第四戦 夜戦
夜戦
昭和20年3月、米軍はB29による対日戦略爆撃の方法を一変させた。
それまでの軍需工場への高々度からの昼間爆撃が思うような成果を挙げられないことより、B29の爆撃の主要目標を日本の都市に対する無差別爆撃へ変更、3月9日夜に325機のB29で東京に対して夜間焼夷弾攻撃を行った。この爆撃は東京大空襲と呼ばれ、これにより、東京23区のおよそ三分の一にあたる40平方キロメートルが消失し、死者、行方不明者が10万人を超える大惨事となった。米軍はさらに、3月11日と18日夜に310機で名古屋市街地へ、3月13日夜に295機で大阪市街地へ、3月16日夜に331機で神戸市街地へ爆撃を敢行し、各都市は甚大な被害を受けた。それに対して、日本軍は有効な迎撃を行えず、この5回、延べ1500機を超える爆撃でのB29の損失は、事故によるものを含めても僅かに20機余であった。その後も米軍は都市市街地に対する夜間爆撃を継続し、日本の主要都市は悉く灰燼に帰すことになる。
3月9日夜、智子と民子、マリアは多摩の不二の家の床の間で布団をならべて休んでいる。10時過ぎに一度警戒警報が出たが解除され、時計は0時を回っている。0時を過ぎて再度空襲警報が発令されて遠くからサイレンが聞こえてくる。しかし、多摩の丘陵地帯へ爆弾が落とされることはない、夜間の空襲警報が出ても少女たちは翌日の出撃に備えて体を休めることを専らとし、起きることはない。多摩丘陵の夜は、3月といえども寒い。寒い夜、智子はしばしば民子の布団へもぐりこみ、民子を湯たんぽ替わりにすることがある。この夜も夜半に民子の布団へもぐりこんで眠っていた。これは子供の頃から続いていることであり、民子も慣れている。
遠くサイレンと爆音が続く、民子が目を覚ます。
「音がいつもと違う」
「えっ」
つられて、智子とマリアも目を覚ます。
「なんか変、見に行こう」
3人は、どてらを羽織って外へ出る。遠くB29の爆音が地鳴りのように聞こえ続ける。真夜中なのに東の空が赤い。誰ともなく三本松へ向かって走り出す。三本松は家から100メートルほど離れた崖の手前にある木で、ここへ上ると遠く東京の市街を見渡すことが出来る。松の木ため手がかりが多く子供でも上りやすい。3人は子供の頃揃ってこの木へ上り、東京を眺めたものであった。春の陽気の良い日にお握りを作ってもらって、この木の上で3人一緒にお昼ご飯を食べたこともあった。
木に登って東の東京市街を見る。3人の息が止まる。爆撃で東京の街に火災が起きているのを見て心を痛めたことはあった。しかしこの夜は、東の地平線全部が燃えている。
3人は瞬きもせずその炎を見詰める。
「東京がみんな燃えちゃう」
民子が、やっと声を出す。
智子が叫ぶ。
「零戦に3号爆弾を積んで上がる、手伝って」
「だめだよ、私達夜間飛行の訓練なんてしていないよ。飛べないよ」
民子が止める。
「あれだけ燃えていて明るければ夜でも飛べるわ」
智子の目は怒りに燃えている。この中で、実は智子が一番感情の起伏が激しい。
「彩雲で上がろう。3人で力を合わせれば夜でも飛べると思う」
横からマリアが静かに、しかし力強く言う。
多摩飛行場には、横須賀航空隊から三座(3人乗り)の高速艦上偵察機の彩雲を1機預かっている。目的は、3号爆弾によるB29への同行攻撃の研究のためである。3号爆弾による重爆撃機への攻撃は、本来は敵機と同じ方向へ同行飛行をして、重爆撃機の前上方から3号爆弾を投下するものとされていた。しかし、3号爆弾を搭載した零戦では高速のB29に追いつくことが出来ず、同行攻撃が出来ない。そのため撫子たちは、正面からすれ違いざまに投弾する反行攻撃で成果を上げていた。しかし、反行攻撃は一瞬のタイミングを捉える必要があり、熟練したパイロット達でもなかなか成果を上げることができなかった。そのため、軍は高速機を使用した同行攻撃の実現を目指し、海軍最速の彩雲による同行攻撃の実戦での研究を撫子邀撃隊へ依頼をしていた。
2人がマリアの顔を見る。そして、頷きあう。
「みんなを起こしてくる」
民子が家に向かって走る。残りの2人はハンガー(格納庫)へ走る。
離れ着いた民子が津田と篠原へ声をかける。
2人とも空襲警報で目を覚ましていた。彼らも今夜が普通の空襲でないことに気づいている。
