第弐戦 米兵
米兵
「こちら撫子一番、八王子上空6000メートル。待機する」
智子が横須賀の航空隊へ無線で連絡をする。
昭和20年2月、西本が離任した後、撫子邀撃隊は多摩飛行機の少女達だけの編成となったがその後も任務を継続、帝都地域に飛来するB29の邀撃戦に参加し戦果をあげていた。
今回もB29が駿河湾を北上中との連絡を受けて、彼女達は3号爆弾を装着して多摩飛行場を飛び立った。
「2時の方向、B29、高度10,000」
いつものように眼の良い民子が最初にB29を発見する。度重なる出撃で、3人とも勘が研ぎ澄まされ、敵機の発見が以前にまして早くなる。しかし、この日のB29は高々度からの侵攻のみで、3号爆弾による攻撃を任とする彼女達が到達できるはるか上の高度を飛翔していた。ここしばらく、B29は昼間の低空爆撃を見合わせ、爆撃精度は落ちるもののより安全な高々度からの爆撃に専念しており、彼女達は出撃しても接敵できないことが続いていた。民子がそのことを悔しがり、何度か高々度の敵機へ向けて突撃したいと懇願したが智子がそれを許さなかった。3号爆弾を搭載した零戦で10,000メートルの高度を高速で飛翔するB29のさらに上空へ上がることは不可能で、貴重な燃料の無駄遣いになるとたしなめた。マリアも10,000メートルを超える高度では3号爆弾が正しく作動しないことを指摘して反対をした。それでも一度、横須賀基地の許可を得て高々度での3号爆弾の投下試験を行ったが結果は散々であった。3号爆弾は爆弾尾部の翼がねじれており投下すると回転する。それにより信管内部のローターが安全装置を解除して爆発をする。空気の薄い高空では十分な回転数が得られず意図したところで爆発をさせることが出来ない。さらには信管内部の機械油が凍結し作動しないこともある。しかも爆装の零戦ではどんなに整備しても上がれる高度は10,000メートル程度、しかもそこでは高度を維持して浮いているのがやっとで、とても10,000メートルを飛ぶB29のさらに上空から3号爆弾を投弾するのは不可能であった。
この日、B29は10機程度の雁行形の編隊で飛行機雲を引きながら、高々度を次々とやってくる。撫子の3機は低空爆撃を行うB29がいないかを監視しながら、八王子上空を遊弋しながら見送ることしかできない。
彼女たちの頭上を超えて行くB29の前方から細い飛行機雲が一本、前に向かって伸びて行く。調布の陸軍の飛行場から飛び立った三式戦(飛燕)である。B29の飛行機雲へ向けて三式戦の飛行機雲が正面から近づいて行く。編隊のB29の銃座から三式戦へ向けて一斉に銃撃がされる。B29の前の空が銃弾の引く白煙で白く霞む。息をのむ中、飛行機雲と飛行機雲が交錯する。一瞬、キラリと破片が飛び散る。体当たりだ。高々度を飛ぶB29を捕らえるために、陸軍では戦闘機から全ての武器、装甲版を外して軽量化し、体当たりによってB29を撃墜させる特別攻撃隊を編成していた。この攻撃では、体当たりをしたパイロットは可能な限り飛行機を操縦して不時着をするか、脱出をして生還することが求められている。体当たりをした三式戦は、片翼を失いひらひらと螺旋を描きながら落ちてくる。少ししてから、1機のB29がぐらりと傾き高度を下げてくる。やがてコントロールを失ったB29は裏返しになる。次々に乗員が脱出する。パラシュートが開く。
「1、2、3、4、5」、開いたパラシュートは5つ、その直後、まだ乗員を残したままのB29が空中分解する。
三式戦のパイロットは高度が下がってから脱出する。しかし、三式戦のパイロットのパラシュートは長く伸びたまま開かない。
「開けー」
民子が叫ぶ。
しかしパイロットの姿はそのまま地面へ吸い込まれていく。
「――」
3人は声の無い悲鳴を上げてそれを凝視する。
この日も接敵出来ないまま撫子は多摩飛行場へ帰還する。
整備士の篠原が着陸した零戦の3号爆弾の信管を外す。3号爆弾は極めてデリケートな爆弾である。篠原はそれへの信管の取り付け、取り外しは他人に一切やらせない。その作業をするときは、最低でも100メートル以上、人を離れさせてから一人で行う。 空で戦う彼女達を地上で危ない目にあわせてはならない。それは篠原の矜持でもあった。3号爆弾を扱っていて死んだ整備の人間は沢山いる。これを整備することが自分の戦いと決めている。
