第8話 オーデルト
耳を塞ぐ。自分を囲って声を上げる黒い人影たちの声から意識を引き剥がす。
呪いの声に決まっている。憎悪の声に決まっているのだ。自分を切り捨てて、人類を優先した男など、憎くて仕方がないはずだ。
死地に追いやった冒険者がいた。
戦略的に見捨てた兵士がいた。
道を作るために犠牲になった人間がいた。
そんな、数百人からの声を、彼は耳を塞いでやり過ごす。耳を傾ければ、自分もそちら側に引き込まれてしまう。ゆっくりと歩いていく先には崖が見える。その先に道はなく、足を踏み外せば終わりだろう。
「……」
これは夢だ。そんなことはわかっていた。しかし、目覚めることを意識が拒絶する。この夢の世界で、彼はやらなければならないことがある――そんな気がする。
「……『軍神』、か」
そうだ、彼は『軍神』だ。人類の守護者であり、戦の天才だ。
救ってくれ。救ってくれ。救って……
助けてくれ。
「……無理だ」
その言葉は、驚くほどすんなりと口から零れ落ちた。その呟きに反応したのか、周囲の人影が大きく影を膨らませた。何かを伝えようと、必死に体を揺する。
「無理。無理だ。私には、人類を背負うことなんてできない……」
顔を上げたオーデルトの前に、ひとつの影が立ちふさがった。そいつは、相変わらず何かを叫んでいるようだが、オーデルトの耳には届かない。オーデルトが、彼らの声を、死者の声を聴くのを拒絶しているからだ。
恨み言だ。聴きたくない。
「なんとか、うまくやれてたんだ……やめてくれ……」
ぎりぎりでバランスを保っていた彼の精神は、そこまで強くない。今、死者の怨念のの声を耳にすれば、たやすく崩壊するだろう。ひびが入った歯車は脆い。『軍神』という殻が破れれば、そこにいるのはただの1人の男だ。
終末に怯える、ただの男がいるだけだ。
「……オーデルト」
言葉が耳に届く。外からの声ではない。自分の内側の記憶から聞こえてくる、生者の声だ。
「あなたが、好きです」
「……はは。勘弁してくれ」
実際のところ、オーデルトは『戦乙女』シャルヴィリアに対して恋愛感情などない。ただ『軍神』として利用価値があるから利用しているだけだ。足は止まらない。崖に向かって歩き続ける。
だが、彼女はそんなことは気にしていないのだろう。
「あなたの返事を、聞かせてください。『軍神』としてではなく、オーデルトとして」
たとえ、嫌いだと言われようと、彼女はその感情を決して曲げないのだろう。
「全く、英雄ってやつらは……どいつもこいつも、癖が強くて……」
自分なんかよりも、ずっと人間らしい。
傷つくことを恐れながらも、一歩を踏み出したシャルヴィリア。ただ停滞するよりはマシだと、正解も不正解もわからないなりに、答えを出した女性。
それに比べて、自分のなんと惨めなことか。
自分の行いから目を逸らし、自己暗示に逃げ、死者の声に耳を貸さず、責任を放棄する。
このまま、重圧を抱えて死ぬのもいいかもしれない。少なくとも、これ以上は苦しまずに済むだろう。『軍神』として死ねば、『オーデルト』としての苦しみは味わわなくて済む。
嫌なことは、全て『軍神』が引き受けてくれる。仕方がない、と諦めて、大を救うために小を犠牲にする戦いが戻ってくるだけだ。
「そうだ、オーデルト。お前は悩む必要はない」
「『軍神』……ははっ、これが噂に聞く二重人格ってやつかな?」
目の前に立つ影に、オーデルトは力なく笑いかけた。自分と全く同じ体格、同じ声をしているそいつの声は、耳を塞いでいても聞こえてきた。
「お前は『予言者』の提案に乗った。二人で、人類の守護者として、人類を救う歯車のひとつとなることを」
「ああ、そうさ」
「そうして生まれたのが『軍神』だ。戦の才能をそのままに最適解を導き出す、人類を外敵から守り続けるシステム」
影は喋り続ける。
「今、死者たちの声を聞こうとしないのは、『軍神』としての判断であり、『オーデルト』としての願いでもある。『軍神』は死んだ者の言葉に意味はないと考える。聴くだけ無駄だ。聴くに値しない。心を惑わす意味もない。無視すべきだ」
