第20話 見る者、写す者
暗い小部屋で、少女が虚ろな瞳で空中を見つめていた。部屋の中はやけに小奇麗に整えられており、生活に必要なものはおおよそ揃っているように見える。シックな色合いでまとめられた部屋の、柔らかなソファに少女は座っていた。
やがて部屋のドアノブが回され、1人の男が女性を伴って入ってきた。男は仕立てのいい服を着ているが、女性はみすぼらしい服を着ている。二人が恋人や夫婦などといった平和な関係ではないことはすぐにわかった。少女は光を写さない瞳で二人を見つめると、のろのろと右腕をあげる。
薄汚れていた桃色の頭髪は洗われて、本来の色を取り戻しているが、その両目に宿っていた輝きだけは取り戻せていなかった。
男の口が動いて、少女がそれに言葉を返す。光景は見えても音が聞こえてこない――
「こ、これ……私の、過去……?」
震える声で呟いたその言葉は、スウェーティの耳にも届いた。二人が先ほどまで見ていたのは、スウェーティの過去だ。そして、今見ているのは……パトの過去である。
「な……なんで……?」
「……」
スウェーティは、理由に予想がついていた。パトの『祝福』である『転写』……他者と、思い浮かべた光景や風景を共有する力がある。そしてスウェーティの『祝福』である『天眼』が――この瀬戸際になって、真の力を発揮したのだろう。そもそも成長途中であった『天眼』が、ついに『過去視』、時間と空間を超越して、見たいものを見る力を手に入れたのだ。
幼いころのパトの様子が見て取れる。言われるがままに『祝福』を使い、何度か女性と言葉を交わす。それだけで、知りたい情報を手に入れたのだろう。男が満足気に頷き、女性を連れていく。そしてパトは、また空虚な瞳で空中を見つめていた。
視界に一瞬黄金色の光が走り、光景が切り替わる。
その映像のなかで、パトは生き生きとした表情で指示を飛ばしていた。周囲にいる大人たちが、少女に過ぎないパトの指示に従って作業を進めていく。恐怖によって組織を支配していた少女は、密告を奨励していた。そんな組織で働く大人たちは、どこか怯えた表情をしていたが――支配者である少女だけは、希望と喜びに満ち溢れていた。
「……私は、人を思い通りに操るのが楽しいのよ」
「……」
まるで罪の告白のように呟かれた言葉を、スウェーティは黙殺した。かけるべき言葉も、言うべきセリフも思いつかなかった。スウェーティの乏しい人付き合いの経験では、己の罪と対面した少女にかける言葉のレパートリーなどない。刺激しないように口を閉ざすだけだ。
また、景色が切り替わる。『天眼』は完全に制御を離れ、スウェーティの意思とは関係なくパトの過去の光景を写し続けた。
避難民と一緒に移動するパトの姿が映った。周囲の人間に比べて、パトが着ているものや肌色がいい。そして夜になれば、少女は自分の身を守るために暗躍した。騙し、脅し、誘惑し、次々と周囲に味方を――信奉者を増やしていく。その姿はやけに手慣れていた。
「簡単だったわ……みんな、醜い。弱味がない人間なんていなかった……」
パトが無邪気な少女のフリをして近づけば、人は面白いように警戒を解いた。そして不意を打って放たれるパトの質問に、答えてしまう。口を開かずとも、思い起こしただけでパトはその光景を読み取れるのだから。
「他人は、利用するものだと思ってた……」
「……」
スウェーティが反応する。何かを考え込むように腕を組み、顔を伏せる。久しぶりに動き始めた脳が、思考を拒絶するように悲鳴をあげた。
――今のパトの発言の何かが、引っかかった。
「人間なんて、信用してなかった……」
違和感が強くなる。
「みんな、私のことを見てなかった。私は……『転写』を使うためだけの存在だった」
スウェーティは、気づいた。自分がパトを見ようとしなかった理由に。だがパトは、自分がスウェーティを毛嫌いしていた理由に、気づけない。
「私は不幸だったわ。見たでしょう?」
からかうようにパトが告げる。その口調は酷く愉しげで、先ほどの弱弱しい声から一転していた。まるで開き直ったかのように、パトは両手を広げた。
