第2話 軍神として
周囲を人影が覆い尽くす。光の差し込まない闇の中を、彼は歩いていた。
「……」
彼は無言だった。そして、周囲を覆う人影たちもまた、無言だった。だが、その瞳に映る感情には違いがあった。歩き続ける彼の瞳は光を喪い、まるで心を無くしたかのように冷徹だ。対する人影たちの瞳は感情豊かだった。とはいえ、それは喜びや楽しみなどの明るい感情ではない。憎しみ、悲しみ、後悔、恨み――ありとあらゆる種類の負の感情が、彼を見つめていた。
「……」
音はなかった。いや、彼が聞こうと思えば聞けるのだろう。彼らの怨嗟の声が。呪いの声が。疑問の声が。しかし、その囁きに彼が耳を傾けることはない。
「……」
この空間を支配しているのは彼で、決して周囲を埋め尽くす黒い人影ではない。彼が人影を消し去ろうと思えば消し去ることもできるだろう。だが、彼はそれをしない。
「……くだらない」
その呟きに反応したのか、彼を取り囲む人影たちが大きく揺らめいた。それは動揺したのか、怒りによるものなのか――口々に何かを叫ぶが、その声は彼の耳には入らない。
「聞き飽きたんだよ……お前らの戯言には……」
普段からは想像もできないほどに低い声で呟いた彼は、先の見えない暗闇の道を進んでいく。周囲の人々は何かを訴えかけるかのように口を開くが、彼の耳には届かない。ただひたすら深い深い闇の道を進んでいく。闇が濃くなっていくにつれて、徐々に人影の数も減り始めた。亡霊といえども、底の見えないほどの暗闇は恐ろしいのか――ふと、そんな考えが浮かび、彼は笑う。凄惨な笑みを浮かべた彼は、そのまま闇の中に身を委ねていく。
『何を望む……?』
声が、聞こえた。何度か聞いたことのある声に、彼は笑った。救いをもたらす神――などではない。神は人を救わない。であるならば、この声の正体はなんなのか。
安寧に身を任せる彼は、その正体を探ろうとはしなかった。
『何を望む……? 地位も。権力も。名声も。欲望を満たす戦場も手に入れたお前は、最後に何を望む……?』
望んでいるものはある。だが、その願いを口に出すことは許されない。思うことも、叶えようとすることも許されない。多くの人間を地獄のような苦しみに晒してきた彼が、今更自分だけが救われようだなんて、そんな傲慢は許されない。
「失せろ。お前に用などない」
『お前の望みは叶わない……決して……』
嘲るように笑う声に、彼もまた笑みを返す。
「そんなことはわかっている」
地獄のような苦しみを味わったあの亡霊たちも、それを望んでいる。自分たちを地獄に突き落とした張本人が、地獄に落ちることを望んでいる。その望みは叶えてやらなければならない。
「……」
声の気配が消えた。代わりに頭上からやけに眩しい光が迫ってきて――
彼は目覚めた。
やけに、静かな朝だった。あの“貴婦人”の襲撃から1か月ほど過ぎているが、いまだに朝目が覚めるとほっと一息ついてしまう。心のどこかに、『戻ってきてしまった』という後悔が、ほんの少しあるのは否定できないが。
“貴婦人”の撃退からは、特に目立った問題もなく日々が過ぎていた。
「誰にも起こされずに起きる、っていうのは久々かもしれないな……」
窓の外を見るが、日はまだ昇っていない。椅子から立ち上がり、体を伸ばす。無理な姿勢で寝たからか、体中がギシギシと軋む。しばらく体をほぐすように動かしていた彼は、思いついたように剣を抜き放った。護身用に持ち歩いているものだが、それなりに心得はある。パートナーである口うるさい少女もいないことだし、と彼は室内で剣を構えた。
数十回振るわれた剣は風を巻き起こし、いくつかの書類を飛ばしてしまったが、彼は満足した。鈍ってはいるが、錆びついてはいない。今もし前線で戦えと言われると厳しいが、自分の身を守るくらいはできるだろう。
剣をしまうと、彼は床に散乱した書類を拾い始めた。
「これ、どこから飛んできたんだ……? まあいいか。この辺に乗せておこう」
部下には見せられないほどの気楽な態度で、彼は適当に書類を戻していく。もとより内側のことはパートナーである少女に一任しているし、今の彼は例外を除いて外側だけを警戒していればよかった。
「さて、朝の運動は終わった……どれどれ」
彼――『軍神』と呼ばれる、青年にしか見えない男は、どっかりと椅子に背中を預けて書類を手に取った。新しく遊撃隊に入りたいと希望する、町の青年の情報が記されている。希望動機やら戦いの経験やらが書いてあるが、オーデルトはそれに不承認の印を押した。
「申し訳ないが、気力だけで戦えるほど甘い相手ではないんだ」
魔人。魔獣。そして――魔王。いずれにせよ人智を超えた人ならざる力を振るう者たちだ。強力な『祝福』か、恵まれた才能か、積み重ねた経験か。そのいずれかがないと、魔獣や魔人に対抗するのは難しい。幸い前回の大暴走から、魔獣の大量侵攻は起きていない。いかに“道化”といえども、あの量の魔獣を集めるのは時間がかかったのだろう。それこそ、周囲一帯の魔獣をかき集めていたのだとしたら、しばらくは問題ないはずだ。『天眼』や偵察隊に周囲を偵察させた結果でも、魔獣の群れのような存在は確認できていない。
(ん……? そもそも、“道化”はなんのために……)
人類を滅ぼすためだった――それは間違いない。“道化”本人は出てこなかったが、それでもあの侵攻の殺意は本物だった。だが、それ以外の意図を疑ってしまうのは、疑いすぎだろうか?