夕方、母屋に戻った少女たちは疲れていた。食欲が無かったが明日のために夕食をとる。家の外が騒々しくなる。源五郎が応対に出る。戻った源五郎が皆へ伝える。
「今日の爆撃で墜落したB29のパイロットが一人、多摩の山に降りてまだ見つかっていないそうです。自警団がこれから山狩りをするんので男衆がいたら参加してもらいたいそうです」
「明日へ向けて飛行機の整備もしなくてはいけません。みんな疲れているから家からは参加できないと言ってきてくれますか」
龍子の言葉を受けて源五郎が自警団へ返事をして戻ってくる。
「自警団の衆たちが早まって見つけたパイロットを私刑にかけたりしないと良いんですけどね」
戻ってきた源五郎が心配そうにつぶやく。
「私刑って」
民子が尋ねる。
「前に立川にB29が墜ちたときにね、パラシュートで降りたアメリカのパイロットが2人、小学校の校庭に連れ出されてみんなが見ている前で憲兵に首を刎ねられたそうなんですよ」
源五郎の話に3人は息をのむ。
「なんでもパイロットを縛って正座をさせてね、町の衆に竹刀で叩かせてからやったらしい。竹刀で叩くとすぐパイロットが弱って気を失っちまうから、途中から竹刀をばらして竹のへらにして叩いてね、パイロットが気を失うと水を飲まして目を覚まさせてからまた続けたそうですね」
「アメリカの兵隊さんも立派なものでね、最後に首を刎ねられるときは静かに手を合わせて抵抗しなかったそうです。アメリカさんにも親や兄弟もいるのにねえ」
源五郎は敢えて聞いたことをありのままへ話す。
「憲兵はパイロットを尋問のために連行しなかったのですか」
津田が尋ねる。
「将校は連れて行ったそうです。ただ兵隊のパイロットが2人残されたって話です」
三人は立川に何度も行ったことがある。知り合いも沢山いる。皆良い人ばかりである。そんな人々が率先して私刑に加担する。
感情の豊かな民子は、信じられないという表情で眼を赤くさせている。智子はやり場の無い怒りに満ちた表情で話す源五郎を見つめている。マリアはこういうときは無表情になる。本当に怒りを感じたときに彼女は人形のような顔になる。
その夜は重い気持ちのまま床に入る。
3人は、いつものように床の間に布団を3つ並べて休んだ。
「民子、起きて」
深夜、智子が民子を起こす。
「なあに、智ちゃん・・・」
起こされた民子が眠気眼で答える。
「お手洗いに付き合って・・・」
気が強い智子であるが、子供の頃から幽霊が大の苦手である。この年になっても、深夜、手洗い一人で行くことが出来ない。
民子は渋々起きて智子につきあう。
「智ちゃん、昼間はあんなに強いのに、お化けだけは苦手なんだから」
「しかたないでしょ」
ぼやく民子へ智子が恥ずかしそうに応じる。
当時の多摩の夜はいたるところに闇がある。智子は、そこに何かがいるような気配を感じると途端に怖ろしくなって竦んでしまうことがある。
いっぽう民子は自分に霊感があると思っていて、暗闇の中にいろいろなものを見つけては楽しんでいた。怯える智子にあれは怖いものじゃないのよと、益々智子を怯えさせるようなことを言ったりをした。いつも威張っている智子も、この時だけは民子へ逆らえなかった。
手洗いへ向かって歩く途中、台所に近づいたところで民子の足が止まる。
闇の中を見詰める。
目が真剣である。
小さな声でつぶやく。
「何かいる」
「やめて、そういうことを言うの」
情けなさそうな声を出す智子へ民子が言う。
「人だ」
「不二の家に忍び込むとは太い奴め」
怯えさせられた反動で、智子は怒りを込めて床の間の刀を掴む。
家伝の業物、清麻呂である。不二の家は多摩の名家で、家の蔵には古い刀が沢山あるが、中でも床の間に飾られた清麻呂は別格の一口りである。
「刀の錆にしてくれる」
智子が時代劇のような台詞を言う。
「相手が人間だと、とたんに強気になるんだから」
民子があきれたようにつぶやく。
異変を感じたマリアも目を覚まし、二人の会話にそっと聞き耳を立てる。
