第6話 並び立つために
大人の落ち着きを手に入れれば、おそらくこの力も制御できるようになるだろうというのが、フリートとテテリの予測、否、希望的観測だった。どうやら、発動する条件は、リクルが『攻撃的な感情を持って』『物に触れる』ことらしい。
それならば、攻撃的な感情を持たなければいい――と、口で言うのは簡単だが。日常生活で、全く何も怒りや苛立ちを覚えない人間というのはいない。そんな人間がいたら、それは人間の形をした何かだ、と言うべきだろう。
「う……うう……!」
安いアクセサリーを大量に購入してきたフリートによって、リクルの力の研究は続けられていた。すでに数十個のアクセサリーが不自然に壊れ、部屋の隅に積まれている。何十回と繰り返した研究によって、リクルの力の発動条件は絞れた。だが、だからこそ、打つ手がなくなっていた。
「どうすれば……」
防ぐ方法は2つだ。
1つ、そもそも物に『触れない』こと。リクルの持つ力は、対象に触れることで効果を発揮する。自分の意思を伴った『攻撃』であれば、武器にも力が宿るが……今の問題は、無作為に発動している力のほうである。物に触れなければ、能力が発動しても問題はないが、生活するにあたって看過できない不便が生じる。
2つ、『攻撃的な感情を持たない』。しかしこれは、先述したように不可能だ。苛立ちも憤りもしない人間なんていない。特にリクルは多感な年頃だ、この対応策も現実的とは言い難い。
「次だ、リクル。これを嵌めてみてくれ」
フリートが差し出したのは、ごつい革製のグローブだ。農業従事者が使う、自分の手を保護するための手袋である。防具の一種ともいえるだろう。安く頑丈な物を選んだので、残念ながら精密な動作は望むべくもない。日常生活を過ごす時、問題なく生活できるとは言い難いだろう。
言われた通り、グローブを装着するリクル。柔らかい素材の服装を身に纏う華奢なリクルが、ごつい皮のグローブを装着しているのは珍妙な光景だった。
「で、アクセサリーを持って……と。リクル、着せといてアレだが、似合わないな」
リクルの顔が歪む。あまりにも無責任なフリートの言葉に苛つき――グローブが、音もなく崩れ去った。アクセサリーは無事だが、革製のグローブはボロボロのクズとなって床に落ちる。リクルは深呼吸して気持ちを落ち着かせると、アクセサリーを拾い上げた。微かに吹いた風が、粉になってしまったグローブを浚って部屋の隅へと運んでいく。家精霊は、相変わらずこの家を守護してくれているようだった。
「手袋が崩れるのか……」
「あの、フリートさん……」
恐る恐る、といった様子で右手を上げるリクル。
「なんだ?」
「少し、休憩したいというか……疲れました」
かれこれ数時間は休みもなしに実験を続けているのだ。リクルの精神が疲弊するのも無理はない。
「そうだな。休憩にするか」
「ていうか、フリートさんアレですね。よくそんな簡単に、微妙に人を苛つかせる言葉が出てきますね」
リクルの褒めているのか貶しているのかよくわからない評価に反応したのは、フリートではなかった。フリートの前に黒白の線が浮かび上がり、まじりあい、一匹の蝶の姿を形作る。
『……性格悪いからね、こいつは』
胡乱気な視線を向けられたと感じたフリートは、肩を竦めることでネメリアへの返答とした。そもそも自分の性格が悪いというのであれば、記憶や思考と感情をトレースしたネメリアの性格もまた、悪いということになる。
「えーと、ネメリアさん、でしたっけ」
『ネメリアでいいわよ』
「……実際、どういう存在なんでしょう……?」
『さあ……? 一応、再確認しておく?』
ひらひらと空中を舞うネメリアは、やがて疲れたように高度を下げていき、フリートの肩に止まった。その様子を見ていたリクルの眉が寄せられ、握っていたアクセサリーが崩れた。
「あっ、ああっ!?」
「感情を抑える、っていうのは無理そうだな……」
やはりなんらかの対策が必要だ、と判断したフリートが呟き、二人はネメリアの話を聞く態勢に入った。リクルは自分の両手を組み合わせ、机に肘をつく。彼女の力は、とりあえず自分を傷つけることはない。
『まず、私は元々は魔獣だったわけだけど。【幻死蝶】っていう、人間に悪夢を見せて憑り殺す魔獣。実体はなく、精神に寄生するタイプの魔獣ね。でも、私もそのころは自意識なんてなかったから、“貴婦人”から聞いて、元々はそうだったって聞いてるだけ。それが“貴婦人”の『加工』の力によって自意識と、記憶や感情を読み取る力を得た新種の魔獣――【悪意の蝶】として生まれ変わった』
ゆっくりと羽を動かしながら、ネメリアは自分の生い立ちを語る。
『【悪意の蝶】として生まれ変わった私の最初の獲物は、フリートだった。こいつの中でどんなことがあったかは省くけど、結果として私とこいつは近しい存在になった。同じ思考と感情を持つ、全く別の種族。まさか私も、魔獣と人間が融合するなんて想像の埒外だったわけだけど、なんでこんなことが起きたか、予想はつく』
一息いれたネメリアに代わって、フリートが口を開く。
「精神に寄生する魔獣であるネメリアと、俺の『祝福』である『再誕』。もう、リクルも薄々と予想ができていると思うが、俺の『再誕』の力は、経験値の振り分けだ」