「だって、お父さんもお母さんも私を利用することしか考えてなかったもの。売られそうになったのだって、一度や二度じゃないわ」
視界が切り替わる。母親に暴力を振るわれるパト、父親に盗みをさせられるパト、奴隷商人のところに連れていかれるパト――次々と切り替わっていく視界は、パトが恵まれない幼少期を過ごしたことを示していた。ならず者を相手に『転写』を使って生き延びて、数名のグループを作り上げた。徐々に大きくなっていったグループは、さらに大きなグループに潰された。母親を目の前で殺され、父親は捕まった。
『天眼』か、『転写』か、どちらかの力が限界に近付いているのか、風景が明滅する。黄金色の光が視界をよぎる。
「だから、私はほかの人を不幸にする権利がある……」
壊れた少女は笑う。悪意の混じらない、純粋な喜びの笑顔で笑う。
「だから、壊れて。スウェーティさん……!」
黄金色の光が弾けた。
「――ようやく、わかったよ」
スウェーティは薄暗い小部屋で呟いた。一瞬だったのか、それとも数分だったのか。二人を巻き込んだ奇妙な過去への旅路は終わり、元のパトの部屋に二人は座り込んでいた。『天眼』と『転写』によって過去の記憶を覗きあった二人は、互いの過去を知った。
「スウェーティさん……! 早く、早く壊れてください……! お前がいなければ……私は……!」
同情はしない。誰よりも他者を壊そうとする少女が、誰よりも自分が壊れていることに気づけないのは哀れだが――それでも。彼女の2倍以上も生きている、人生の先達としては忠告をしなければなるまい。
それを認めるのは、少し勇気が必要だったが――スウェーティ自身、40年近く生きてきて納得した真実だ。自分で口に出すのは初めてだが、誰も否定できない。
「パト……俺が、お前を相手にしなかった理由がわかったよ」
「相手に……しなかった? 何を言ってるんですか! 私は、お前に近づいて……幸せを作って、それを壊して……!」
「いいや。お前は失敗したんだ、パト」
「なん……そんなはずは! だって、だって、私は今まで……! 一回だって、失敗したことはないのに!」
パトの記憶を覗いたスウェーティは、それが真実であることを知っている。周囲の人間が彼女の脚を引っ張ったり、外から壊すことはあっても、パト自身はいつだってうまくやってきた。人間の感情の機微に敏感で、記憶を読み取れる『転写』は、パトに最適だった。いや――他人のちょっとした仕草から感情を読み取れるパトだからこそ、『転写』という扱いづらい『祝福』を使いこなすことができたというべきか。
「俺がお前を相手にしなかった理由がわかった今、お前が俺を毛嫌いする理由もわかったが……その様子だと、気づいてないみたいだな」
パトの動きが止まる。
「私が……スウェーティさんを、嫌っている理由……?」
他者に絶望し、一切の人間関係を断った男。
人に何も期待せず、興味も抱かず、踏み込まない代わりに踏み込ませなかったスウェーティ。
他者に絶望し、自分だけを大切にするようになった少女。
自分だけを信じ、他人の精神を支配し、脅迫や恫喝で生きてきたパト。
「関わらなきゃよかったんだ。お互いにな……」
交わってはいけない二人だった。そしてなによりも、交わらないはずの二人だった。それぞれの思考がほとんど自分だけの世界で完結している二人は、よっぽどのことがなければ関わりを持たないはずだった。それこそ、人類が滅亡の危機に陥り、生き残りの全てが1つの町に詰め込まれるなんてことが起きなければ。
しかし二人は出会い、パトはスウェーティを見るなり目標に定めた。壊す対象として近づいた。
それは決して自分の欲望を満たすためなどではなく――
「俺はお前を恐れた。だから関わらないようにした。そして、お前も俺を恐れたんだ。だから壊そうとした」
薄暗い小部屋で、月光だけが明かりの部屋で、二人は目を合わせる。叫び続けたパトは荒い息を吐き、スウェーティはじっとりと嫌な汗をかいていた。悪意の塊のような少女を前にして、しかしスウェーティは奇妙な充足感を覚えていた。
それは――目の前の少女が、本気でスウェーティという『人間』を嫌っているからだろう。