暗闇の廊下を智子と民子が足音を立てずに台所へ向かう。入口の手前で息を整え気配を消す。智子は幼い頃から大叔父から居合いを学んでいた。多摩は新撰組が生まれた講武の地である。江戸、明治の時代には、多摩の大地主の家には必ず一人や二人武芸者がいた。不二の家も例外でない。大叔父は無双流免許皆伝の居合いの達人である。その大叔父が智子に手ほどきをし、その筋の良さに、この子が男だったらと何度も嘆いたものであった。刀を左手に持ち、智子は台所の入口へ静かに立つ。微かに闇の中に動くものの気配を感じる。
電燈のスィッチにゆっくり右手を伸ばす。勝手知ったる我が家である。暗闇の中でもスィッチの位置は分かる。
「米兵」
スィッチを押した瞬間そこへ見えたのはアメリカ兵だった。
飛行服を着ている。
竃の横に置いてある鍋のふたを開けて漁っている。
振り向いた青い目に驚きの色が現れている。
「まるで赤鬼さんだ」
その顔を見た民子が思う。
米兵は白人であるが日焼けで真っ赤な顔色をしていた。
金髪の無精ひげが伸びていて、それが小さい頃聞いた、昔話の「泣いた赤鬼」の鬼のイメージとそっくりであった。そう思った瞬間に何故か可笑しくなってしまう。
驚いた米兵が腰の拳銃に手を伸ばす。ホルダーに蓋があるので咄嗟には抜けない。
その動きを見た智子の刀が鞘を走る。意識は消えている。殺気すらない。居合いの業が智子を動かしている。居合いは、その語の通り、家の中など、「居」ながらにして敵に「合う」として形が組まれている。その動きには、家の中の鴨居や調度も邪魔にはならない。
智子の刀が米兵の拳銃に伸ばした腕を切り落とそうと煌めく。
――だめーっ。
民子が叫ぼうとするが声にならない。
その瞬間である。
「フリーズ」
台所へ大きな声が響く。
刹那、アメリカ兵も、智子も動きを止める。
マリアが腰だめで猟銃を構えている。
「ホールド アップ」
ゆっくりと力強くマリアが命じる。
アメリカ兵は困惑した表情をする。
当然である。B29が撃墜されてパラシュートで降下をして、飲まず喰わずで逃げ回り深夜に忍び込んだ民家で3人の少女に囲まれている。
しかも少女たちの一人が抜刀し、一人は銃を構えている。
米兵はやがて力を抜いてゆっくりと手を上げる。
「民ちゃん、米兵から拳銃を取り上げて。後、他に武器を持っていないかも確認して」
民子がうなずき、アメリカ兵の方へ一歩踏み出す。
「腰の拳銃もらうけど静かにしていてね」
右手でアメリカへの拳銃を指差しながら民子が穏やかに話す。
民子は意識することなく日本語で話しかける。意味が通じたのか、米兵が表情を緩めて穏やかにうなずく。
その顔を見ながら民子が近づいて、ますます思う。
「やっぱり、赤鬼さんだ」
そう思うと訳も無く顔がほころんでしまう。
近づいてくる少女が微笑んでいるのを見て、アメリカ兵は一瞬驚くがつられて微笑み返す。民子はますます可笑しくなってしまう。
その様子に智子は怪訝な表情をする。
民子がアメリカ兵の拳銃を取り上げて茶箪笥の横へ置く。
マリアが指示する。
「民ちゃん、みんなを呼んできて」
民子は龍子と源五郎、そして離れにいる連絡将校の津田と整備士の篠原を呼んでくる。津田は拳銃を、篠原は木刀を手に寝巻きのまま駆けつける。台所に、三人と龍子、源五郎、津田、篠原が揃う。
「この兵隊さん、お腹が空いてるみたいね。智子、何か作って差し上げなさい」
不二の家では、こういうときは自然と龍子が仕切る。龍子は米兵の様子を見て、アメリカ兵を座わらせ智子に食事をださせる。手際よく仕事するのは智子の十八番である。こういう時に民子に任すと手の込んだものを作り始めようとして時間がかかる。冷や飯と汁だけの簡単なものであるがすぐに用意をする。空腹であったのであろう、米兵は慣れない日本の食べ物をぺろりとたいらげた。津田に横須賀基地へ連絡をさせて、海軍経由で人を送ってもらうように頼む。憲兵隊と警察へは直接連絡しない。
「回りはみんな日本人です。逃げても見つかってなぶり殺しにあうのがおちです。日本の兵隊さんを呼びましたので逆らわず降伏しなさい」
龍子の言葉をマリアが訳し、米兵はそれに頷く。