机の上にあった木彫りのアクセサリーを手で弄び、フリートはそれを積み重ねていく。
「俺が今まで積み上げてきた、暗殺者としての技能・経験値を10とする。これを、そうではなかった未来の経験値に振り分けることができるんだ」
フリートは、積み重ねた10個のアクセサリーを上から7個取ると、横に改めて積み直した。
「例えば、剣士として。『もし俺が暗殺者としてではなく、剣士として訓練していたら?』……そういう、あり得なかった未来の力に変換するんだ。この場合は、10のうち7を剣士としての力に振り分けたことになる。そうすると、『剣の達人であり、暗殺者としての技能も多少は持つ俺』になる」
残った3つのアクセサリーを、7つの上に乗せる。
「これで、俺は暗殺者としての技能を失い、それに比例する時間と努力を『剣に捧げた剣士としての技術』を手に入れる。だが、忘れちゃいけないのは、この力には明確なデメリットが存在する。それは、積み上げた経験や技術は、使わなければ使わないほど失われていくということだ」
10個積み重なったアクセサリーから、1つを取る。
「俺は、人生のほとんどを暗殺者としての技能を磨くことに費やしてきた。その分、剣士や軽業師の経験値に変換しても、かなり強い。それは俺自身が、今までの人生で捧げた努力の結晶だからだ。だが、だからこそ。剣士として戦えば戦うほどに、暗殺者としての技術を、経験を、俺の体が忘れていく」
1つ、2つと積み重ねられていたアクセサリ―を取り除いていくフリート。
「“貴婦人”との戦いは長かった。あの戦いで失われたのは、およそ上から3割ってとこかな。失われた経験は、もう一度訓練をし直すことで感覚を取り返せる。でも、リクルもわかると思うけど、初心者から中級者になるのと、上級者から達人になるのとでは、必要な時間と努力が全然違う。今の俺はいいとこ全盛期の8割くらいだろう」
神妙な顔で聞き入るリクル。異性に対して『祝福』の詳細を明かすのは、かけがえのない信頼の証となる。危機的状況でもなければ、切羽詰まった事情があるわけでもない。それでもなお、フリートがリクルに『祝福』の詳細を明かすということ。それは、まぎれもないフリートからリクルへのメッセージだった。
「『再誕』という名前をつけたことからもわかるように、本来俺の『祝福』は後ろ向きだ。『あり得なかった未来を現実にする力』だ。まあ、魔法とかはそもそも才能がなくて努力しても実らないってわかってるから使えないんだけど。結局、この『祝福』が、ネメリアを取り込んだんじゃないか――と、俺とネメリアは予測している」
再び翅を広げたネメリアが、空中を舞う。ゆらゆらと揺らめくその動きを目で追いながら、フリートは自然に右手を持ち上げた。
「『ネメリアと融合していたら』――そういう、もしもの可能性を取り込んで、『再誕』は俺を再び生まれ変わらせた……そう考えている」
だが、実際のところは誰にもわからない――そう言外に含ませて、フリートは人差し指を伸ばす。その指先に止まったネメリアが、言葉を紡ぐ。
『ネメリアとフリートの融合は、偶然の産物よ。もしかしたら、同じことは二度と起きないかもしれない。でも、少なくとも今まで一度も起きなかった奇跡であるのは違いないわ。これからどうなるのかわからないけど、私たちは魔獣と人間の和解の、ひとつの形ってわけ』
ネメリアは、そう言い残すと黒と白の紐になってフリートの中へと戻っていく。
「言いたいことは、まだあるんだが……リクル。とりあえずしばらくグルガンのとこに行くのはやめておけ。外出も禁止する。テテリさんにお金を渡しておくから、その力を制御する方法を考えておくんだ。俺は、『予言者』に呼び出されているから仕事に行ってくる」
そう告げたフリートは、積み重ねていたアクセサリーを全て崩して席を立つ。剣を佩き、暗褐色のコートを纏い、家の扉に手をかける。
「あまり気負うな、リクル。なんとかなるさ……」
少しだけ、疲れの滲んだ声でフリートは言葉を吐きだした。フリートとて、まだ本調子ではない。“貴婦人”との戦いによって失った経験は、いまだにすべてを取り返せてはいない。
そんな不安を押し殺して気丈に振る舞うフリートを見送り、リクルは頭を机の上に置いた。両手をだらんとぶら下げ、溜息を吐く。
「ダメだなぁ……私……」
偉大なる英雄。人類を救った『無音』のフリート。リクルの恋い焦がれる相手であり、そして背中しか見せてくれない相手でもあった。
自分では相応しくない……彼の横に並び立つのは、自分のような小娘ではないのだろう。『魔女』、『戦乙女』、それにふさわしい立場と能力を持つ人間はいくらでもいる。
「でも、フリートさんの横で生きたいの……絶対、諦めない……!」
この力を制御できれば。すべてを終末に導くこの力があれば、彼の横に並ぶことだって可能のはずだ。今はただの足手まといだが、必ず振り向かせて見せる――否。彼の横に立ち、前に出て、彼を引っ張って行って見せる。
ともに生きる、というのはそういうことだと思うから。
なんとかなる、とフリートは言った。
制御して見せる、とリクルは決意した。
だが――