彼女の嫌悪は本気で、全力で、それは『天眼』という『祝福』は関係ないのだから。
久しぶりに自分だけを見つめる人間の瞳に、スウェーティは場違いな喜びを感じていた。もし違った出会い方をしていたら――そう思うが、これだけは伝えなければならない。もしかしたら、彼女には未来があるかもしれないのだから。手遅れになってしまった、自分ではないのだから。
「俺は未来のお前だ、パト」
「……意味が、わかりません」
人生の先達として、スウェーティは言わなければならない。
「お前の『転写』は強力な『祝福』だ……特に、お前の才能と組み合わせるとな。今は、それでいいだろう。うまいことやれてるんだろう。だけどな」
怯えたように体を引くパト。
「いずれ破綻する。他ならぬ俺が言うんだ。俺の過去を見てきたお前なら、わかるだろう?」
集団を転々としていたスウェーティ。それは、彼自身が持つ『天眼』の『祝福』が強力すぎたためだ。人間の社会にとって、パトの『転写』も、スウェーティの『天眼』も、強力すぎるのだ。
人類には、扱いきれない。
「わ、私なら……うまくやれます」
声が小さくなったのは、不安の表れか。目線を落としたパトに、スウェーティは重ねて言い募る。
「しばらくはな。だけど、必ずどこかで破綻する。例えば――想像してみろ。自分が、俺のような中年になったとして、その『祝福』で生きていけるか?」
「……生きて、いけます」
想像したのだろう、パトの顔が歪んだ。
「――その人生、楽しそうか?」
パトが唇を噛んだ。思ってしまったのだろう――醜い、と。その気持ちは、スウェーティにもわかる。他ならぬ自分がそうなのだから。
「俺は、他者と必要以上に関わらないことで、自分の人生を確保した。楽しくもなんともないけどな。辛いよりはマシだ、と割り切って。けど、お前は他者を不幸にする、壊し続けるだけで――お前自身は、幸せになれるのか?」
「……偉そうに」
ポツリ、と呟いたパトの言葉はスウェーティの胸を抉った。しかし、その程度の痛みは覚悟していた。今まで自分が蓋をして、見てこなかった辛い現実を口にしているのだ。
「俺は失敗したぜ。んで、お前も失敗するぜ、間違いない」
「……うるさい」
ここでやめるわけにはいかない。
「どう足掻いたってうまくいくわけがない。いつかお前は孤立するか、誰かに殺されるか、いずれにせよ悲惨な最期だな。他人を信用できない人生に、幸せがあるわけない」
「…………うるさい」
ほかの誰が言っても、パトの心には響かなかっただろう。しかし、スウェーティの過去を見てきたパトは、知っていた。目の前の男が、本当に誰も信用しなくなったことを。本当に、彼の周囲には彼を利用しようとする人間しか集まらなかったことを知っていた。
そして――他者との関わりを切った結果、幸せになれなかったことを知っていた。
「お前もそうなる。いや、むしろ、こうなる、と言うべきかな」
「………………うるさい」
自分の言葉が、パトと自分自身を傷つけていく。意識しないように蓋をしていたものが溢れだす。
「いずれ、お前はパトですらなくなる。いや、もう既にそうなりつつあるのか? 『転写』という恐ろしい力を扱う化け物として――」
「うるさい! 黙れ! 黙れ黙れ黙れェッ!!」
半狂乱になって叫ぶパト。しかし、スウェーティの言葉は止まらない。口を開き、続きの言葉を紡ごうとする。ここまでの言葉は全て前フリだ、ここまでは無事に来れた。パトの反応は想定内だ。
(失敗した人生の先輩として、後輩には教えてやらんとな……)
もうスウェーティは戻れない。間に合わない。だが、パトにはまだ可能性がある。まだここから、やり直せるかもしれないのだ。
「だから――」
スウェーティの言葉は、細やかな音によって遮られた。薄暗い小部屋に響いたその音は、ふつうに生活していれば聞き逃しそうなほど小さな音だったが、なぜかスウェーティとパトの耳にはしっかり響いた。
あるいは、それが終焉の音だと、気づいていたからかもしれない。
「う……あ……?」
2人が凍り付いたように見つめる中――目を覚ました“埋め込みのレベッカ”が体を起こそうとしていた。