民子がじっと米兵を見詰めている。見れば見るほど、泣いた赤鬼の絵本の赤鬼に見えてくる。目が笑っている。米兵も気がつく。
気の好い男であるのか、全てを受け入れたのか、このような状態にも拘らず、屈託が無い。民子に向かって目を藪にらみにしておどけたような顔をする。民子も目を藪にらみにしてひょっとこのような顔をして応じる。暫く米兵は空々しい無表情な顔をしているが 突然おどけた表情を返す。民子も暫くすました顔をしてからイーッとした顔をする。いつの間にか二人で百面相を始めている。横で見ている智子が呆れて苦々しい顔をしているが民子かまわない。マリアは可笑しそうに米兵と民子を見ている。
「龍子さん、尋問はしないのですか」
津田の問いに答える。
「それは私たちの仕事ではありません。名前も聞かないほうがいいでしょう」
「名前を聞くと殺して食べることが出来なくなるから」
民子が明るく尋ねる。
「どういうこと」
「昔ね、私が鶏へ名前をつけようとしたらお祖母様に叱られたの。鶏に名前をつけると後で絞めて食べることが出来なくなるって」
「名前をつけると情が移ります。このアメリカさんの名前も聞かない方がいいでしょう。私たちはきちんとお護りして兵隊さんへ引き渡すだけです」
民子が殺して食べるといった瞬間に米兵の表情が微かに動いたのを智子は見逃さなかった。
「智子さん、民子さん、マリアさん。明日も出撃があるかもしれません。この米兵は私が責任を持って軍へ引き渡しますので、今日はもう休んでください」
津田が3人へ指示をする。自然と龍子が仕切っているが、この場の指揮官は津田である。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
行儀の良い智子が引き取り、民子とマリアと3人で台所を出る。
布団が敷いてある床の間へ向かいながら民子が話しかける。
「マリア、よくあんな短い時間にお祖父ちゃんの猟銃を取ってこれたね。弾は鍵のかかった金庫の中に入っているんでしょ。鍵の場所を良く知ってたね」
「弾なんか入れて無いもん。脅かすだけで撃つ気は無かったから」
しれっとマリアは答える。
マリアが言う。
「あの米兵、日本語がわかるかもしれない。私達の日本語の会話に反応していた」
「やっぱりマリアもそう思う。私も少し気になっていた。時々、私たちのことをじっと観察しているような目をしていたから。こんなときなのに落ち着いているなって。民子どう思う」
智子が民子に尋ねる。智子は民子のことを能天気なやつと思っているが、その直感は子供の頃から信頼している。
「そうか、あの人米兵だったんだね。言葉が通じるとか通じないとか考えていなかった」
予想以上の民子の能天気さに智子が呆れる。
「でも、大丈夫。あの人悪い人じゃないから。それだけは保証するよ」
民子は明るく言い切った。
居間に戻ってから、思い出したかのように深刻な顔をして智子が言う。
「民子、お手洗いに付き合って・・・」
軍の迎えが来たのは翌朝、少女達が起きてからであった。
海軍も憲兵に遠慮して直接連行することはせず、上層部を通じて憲兵隊へ連絡し、立川の憲兵隊から人が送られてきた。そこは捕虜を処刑する事件を起こした部隊であったが、事前にその米兵については海軍が尋問をしたい旨が伝えてあり、捕虜は立川で 憲兵隊の尋問を受けた後に海軍の大船収容所に移送されるとのことであった。今回の件は、撫子邀撃隊、海軍の横須賀基地多摩分隊の手で確保した捕虜であり、その点については海軍側の主張が受け入れられることになった。
憲兵に米兵が連行されて車に乗せられる様子を近所の人々は遠巻きに眺めていた。米兵は、昨夜の様子とはうって変わって、終始険しい顔をし、一瞬たりとも民子達へ親しげな表情を見せようとはしなかった。それは、親切にしてくれた彼らに迷惑をかけまいとした演技では無いかと思えるほどに、不自然な気がした。
車に乗る瞬間、米兵は一瞬、民子達を見た。
表情は変えず、目配せともいえない程の間ではあったが、民子はそれを見逃さなかった。車が走り去った後、民子がつぶやいた。
「私達、あの赤鬼さんとまた会えるような気がする」。
民子の直感を信じている智子とマリアも横で頷いた。