影は喋り続ける。
「だがオーデルト。お前は別の理由で耳を塞いでいるな。恨み言を聞けば、自分の心が崩壊するのを予感しているからか。お前の心が崩れて消えれば、もしかしたら私たちは真の意味で『軍神』となれるかもしれない。人間であるオーデルトの思考と感情を廃棄して、ただ冷徹に人類を守るシステムに」
影は喋り続ける。
「そうなれば、『軍神』は無敵だ。公国一流の暗殺者、遠き島国の剣士、大工も真っ青の建築能力、巨岩を打ち砕く拳闘士、疑似生命を操る魔法使い、誰にでも声を届けられる少年、対人戦最強の魔女、感情のままに破壊する女、全てを見通す魔眼、そしてなにより、信仰の強度をそのまま力に変換する戦乙女を、自在に扱える。一癖も二癖もある英雄たちを、思うがままに操る最高の戦争の始まりだ」
自負がある。彼らを十全に扱えるのは自分だけだという自負が。『軍神』である自分だけが、彼らを率いていけるのだと。
「……なるほど。確かに、お前の言う通りだ」
オーデルトが呟き、『軍神』が笑う。
『軍神』からすれば、自分に主導権を明け渡したほうが効率的だ。『予言者』の言う通り、彼は歯車として無駄が多すぎる。オーデルトという人格を完全に放棄して、軍神と成ったほうが、人類にはプラスに働く。
「そうだ。だから、明け渡せ……」
「お前は、あの時の声なんだな……」
『お前の望みは決して叶わない』――そう告げてきた、人ならざる声。自分の内側から囁きかける、『軍神』としての声なのだ。オーデルトが決して幸せになれることはない、という呪詛の言葉を吐き続ける魔物。
悲しいことに、オーデルトはその声に抗うことができなかった。
大暴走を防いでいる時ならともかく、“貴婦人”に侵入されて、その対策を打てず、滅亡一歩手前までいったオーデルトは、もう自分の采配を信じられない。たとえ無事に乗り切れたのだとしても、次の危機には必ずその呪いが降りかかる。
それで本当にうまくいくのか?
人類は滅亡せずにすむのか?
もう二度と、失敗しないのか?
その重圧に、オーデルトはもう、耐えられない。だから、『軍神』に体を明け渡す。
「良い判断だ、オーデルト」
「……後は任せたぞ。『軍神』……」
目覚めたとき、きっともう自分の意識は残っていないだろう。その確信を抱いて、オーデルトは目をつぶろうとした。この夢の世界から逃げられないのも、『軍神』が自分に決断を迫っていたからなのだろう。
オーデルトは、心を自ら折った。
『戦乙女』シャルヴィリアの呼びかけは、逆効果に終わったのだ。
もうすでに崖の端に達していたオーデルトは、必死に下を見ないようにしていた。だが、シャルヴィリアからの声かけに振り返ろうとして、足を踏み外した。シャルヴィリアは遥か遠くにいて、オーデルトの落下には間に合わない。金色の髪を振り乱して走る女性を見ながら、オーデルトは笑った。
もうどうやっても間に合わない。周囲を覆う影も、まるでオーデルトの絶望を歓迎するかのように体を膨らませて両手を伸ばしている。
宙に体が浮く。
「最後に、みんなの声でも聴いておくか……」
死者たちの声。それも聞かずに消えるのは、責任放棄というものだろう。今から『軍神』と成れば、『軍神』は決して死者たちの声を聞かない。であれば、その声を聞き届けるのが、オーデルトの役割というものだ。自分の決断によって死んでいった人々の声を――
オーデルトは、目を閉じてその言葉を待った。憎悪と、恨みの声を。
「……?」
体が落ちて行かない。誰かが掴んで――支えている。
「――諦めてんじゃ、ねえよ」
「……ケイン?」
それは、最初の大暴走で犠牲になった冒険者の青年だった。特段強力な『祝福』も持たない、ただの冒険者だ。だからこそ、死んだとも言える。『祝福』持ちの人間を生かすために、壁にした一団の中にいたはずだ。
「なに、シケた面してんだよ。やっと聞く気になったか? ったく、こんなんになるまで絶対聞こうとしないんだからよ、本当頑固な奴だぜ……」
