第13話 苦悩
微かな、吹けば消えそうなほど小さな唸り声が響いた。その声を発した少女は、慌てて組んだ腕をほどく。まさか自分の喉からそんな声が出るとは思っていなかったので、周囲を見回して人影がないことを確認する。
少女――リクルは、とりあえず誰にも聞かれなかったらしいことに安心して、もう一度腕を組んだ。少し前のリクルは、答えの出ない悩みに直面していた。母親とどう生きていくか、という悩みは偶然解決されたが――その解決の原因である1人の男が、リクルの頭を悩ませていた。
「どうしよう……」
今リクルを襲っている感情、それは『気おくれ』だ。あの広場に建つ、『軍神』や『戦乙女』と並び立つほどの人物だとは思っていなかった。初対面はただの酔っ払いだったし、家ではダラダラと過ごしているフリート。グルガンとよく子供のような言い争いをしている。
「……そんなに、すごい人だったんだ……」
不思議なほど、リクルの心はざわついていた。助けてもらった人物は街を救った英雄で、自分は『祝福』を除けばただの小娘に過ぎない。
もしかして――もしかしなくても、フリートさんにはもっと相応しい相手がいるのでは?
そんな考えが、頭に染みついて離れない。相応しい相手、というのがどんな相手かまでは頭が回らないが、少なくとも隣に並ぶべきは自分ではないのではないか――。
「う……うぅ……」
両目から、雫が零れ落ちた。自分ではない誰かが、フリートの隣に立って歩いていく風景を想像すると、自然に涙があふれてくる。フリートから聞いた、セラという女性。才能にあふれ、優秀だった元同僚。彼女の話を聞いたとき、フリートはとても大切な宝物の話をするようだった。
どうしようもないほどの醜い感情の嵐が、リクルの胸中を吹き荒れる。胸を締め付けるような感覚に、リクルは思わず胸を押さえて荒い息を吐いた。
「わ、私じゃ……ダメなの……?」
フリートの隣に並ぶための、資格。
誰にも文句は言わせない。英雄と並び立つためには、それだけの功績が必要だ。
「――魔王」
硬い声で呟いたリクルは、ぼんやりと部屋の隅を見つめた。人類がここまで追い詰められている元凶ともいえる存在――魔王。勇者ですら倒せなかった“不死”の魔王も、リクルの『祝福』、『絶対的な決別』であれば、倒せるはずだ。問題は、リクル自身に戦闘力が全くなく、魔王と呼ばれるほどの存在に攻撃を当てるイメージが微塵も湧かないことか。
であれば、協力するしかない。“貴婦人”の時のように、英雄と力を合わせてなんとかリクルの一撃を魔王に届かせる。けれど、それは――協力してくれる人間を、リクルの手で死地に追いやるのと同じことだ。
「うぅ……!」
リクルは普通の少女だ。その背中に背負うには、『人類の命運』なんてものは重すぎた。それどころか、『1人の人間の命』だって、重すぎる。リクルが自分の『祝福』を打ち明ければ、おそらく『軍神』は勝つための策を練るだろう。それがわかっているからこそ、フリートはあの時リクルの『祝福』の秘密は守り通したのだ。
『軍神』は、それが人類が生き延びるための最適解であるなら、躊躇いなくそれを実行する。リクルの『祝福』を公表してでも、彼女を魔王の元に向かわせるだろう。もちろん、十分に勝算を見積もったうえでは、あるだろうが。
「私は……どうすれば……?」
苦悩する少女をよそに、夜は更けていく。
† † † †
『戦乙女』シャルヴィリアにとって、『軍神』オーデルトは尊敬する上司であり、恋慕の対象だ。中庭で月を眺めながら、ぼんやりとシャルヴィリアは思考を巡らせる。
その光景はさながら一枚の絵画のようであったが、シャルヴィリアにとっては関係がない。美女が、月明りの下で苦悩に顔を歪ませる。
(どうして、あの人はあんなに苦しそうなんだろう……?)