「篠原さん、彩雲に3号爆弾を載せて上がる。手伝って」
飛び込んできた民子の顔を見て篠原は全てを理解する。
「分かった」
篠原は着替えもせずに格納庫へ走り出す。
津田も続いて走る。
彼女達を出撃させてよいものか、津田も迷っている。しかし、それを話すのは格納庫へ着いてからで良い。格納庫へ行くと智子とマリアが既に飛行服への着替えを済まして彩雲のチェックを始めている。民子も急ぎ着替えをはじめる。津田や篠原の目を気にしていない。源五郎と龍子もやってくる。篠原が少女たちと力を合わせて30キロの3号爆弾を2つ、彩雲の胴体の下へ取り付ける。暗い中の最小限の明かりの中で、慎重に進める。
津田が3人へ聞く。
「皆さん、夜間飛行はできるのですか」
マリアが応える。
「昔、飛行機倶楽部の飛行機で飛んだことはあります。ただ、戦闘機で飛ぶのは初めてです。でも、準備と研究はしてきました。3人で力を合わせれば大丈夫と思います」
「離陸はともかく、着陸は出来るのですか。真っ暗な中で飛行場へは戻れるのですか」
「星と燃えている東京の位置を見ながら、多摩の上空へは戻って来れます。幸い月が出ているので上空から多摩川の形を見れば、飛行場の位置も分かります。飛行場の上空へ戻ってきたら、飛行場の両端へ灯を付けてもらいます。そうしたら、着陸灯を頼りに着陸できると思います」
マリアが淀みなく答える。
「この飛行場には、航空母艦の着艦灯を工夫した夜間着陸灯が以前からあります。私たちは夜間着陸の練習をしたことはないけど、要領は分かっています」
多摩飛行機倶楽部では夜間離着陸の研究や訓練も行っており、そのための設備も維持されていた。
津田は源五郎へ向かって尋ねる。
「マリアさんはこう言っていますけれど、本当に出来るのですか」
源五郎は3人へ向かって尋ねる。いつもの源五郎と違う、厳しい目をしている。
「智子ちゃん、民子ちゃん、自信はあるのかい」
「みんなで力を合わせれば出来ると思います」
智子が答える。
源五郎が津田の方へ振り向き、無言で頷く。
この場の責任者、判断を下すのは津田である。横須賀基地から作戦指示がから来ている訳ではない。ただ、焼き尽くされていく東京を見て、皆が何かをしたいと思っている。
皆は冷静か、自分は冷静か、津田は自問しながら周囲を見る。皆の視線が自分に集まっているのに気がつく。大きく呼吸をする。
「出撃を命じます。横須賀への許可は私が取ります」
周りが一斉に動き出す。
「3号爆弾の信管を設定する。みんな一旦外へ出て」
篠原が怒鳴る。
3号爆弾は繊細である。過去、信管の設定時に誤爆して整備の人間やパイロットが犠牲になった例がある。篠原は、3号爆弾の信管の設定と取り外しだけは周囲から人を離れさせて一人で行う。通常は外で行うが、今回ばかりは格納庫の中で行う。いつもより手元が暗い中、慎重に作業を終える。
乗り込む前に、3人が龍子の前に立つ。出撃前のいつもの儀式である。
龍子はいつものように言う。
「彩雲は、海軍さんからお借りしている大切な機材です。壊さないように大事に乗ってきなさい」
「はい」
3人は笑顔で彩雲に乗り込む。
操縦が智子、航法がマリア、偵察が民子、これが予め3人で取り決めていた分担である。
彩雲のエンジンが起動される。
車止めが外され、ゆっくりと滑走路へ動き出す。
源五郎が離陸灯を点ける。上からは見えない、離陸する飛行機からだけ見える横向けの筒の中に灯が燃えている。
智子は左右に見える離陸灯の真ん中へ彩雲の機首を向ける。エンジンを充分ふかしてから車輪のブレーキを外す。彩雲は勢い良く滑走を始め加速する。1つ目の離陸灯を超えたところで操縦桿を引く。機体が地面を離れる。車輪を格納して高度を上げる。星は見えるが空襲警報が発令された街は漆黒の闇である。高度を上げながら智子は恐怖を感じる。水平計、垂直計、旋回計を見ながら、慎重へ高度を上げていくが、ともすれば上下左右が分からなくなるような感覚の中、微妙に操縦桿に迷いが生じる。後席のマリアもそれを察する。伝声管でマリアが話しかける。
「智ちゃん、大丈夫、そのまま高度を上げて」
「了解、ありがとう」
マリアの声に励まされながら智子は彩雲を操る。
マリアは、空の北極星と燃えている東京の方向の角度から機位を計算しながら指示を出す。夜間に下手な場所を飛んでいると味方の高射砲から撃たれる。高射砲陣地のない多摩の丘陵の上空で高度を稼ぐ。