「まったくよ。自罰的にもほどがあるって」
「ケイン……イーナ……ベジ……クラウ……どうして……?」
周囲の影が、次々と形を変えていた。名もなき亡霊たちの憎悪の声が聞こえると思っていた耳には、知り合いの声が突き刺さる。彼が犠牲にすると決めた人々の声だ。さらに、ただの黒い影だと思っていたものが、知り合いの姿に形を変えていく。
冒険者がいる。兵士がいる。流れ者がいる。ならず者がいる。それは予想できた。全員、見覚えがある。オーデルトが死に追いやった人間たちだ。
オーデルトにとって予想外なのは、そいつらが全員笑っていることだ。
「ありがたい俺たちの言葉に耳を塞ぎやがって。いくら言っても聞きゃしねぇ」
「そんなの死んでも死にきれないじゃない?」
「隊長! 私たちは隊長を恨んでなんかいませんぜ!」
「ちょっ、オーデルト。あんたのとこの兵隊うるさいんだけど?」
ああ、うるさい。
「あっ、顔しかめやがったぞこいつ。さて、気難しい我らが隊長に、厳しくも優しい言葉をかけるとしようぜ!」
ああ、うるさい。
「頑張れよ、オーデルト!」「諦めてんじゃねぇよボケ!」「隊長! 隊長しかいませんぜ!」「あんたなんかに殺されてたまるかっての」「俺らは死に場所を自分で選んだだけだ」「むしろ、なんで私たちのせいにしようとしてるわけ?」「完全勝利以外は認めませんよ」「あんたの遊びに付き合うほど、わしは暇じゃないんでな」「若造が、いっちょまえに覚悟なんか決めよって」「死ぬ覚悟よりも生き延びる覚悟をせんかい」「甘えるな、オーデルト!」「まだ立てるだろ、オーデルト!」「さあ声を張れ!」「人間の強さってヤツを思い知らせてやれ!」
わかっている。
これは、自分の心の弱さが生んだ幻影だ。どうやら、自分の貧弱な心は、罵倒すら受け入れられなかったらしい。
影たちが、ことごとく自分を激励する言葉を投げていく。
恨み言ではなく、まだ戦えと。戦うべきだと。
「俺は、あんたを恨んだりしてませんよ」
最近、聞いた声で……ごく最近、聞かなくなった声だった。
「……ウェデス」
『烈脚』。最速の名前を手にした男は、困ったように頭を掻いた。
「なんか、『軍神』様に俺ごときがえらそーに言うのも変な話なんすけど。自惚れないでほしいんすよね」
「……自惚れ?」
「あーまあ、俺はともかくとして。ギベル砦に集まった英雄たちが、本当にあんたの思い通りに動いてくれると思ってたんすか?」
……それは。
「いや、それは『無音』とか『剛腕』とか、そういう名高き英雄たちだけじゃないっす。砦に集まった1人1人の冒険者、兵士、彼らの覚悟を、あんたはバカにするんすか?」
「バカになどしていない!」
オーデルトの咄嗟の反駁に、ウェデスの形をした何かは、酷く満足そうにうなずいた。
「なら、死んだ責任まで背負うな。俺は、俺たちは納得してその道を選んだ。断じて、あんたに決められたわけじゃない」
「し、しかし……私の命令で……!」
「あんたの命令に従うと決めたのは俺たちだ。俺だって、あんたに命令されて嫌々ベネルフィさんと調査に向かったさ。だけど、それを拒否しなかった責任まであんたに背負わせるつもりはないぜ」
彼らは名もなき亡霊だ。決して記されることのない、有象無象の人間たちだ。
けれど、オーデルトは彼らの名前を憶えている。当たり前だ、自分が死地に追いやった者のことを忘れるわけがない。
「ここにいる亡霊たちは、本来形を作ることができないほどの弱い存在。だけど、たった1つの意思で集まったんすよ。オーデルト、あんたにまた戦ってほしいからです」
オーデルトの髪を、風が揺らした。
暗黒の空間に響き渡る雄叫び。それは鬨の声に似ていたが、それよりももっと強い感情の発露だった。数百人に及ぼうかという、人間の叫び声がオーデルトの心を震わせる。
「……どうすればいいんだ、私は」