『軍神』オーデルトを見てきた。人類のために立ち上がり、戦力をまとめ、冷徹に合理的に人類を守護するその男を。その仮面の裏に隠された素顔には、苦しみがある。悩みがある。嘆きがある。憤りがある。
けれど、そんな感情を全て飲み込んで、彼は優し気に笑うのだ。
自分が、信用されていないことは気づいている。そして、向こうも気づいていることには気づいているだろう。結局のところ、神を――女神カロシルを、信じ切れなくなった自分に原因があるのだ。妄信していた自分であったなら、きっとオーデルトは自分に優しくしなかっただろうし、自分もオーデルトに惹かれることはなかっただろう。ただ神を信じ、自分の信念のために戦っていただろう。
「聖王国……」
“闇騎士”、そして“詩人”。聖王国を滅ぼした二人の魔人である。日中堂々と襲い掛かってきた二人は、ただ悠々と人々を殺して回っていた。誰もその行進を止められなかった。シャルヴィリアはそのとき、“狼王”と戦うために他国に派遣されていた。戻ってきたシャルヴィリアが見たのは、焼け落ちた家々と周囲を徘徊するアンデッドたち。
神よ。なぜ、私にこのような地獄を見せるのですか――。
思えば、彼女の信仰が最初に揺らいだのは、自分の処女を喪ったときだった。望まぬ相手に散らされ、シャルヴィリアは産まれて初めて本気で他人を憎んだ。あの男だけは殺さねばならぬ、と憎んだが――結局そいつは悪事がばれ、法のもとに裁かれた。
「はー……」
嫌なことを思い出した、と顔をしかめるシャルヴィリア。しかし、思考は止まらない。彼女も特に止めるつもりもなかった。
法のもとに裁かれ、極刑となった男だが――シャルヴィリアはそのとき、改めて女神カロシルへの信仰を確認した。信賞必罰、因果応報――悪事は必ず裁かれるのだ、と。
そう、自分に言い聞かせた。
たとえ、自分の手で縊り殺してやりたいほどに相手を憎んでいても――法によって裁かれるのが正しい。
だが、そのときほんの少しでも、思ったのだ。この手で殺してやりたかった、と。
それでも、自分を納得させた。女神カロシルの導きによって、悪人は裁かれ自分は生きている。信仰は、間違ってはいなかった。
伝説に謳われる、聖騎士トーマンであればどうだっただろうか? 戦争を終結させ、多くの人間を救ったという彼であれば、その生涯で決して信仰が揺らぐことはなかったのだろうか? 彼を題材にした物語では、彼の苦悩の様子が読める。だが、それが本当にトーマンの思考だったとは限らない。300年以上前の人物なので、とっくの昔に死んでいるが――生きているのであれば、聞いてみたかった。
「……」
『戦乙女』としてあるまじきことに、聖王国など滅んで当然だという思いも――ある。腐った上層部、権力争いに明け暮れる神官ども、その全てがシャルヴィリアは嫌いだった。人間の腐った部分を見過ぎた彼女は、逃げ込むように信仰を強め、そして故郷を失った。
大暴走の時に【悪意の蝶】に見せられた光景は、彼女にとってトラウマだった。そしてなにより、自分の信仰が最も揺らいだ瞬間だった。そして自分が信じるものを侵された彼女は現実を拒絶し、一種の催眠状態になることで新しい自我を確立させたのだ。
それが、女神カロシルの代わりに『軍神』オーデルトを崇拝する自分である。
「……」
白い光が差し込む。雲の切れ間から再び顔を覗かせた月が、優しくシャルヴィリアを照らし出す。金髪がその光を受けて輝く。月を見上げたシャルヴィリアは、わずかに顔を歪めた。雲の切れ間から降り注ぐ月光が、わずかに陰ったような――
シャルヴィリアは、その影を見つけた瞬間に腰の《神剣クーヴァ》を抜き放ち、構えた。上空から接近するその影は、やがて減速し、静かに中庭に降り立つ。
