させて方向転換、ブレーキをかけて一旦停止し、エンジンの回転を上げる。エンジン音が高まるのを皆が息をつめながら見守る中、キ77が滑走を始める。双発機には短い滑走路ではあるが、キ77は横須賀までの最小限の燃料しか搭載をしていないため機体は軽い。
一気に加速をすると機首を上げる。機体が浮き上がり、多摩飛行場の周りを大きく旋回しながらギアアップをする。本来は飛行場の上を旋回する必要は無いのであるが、恵子はあえて2回り旋回をする。もしかしたら彼女と少女たちにとって、空から多摩飛行場を見るのはこれが最後になるかもしれない。方位を横須賀基地へ向けたキ77の横にP51が寄り添うように近寄ってくる。
P51のパイロットはこちらを振り向きゴーグルを上げる。
民子が声を上げる。
「エイデンさんだ」
P51を操縦しているのはマリアの四式戦(疾風)を撃墜しようとして空戦をしたP51の隊長のエイデンだった。彼は、今回空中輸送する飛行機の操縦士が少女であるということを聞き、もしやと思い自ら志願して来たのだった。よく見るともう1機のパイロットはマイケルである。
自分たちが関わった少女達が元気であることを知ってエイデン達も満足していた。
笑いながら指を立てて少女たちへ合図をする。
少女たちも笑顔で手を振る。
横須賀までの飛行は短い。すぐに東京湾が見えてきて、少し南下すれば横須賀である。
その彼女たちの前を大型の飛行艇が飛んでいるのが目に入る。
「2時前方に九七式大艇」
智子が声に出す。
九七式大艇は、日本海軍が使用した四発の大型飛行艇である。後に第二次大戦期最高の飛行艇と評価される二式大艇に取って代わられるが、操縦性の良さから二式よりも九七式を好む操縦士も多かった。民間機としても多く使用された。
よく見るとその前方を2機のF4Uコルセアが先導している。
日米間の軍使や緑十字の搭乗機として使用されたのであろうか。機体は濃緑色でなく、白く塗装がされている。
キ77の方が優速なので徐々に追いつく。
「あ、ハッピー君」
民子が大声を上げる。
ハートマークに笑顔が描かれ、その左右には白い天使のような羽があり、黄色の王冠をかぶっているキャラクターが、日の丸の代わりに胴体と主翼に描かれている。そのマークは民子が幼い頃好きで描いていた「ハッピー君」である。
民子は確信する。このマーキングをしている飛行機を操縦しているのは自分の父親に違いない。
「何だ、あの恥知らずなマークは」
恵子が不快な顔をする。
キ77と九七式大艇が並びかける。互いの操縦席が見える。操縦席には民子にそっくりの顔をした女性とサングラスをつけてニヤニヤと笑いながらこちらを見ている男のパイロットが乗っている。
女性は顔がひしゃげるくらい窓ガラスに顔をくっ付けながらこちらを見ている。
目を大きく見開き、涙をとどめなく流している様子がこちら側からでも分かる。
キ77の方でも、同じような顔をした民子が窓ガラスに顔を貼り付けている。
「父ちゃんと母ちゃんだ~」
民子は唸るような声で言う。
目からの涙だけでなく鼻水と涎が顎を濡らしている。
民子の父の祐樹と母の愛美は、戦争が始まる前に南方に民間の航空会社を設立するために出国し、太平洋戦争の激化に伴い戻ることも出来ずに消息不明になっていた。モンゴルに行った恵子や恵子の夫の高志が民間の結びつきを増やすことで平和な世界を作りたいと取り組んだのに対して、祐樹は南国に一大リゾート、パラダイスを作って、世界中の人たちがそこへ遊びに来るようにすれば世界は平和になるといった大風呂敷を広げ、軍もギャングも来るものは拒まずと言い続けて姉の恵子の顰蹙を買っていた。父の正蔵は、「高志君も正しい、祐樹も間違っていない」と2人を送り出すのに協力を惜しまなかった。
今、横を飛んでいる九七式大艇はそんな祐樹の性格を反映して、よく見るとハッピー君だけでなく様々な絵が描かれている。富士山、鳥居、アジアの神々のガネーシャ、ガルーダ、関帝・・・目出度いもののオンパレードである。
「全く、相変わらず下品なやつめ」
言い捨てながらも恵子の顔も笑っている。
窓に貼りついている民子の背中を見ながら、マリアは目を拭い、智子も微笑む。クレーグが親指を立てる。
横須賀の飛行場が見える。
九七式大艇はその飛行場の正面の海へ着水するために高度を下げる。
それを見送ってからキ77も高度を下げる。
副操縦席の智子が声を上げる。
「地上の吹流し垂直。地上は無風状態」
マリアが地上と無線で会話をする。
「基地管制官より着陸許可をもらいました」
「右エンジン、左エンジンとも回転正常、油温正常」
さっきまで号泣していた機関士席の民子がエンジンのチェックを行い報告する。
「了解、これより着陸態勢に入る。智子、ギアダウン」
智子が操作をして車輪が下がる。
3人の少女たちは前を向き滑走路を見つめる。
戦争中は常に後ろに気をつけて飛んでいた。しかし今日は後ろを気にせずに飛ぶことができる。そのことに無意識のうちに平和な空を飛ぶ心地良さを感じている。
3人の顔が自然と明るく微笑む。少女たちのラストフライト。横須賀の風と日差しは、そんな彼女たちに優しく暖かかった。