「民ちゃん、B29は見える?」
夜目が利く民子の眼には既に多くのB29が捉えられている。
「うようよいる。昼間と違って編隊を組んでいない。ばらばらに飛んでいる。高度が驚くほど低い」
2000~3000メートル前後の高度を次々に飛んでくるB29を見て民子も驚く。
高度4000メートル。必要な高度を取ってから一気にB29が見える市街地の上空へ向かう。
「民ちゃん、誘導して」
「了、できるだけ固まっている所へ持っていく」
敵機に近づいた時点で眼の良い民子に指揮を委ねる。
「智ちゃん、チョイ右へ方向変えて、そう、そのまま」
民子は3機ほどのB29が飛んでいるのを見つけてそちらへ飛ぶように指示を出す。
ズーンンン
少しはなれたところで高射砲弾が炸裂する。空気の振動が機体を通して体に伝わる。昼間の戦闘では体験したことのない感覚である。3人の緊張が高まり、寒いはずなのに汗が額を伝わる。
「10時の方向、下1000メートル、B29 3機」
「このまま、ヨーソロー」
民子が誘導する。
「テーー」
民子が叫ぶ。
智子が3号爆弾の投弾把を引く。
「民ちゃん、智ちゃん、光を見ないで」
マリアが叫ぶ。
2人はとっさに瞳を閉じて目を守る。投弾して数秒。3号弾が閃光を発して爆発をする。
「右へ旋回、一気に離れて」
マリアの指示で彩雲は南へ離脱する。
3号爆弾の戦果は昼間でも投弾した飛行機からは確認が難しい。まして夜間の邀撃の確認はさらに困難である。3人は戦果の確認にこだわらず空域からの離脱に集中する。もたもたしていたら見方の高射砲で撃たれる。
燃える東京と星を見ながらマリアが機位を確認して指示を出す。
「民ちゃん、そろそろ多摩丘陵だけど下は見える」
民子がゴーグルをかけて風防をあけ、顔を機体の外へ出して下を見る。
「右下へ多摩川。今は、調布のあたり」
多摩の空をいつも飛んでいる彼女には、多摩川の形と位置が頭に入っている。川の形が分かれば現在地がすぐに分かる。
「多摩飛行場まで持っていって」
「了」
民子の誘導で多摩飛行場の上空へ彩雲を運んでいく。
「下に大栗川、この真下」
民子の指示を受けて、智子は大きく左旋回を始める。すると下の方で、微かに4つ、小さな明かりが灯る。下では、源五郎が上空の飛行機のエンジン音を聞き分け、3人が乗っている彩雲が飛行場の上に戻ってくると、飛行場の西端に着陸灯が点くことになっていた。
その明かりへ向けて西から高度を下げていくと誘導灯が見えてくる。
誘導灯は航空母艦の着陸灯を参考にマリアたちが考えたものだ。滑走路の100メートルのところの両側に高さ4メートルの柱を立ててそこに赤い光を灯す。そしてその後方20メートル、地上2メートルの柱に青い光をともす。この赤色灯と青色灯が並んで見えれば正しい角度で飛行機は地上に降りてきている、もし角度が深すぎれば青色灯が赤色等より上に見える、逆に角度が浅すぎれば青色灯が赤色灯よりも下に見える。そしてこの誘導灯は、真上からは見えず、着陸角度で入ってきた飛行機からのみ見えるように工夫がされている。
智子は誘導灯を捉えると慎重に角度を調整しながら高度を下げる。
「そのまま、そのまま。高度10」
民子が左右の山影、木の影を見ながら声をかける。
「着地」
民子の合図で智子がエンジンのスロットルを絞る。
ザザッー。
彩雲が接地する。
速度を落とし、機体を格納庫の方へ持っていく。
初の夜間着陸を終え、智子がフーッと息をつく。闇が怖い智子にとって、夜間飛行は思った以上の緊張を伴う厳しいものだった。
「もう1回出よう」
マリアが声をかける。
普段、何事にも一番慎重なマリアの言葉に、智子と民子は一瞬驚くが即座に頷く。
風防を開けて、近づいてきた篠原に民子が叫ぶ。
「篠原さん、もう1回出ます。3号爆弾お願いします。燃料は大丈夫です」
皆は一瞬驚くが、すぐに準備に入る。
やがて、彩雲は2度目の離陸をする。
智子もマリアも民子も、1回目よりは余裕が出る。
ただ、余裕が出たときにこそ危険が待っていることがある。マリアはそれを皆に戒め、1回目以上に慎重に接敵する。
今度は前回よりもより東京の市街地へ近いところでB29を捉える。
すると突然火災による上昇気流で機体が激しく揺れる。このような事は初めてである。