「全く、いい夜ですね」
黒に見紛うほどに深い紫色の翼。人の好さそうな顔が浮かべる笑みは、しかし中身がなかった。両目は閉じられていて、その感情や考えを窺うことはできない。あまりにもあり得ない光景に、シャルヴィリアは自分の思考が止まるのを感じた。
「魔人……!」
額から捻じ曲がった角を生やす男は、翼を折りたたんで背中に仕舞うと手を合わせた。パン、と乾いた音が中庭に響く。1回、2回、3回。訝し気に顔を歪めるシャルヴィリアは、ようやく男が拍手をしていることに気づいた。
「御名答です。私は魔人……“道化”のシギーなどからは、“教徒”と呼ばれています」
“教徒”。その名前を聞いたシャルヴィリアは、《神剣クーヴァ》を静かに握りしめた。
「お前……目的はなんだ」
「今日はいい夜です。大地は黙して何も語らず、空は隠れて何も話さず、まるで世界が静寂に包まれたかのように、静かな夜です」
「何を言っている……!?」
質問に答えず、わけのわからない言葉を喋り始めた“教徒”に、シャルヴィリアは動揺する。
「語り尽くすのが“道化”の役割であるならば、黙して語らないのが私の役目。我らが神はただ静かに佇むのみ。何も為さないし、何も告げない」
シャルヴィリアは、喋り始めた“教徒”に切りかかるタイミングを図る。しかし、すでに“教徒”はシャルヴィリアに興味を失ったようで――否。まるで最初から自分以外誰もいないかのように、虚空に向かってしゃべり続ける。
「“道化”の役割は、我らが神の上で踊ること。踊らせること。魔人も魔王も人間も魔獣も関係なく、面白おかしく踊り狂うこと。“教徒”である私の役割は、何もしないこと。それが我らが神の在り様であるがゆえに。魔獣の主たる我らが神は何も見出さない。何もしない」
狂っている――シャルヴィリアがそう判断したが、ひとつだけ気になることがあった。
「――何もしない神に、意味があるのか?」
ぐるんっ、と凄まじい勢いで“教徒”がシャルヴィリアの方を向いた。シャルヴィリアの人生で、信仰する神が助けてくれたことは一度だってない。この『祝福』だって、もっと子供のころから制御できていればあんな目に遭うことはなかったのに。
神は、何もしてくれない。
「神はただ在るのみ。ただただそこに在るのみ。それが在るべき姿であり、そこに意味はない。私に意義はない。世界に意味はない。雄大なる我らが神は、矮小なる我らに興味などない。感情もない。義務もない。権利もない。なればこそ私は頭を垂れる。その存在を――」
“教徒”が言い切る。
「――信じるのみ。ただただ信じるのみ。崇めるもよし。讃えるもよし。崇められたから、讃えられたからといって、我らが神が何かをする必要はなし。ただ在るがままに在るのが神の役割なれば――」
翼が広がった。シャルヴィリアの手はいつの間にか《神剣クーヴァ》から離れており、夜空へ飛び去って行く“教徒”を見送った。やがて夜の闇に紛れて見えなくなった“教徒”。シャルヴィリアは視線を地面に落とし、呆然と呟く。
「在るがままに在るのが、神の役割……」
それが、彼の信仰なのだろう。見返りを求めない。救いも求めない。ただそこに在れ、と。在る限りは信じる、と。
シャルヴィリアは夢のような邂逅に、頭を振って自分を戒める。相手は敵である魔人の一人だ。ただ、何もしないと言い続ける“教徒”から、嘘の気配はしなかった。そもそも、人類というか人間に興味がなさそうな感じである。
「……報告は、余計な混乱を生むだけか」
シャルヴィリアは、今起きたことは全て自分の胸のうちにだけ秘めておくことにして――ゆっくりと自室へと戻っていった。