「もちろん、完全勝利以外は認めないっすよ? 魔王を打倒して、そのあとの災厄も乗り切ってください。んで、あんたは幸せになるんです。全ての不幸を、災害を、終末を、笑い飛ばして生きていくんです。それが、完全勝利ってやつっすよ」
それは難しい。とても――難しい注文だった。
「完全勝利、か」
呟いたオーデルトから、冷徹な仮面が剥がれ落ちていた。一緒に、薄ら寒い微笑みの仮面も。
かわりに浮かべた表情は、何かを楽しみにしているような生き生きとした表情だ。
「思えば、私の願いは常にソレだった気がする。完膚なきまでに勝利する――この戦いに。必ず決着をつける」
「そうそう、その粋っすよ。消えていきますね」
ウェデスの言葉に、オーデルトは自分の体を見る。確かに、足先から徐々に消えていくのが見えた。しかしそれは暗闇に飲み込まれるというわけでもなく――
「帰るときが来たみたいすね。辛く厳しい現実の世界に……彼女、『戦乙女』さんも待ってるんで、行ってあげてください」
「……最後に1つ聞かせてくれ。君は、君たちはいったいなんなんだ?」
オーデルトの問いかけに、ウェデスは寂しそうに笑った。
「残滓。残りカスですよ」
答えになっていない答えに、オーデルトが再び口を開こうとするが――そのとき、すでにオーデルトの意識は現実世界へと戻っていた。オーデルトの記憶に引きずられて現れていた亡霊たちも形を消し、暗闇の空間にはウェデスだけが残される。
「さて、終わりましたよ……ベレシス様」
「様付けはいらない」
影から滲み出るように、美しい女の顔が浮かび上がった。漆黒の闇が満たす空間――否。女神ベレシスが支配する、影の空間。闇と影と虚無こそが、かの神の居場所である。
「様付けはいらないと言われても、神様ですし……」
「ふん。お前はワタシの信者というわけでもあるまい。なのに願いを聞いてやったワタシに感謝するといい」
本来、死者の魂は女神カロシルの元で浄化され、輪廻の輪に戻る。浄化できないほどの魂は悪霊や幻霊となって地上を彷徨う――それが、この世界に新しくできたルールだ。つまり、女神ベレシスの元にやってくる魂は、本当はいないはずなのだ。
ルール違反の禁術、ベネルフィの魔法さえなければ。
「しかし、願いを聞いてくれてありがとうございます」
「あの暴れ狼は問答無用で消してやったが、お前は暇つぶしにはなりそうだったのでな。本来、地上の争いに興味などないが……まさか私の空間に位相を繋げる魔法が存在するとは」
どうでもよさそうに髪を弄る女神ベレシス。
「過保護な姉とは何もかもが正反対。ワタシは人間に味方しないし、かといって魔人の助けもしない。まあもっとも、お前に言っても意味のないことか」
ウェデスの姿が、闇に飲み込まれていく。
「時間切れだ。もとよりお前の意識などほんの少しも残っていなかったのだ。知り合いがこの空間に落ちてきたから、ワタシの力で意識を励起してやったまで。今度こそ本当の消滅だ、ウェデスとやら」
ウェデスは満足気に微笑み、暗闇に溶けて消えていった。何も言葉を残さずに消えていったことから、ベレシスはあの魂が満足したのを感じ取っていた。この暗闇に飲み込まれた魂は、本来消滅するのが筋だが……あそこまで満足しきった魂であれば、姉の元に向かうだろう。遥か天上、女神カロシルが住んでいる神殿へと。
「不躾な来訪者だったが、まあいい暇つぶしにはなったな……」
死が確定していたウェデスの魂をほんの少しだけ維持していたのは、ただの気まぐれだった。意識だけとはいえ、この空間に落ちてくる人間はそう多くはない。おそらく、あのオーデルトとやらは自分の被害者であると思い込んでいたウェデスの魂を無意識化で追いかけ、この空間に迷い込んだのだろう。女神ベレシスが支配する、影と闇の空間に。
「――まあ、どうでもいいことか」
偶然の産物だ。女神ベレシスは何もしない。考えない。自分自身偶然で生まれた神であるがゆえに、自ら何かを為すことを良しとしない。彼女はごくわずかな例外を除き、今まで世界に干渉したことはなかった。
流れに身を任せ、女神ベレシスは眠りについた。