智子は3人のうちで、機体を安定させて操縦する技能が一番高い。そんな智子が必死に機体を制御する。激烈な上昇気流から抜け出してやっと水平飛行ができるようになる。下を見る。東京の街が全て同時に火を噴いている。
少女達は関東大震災の時に火災から逃げた叔父の話しを聞いたことがある。炎が波のように、壁のように燃え広がってくるのから必死に逃げたと。隅田川を泳いで渡って逃げようとしたところ、炎が竜巻のように巻いて川の上を越えていき、対岸にまで燃え移ったという話しを小さい頃手に汗を握りながら聞いたものである。
しかし、眼下の東京は波のように炎が広がるといったようなものではない。街の全部が同時に火を噴いている。波のように迫り来るのならば反対へ逃げられる。しかし、同時に火を噴いているのである。逃げようが無い。実際、この夜隅田川の川面も焼夷弾と同時に撒かれたガソリンが燃え上がり、逃げるために川に飛び込んだ人々の命を次々と奪っていた。
下を見た民子は思わず逃げ惑う人々の意識を感じ取ってしまう。民子にはそういう力がある。逃げ場が無く焼かれていく人々の悲鳴が頭の中に流れ込む。受けた衝撃で胃の中のものが逆流する。咄嗟に手袋を外してその中へ嘔吐する。目が涙で曇る。
歯を食いしばる。
「泣くのは後だ」
再び喉まできたえずきを今度は飲み込む。
ゴーグルを外して涙を拭い取る。ゴーグルをかけ直してよく見えるように風防を開く。
「もう、この炎を止めることはできない。B29を全部止めることもできない。でも、例え1機でも私たちが止めることができれば、何人か、何十人かが助かるはずだ」
「左へ旋回、爆弾を落とす前のB29をやる」
西の闇を睨みつける。集中する。地上の炎の光を受けて微かに腹が赤く光るB29を見つける。適確な位置取りが出来るよう智子を誘導する。
智子は冷静に彩雲を操る。彼女も全てが同時に焼かれていく街の姿に衝撃を受けている。しかし戦いの場での怒の気持ちは邪魔者でしかないことを居合いの稽古を通して身につけている。B29の前方上空を同行しながら間合いを取る。投弾をして離脱する。
2度目の攻撃を行い多摩飛行場へ降りたときは、2時をまわっていた。
「もう1回出ます」
「もう空襲は終わった。3回目の出撃は不要だ」
少女たちへ向かって津田が叫ぶ。
耳を澄ますと先ほどまで聞こえていた地鳴りのようなB29の爆音は聞こえてこない。2時間に及ぶ爆撃は終了した。促がされて3人は彩雲を降りる。
津田に報告をし、彩雲を格納庫へと皆で押して移動させる。
飛行機を押すときは前から押して後ろへ進める。飛行機の翼の後方は、方向舵やフラップがあり押すのに適していない。要員が少ない多摩飛行場では、機体を押すときはパイロットの少女達も一緒に手伝う。
機を格納庫へ戻すと津田は少女達に休むように指示を出す。横須賀基地への報告をまとめ始める。
片づけを終えて少女たちが家に戻るころには空がわずかに白んできたが、雨戸を閉めて眠ることとした。
初めての夜間の邀撃戦。2度の出撃をして飛行機(彩雲)は無傷。夜戦のため戦果を確認することは出来なかったが、それなりの手ごたえはあった。
しかし、心が弾むことはなかった。
少女たちは、見渡す限り燃えている東京の街を真上から見てしまった。機体を揺るがす程の激しい上昇気流を感じてしまっていた。
「こんな烈風が起こるくらいに地上は燃えていた」
機上にいるときは必死に飛行機の操作に集中していた。しかし、地上に戻ると空から見た炎の中の人々のことを考えてしまう。自分たちは東京の空を護るために戦っているつもりであるが、実際は多摩の飛行機工場を護るために出撃している。このような市民に対する無差別爆撃にはなす術が無い。
「もしかしたら、今日を招いた理由の一つは私たちかもしれない」
撫子邀撃隊に多摩の工場への精密爆撃を妨害され、工場上空の投弾ポイントにたどり着けなかったB29たちは、第2目標として東京市街へ爆弾を落として帰る。そのことを聞いた時、自分たちは何をしているのだろうかと少女達は思った。そして、そういった思いが実は彼女たちの心の中に、澱のように溜まっていた。
そして今日があった。自分たちのせいでアメリカ軍が戦略を変えたのではないか。
疲れているが眠ることも出来ず、怒ることも悲しむことも出来ない。ただ無力感の中、布団の中で泣くことも出来ないままじっとしていた。