そもそも、“貴婦人”は“道化”と連携をして、内側と外側から同時に攻めるつもりだったらしい。それは、『無音』のフリートの証言からも確定している。そんなことをされていればこの土地は今頃更地になっていただろうが――なぜか、“道化”は“貴婦人”よりも先に攻め込んだ。
椅子が軋む。オーデルトの記憶も、同じように軋み出す。
「あの“道化”のことだ……何か、理由があったとは考えづらいが……やはり『無音』と『剛腕』が魔獣の群れを発見したからか……?」
ありとあらゆる戦いに勝利してきた『軍神』――そのオーデルトが、行動を読み切れない相手。魔人“道化”のシギー。
思考の海に沈んでいくオーデルトだが、いくら考えても答えは出なかった。
「……わからん。なぜ同時に攻めなかったんだ……?」
理屈や論理では動かない奴の考えを予測するのは非常に難しい。オーデルトは頭痛を覚えながらも、一度思考を打ち切った。わからないことを考え続けても意味がない。
「クソ……頭が痛い……」
オーデルトの悩みは多い。『戦乙女』シャルヴィリアのこと。魔王のこと。パートナーである『予言者』ミリのこと。そして人類のこと。
相も変わらず、人類に希望は見えない。魔人“道化”を退け、“貴婦人”を滅ぼし、“狼王”を倒した。だが、どれも奇跡に等しい。負けていてもおかしくはない、どころか負けが決まっていた戦いだったと言ってもいい。ほんの少しずつの偶然が、かろうじて人類という種を支えているのだ。
「……おはようございます、『軍神』」
「ああ、おはようミリ」
「さっそくですが、少し面倒な事態になりそうです」
ミリが投げ出した資料には、『純白』という文字が躍っていた。かつて大陸中央にあった金狂いの国家、アルディヤ国を揺るがした最悪の薬物の名前だ。シラリエという花を乾燥させ、魔力を加えながら粉末にすることで、強い中毒性を引き起こす薬物。
効能として強い依存性、多幸感、そしてなぜか、『祝福』を異常強化するという特性を持っている。
「……その名前は、もう2度と見たくなかったんだが……」
オーデルトは増えた頭痛の種に溜息をつく。かつてその薬物を用いた人間の末路を見たことがあるが、まさに『純白』の名前が相応しいと思えるほどに何も残らない。『祝福』の力が強化されても、そのあと確実にその『祝福』は使えなくなるうえに、もっとひどい後遺症が残ることが多い。腕が動かなくなったり、記憶を喪ったり、『祝福』が十全に発動しなかったり。一度使った末に、人類を守れなくなるような薬物は必要ない。
「……あとは、最近壁に頭を埋め込まれることによる殺害事件が発生しています。おそらくアルディヤ国にいた『透過』の『祝福』を持つ、レベッカという女性の仕業だと思われますが、こちらもあわせて調べていきます」
感情を見せない表情で報告したミリに、オーデルトは頷く。町の内側のことであれば、オーデルトの管轄外だ。人であることを捨てたオーデルトに、町の住人の不安を取り除いたりすることはできない。
『軍神』はただ外敵を払う剣で在れ。
オーデルトはそのためならばどんなことでもするし、何だって犠牲にする。勝つ可能性があるのであれば、勝率があるのであれば、その作戦にすべてを賭けることもあろう。
「経過は報告してくれ。僕が手伝えることもあるかもしれない」
「まあほとんどないと思いますが、そのときはよろしくお願いします」
ミリに冷たく返されたオーデルトは苦笑し、書類に向き直る。考えることは多くても、やる仕事が山積みでも、全ては人類を生き延びさせるために。
2人の超人は、今日も静かに仕事を始めた。