第8話 “道化”のシギー
走る。俺は遠くに蠢く無数の影を見て、それが魔獣であると確信した。
だがそれよりもなによりも、俺の心のうちから叫ぶ声がするのだ。『確かめろ』、と。『繰り返すな』、と。
2度と、あの絶望を――味わわないために。
「やっぱり……」
蠢く魔獣たち。目算ではあるが、その数は予想よりは少ない。どんなに多めに見積もっても千頭程度だろう。問題は、俺が数を見誤った理由が、集まっている魔獣がどいつもこいつも中型から大型であることか。
二つの頭を持つ獅子、【双頭の獣王】やら、六足の巨大狼、【噛み砕く巨狼】やら、一見しただけでヤバイとわかる魔獣が多くいる。それ以外にも、かなり危険視されている【石化の凶鳥】や、特殊な能力を持つ魔獣がひとつの群れとしてまとまっていた。
俺はそれを確認し、即座に踵を返した。この群れがもし砦に向かうことになったとしたら、対策を講じていても看過できない被害が出るだろう。魔獣の群れに背を向けた俺は――
「お や ぁ ?」
ぞっとするような悪寒と殺意に反応して、その場を飛びのく。さらに魔獣の群れの方向に向き直りつつ、その男を視界にとらえた。
頭から伸びる、捻じ曲がった二本の角、不気味に笑う趣味の悪い白い仮面。そしてなにより、肥大化した左腕と、対照的に細く鋭く尖った右腕。
――それは、見覚えのある姿だった。
「誰かと思えば、《惨殺鬼》フリートさんじゃあないですかッ! いや、お久しぶりですねぇ!」
「お前は……!」
もはや呼ばれなくなった、かつての呼び名。味方からではなく、敵である魔人が呼び始めた呼び名。『魔人よりも魔人らしい』――いつ頃からか、味方からも畏怖と恐怖の念を込めて呼ばれるようになった呼び名だ。
「ふぅむ。ふむふむふむ! あなた、牙が抜けましたねぇ……しょうもない。つまらない。ここから先は舞台が違うのですよ!」
相も変わらず大仰に、大げさに――両手を天に掲げて謳う男。
「“道化”のシギー……! 今度は何を企んでる!?」
「クフフフ、『何を企んでる』かですって……? そんなの、あなたたち人間の滅亡に決まってるじゃあないですか!」
俺は素早く目線を走らせる。あの多くの魔獣たちがこいつの仕業だとするなら、ここで戦うのは不利に過ぎる。いくらなんでも、あの量の魔獣と戦うことはできない。物量に押しつぶされて終わりだ。
「……あの大量の魔獣たちは、お前の仕業か?」
「――は? もういいです、死になさい」
会話を引き延ばそうとした俺に向けて、唐突に炎の球が迫る。何の動作もなく生み出された魔法――俺はかろうじて顔を逸らしてそれをかわしたが、もう一度同じことができるかと言えば、答えはは『NO』だった。今のは、偶然避けることができただけだ。
あまりにも唐突。あまりにも理解不能。それがこの男、“道化”の名を持つシギーという魔人の特徴だ。
『こいつを殺せ!』と叫ぶ感情を無理やり理性でねじ伏せ、俺は――
「ああ、つまらないつまらない! これならまだ3年前の貴方のほうが、戦い甲斐がありましたとも!」
背を向けて逃げ出した。理性が必死に俺の行動を肯定する――これが正しい選択だと。この場所であいつと戦うのは愚の骨頂だと。だが、理性に押さえつけられた俺の感情が荒れ狂う。
『あいつは殺さなければならない』、と。
「逃げなさい逃げなさい! そこまでふぬけた貴方に何の用もありません!」
嗤う道化。逃げる俺。あいつの笑い声はだめだ。どうしても、どうしたって思い出してしまう。俺が必死に戦って、築き上げてきたものが、崩れ去る光景を――。
「はぁ……まさか本当に逃げるとは。『惨殺鬼』も所詮は人の子ですか……」
そんな溜息混じりの言葉は、不愉快なほどはっきりと俺の耳に残った。俺は正しい選択をしたはずだ。これが、今の俺にできる最善の選択で、間違いなく正解のはずだ。
……こうして言い聞かせなければならないほど、俺の精神は揺らいでしまっているのか。
培った技術と経験を駆使し、必要以上に音を消して走る。これ以上、奴のそばにいたくない。これ以上、奴の笑い声を聞きたくない。これ以上――思い出したく、ない。
気付けば、俺はセルデが待っている場所にたどり着いていた。
「お、おい、どうしたフリート!? 顔が真っ青だぞ!?」
「……魔獣の群れがいた。全速力で砦に戻るぞ――あの量の魔獣はやばい」
「やっぱり魔獣だったか……!」
青ざめた俺の顔を見ているのだろう、セルデは鬼気迫った表情をしていた。俺が青ざめているという事実を前に、必要以上に焦っているようだ。俺は逆に、焦っているセルデを前にして、少し精神を落ち着かせた。
……大丈夫だ。俺は、間違えていない。あの場であいつに挑むのは自殺以外のなにものでもない。
「……砦に逃げるぞ」
「気づかれたのか?」
「いや……だが微妙なところだ」
道化のシギーには気づかれた。だが奴は『なんの用もありません』と言っていた。魔獣をけしかける様子はなかったことから、今すぐに危険が迫っているということはないと思うが――奴は自分で言ったことすら平然と裏切る。だから、油断はできない。
「急ごう。これ以上、ここにとどまる理由もない」
「ああ、そうだな」
とはいえ、かなり砦からは離れている。いくら鍛えている冒険者といえども、全力疾走で何分も走り続けられるわけではない。俺とセルデは、ペースを合わせて走り続けた。途中一度だけ、魔獣に遭遇して戦闘になったが、セルデがその剛腕で吹き飛ばし、そのまま走り続ける。今はなによりも、『軍神』オーデルトにこの情報を伝えるのが最優先だ。
俺たちは、ひたすらに砦に向けて走り続けた。
† † † †
漆黒の闇が支配する世界。ゆらゆらと、ふらふらと、いくつかの影がさまよう。不定形に揺らめく影は、一度たりとも同じ形を保つことなく、まるで水面に移る月のように揺らめき続ける。
「“道化”がおっぱじめるみたいだぜ」
唸り声さえ聞こえそうなほど不機嫌な声が発せられる。それは静まり返っていた闇の空間を切り裂き、影たちにいくつかの反応を返させることに成功した。溜息をつくもの、傍観を決め込むもの、嬉しそうに手を叩くもの、焦ったように体を縮こまらせるもの――様々な反応が返ってくるなか、最初に発言した影が続けた。反応こそあったものの、だれも口を開かないので、続けざるを得なかったともいえる。
「……おい、いいのかよ。このままだとあいつ1人で終わっちまうぜ」
「獲物が減るのが心配ですかね?」
「僕は、別にいいけど……」
「“迷宮”殿は相変わらず臆病ですねぇ……」
「クハハハッ! そりゃ、“迷宮”は戦闘能力ないしなぁ!」
「“道化”の考えることってよくわかんないし、いつもなにかしら失敗するし放っておけば?」
「というか、ワタクシ。あの男と連動する予定だったのですけれど。まだこちらの準備が整っていないのですけれど」
一度口火が切られれば、堰を切ったように話し出す影たち。全員、誰かが話し始めるのを待っていただけで、独断専行した“道化”に言いたいことは山のようにあるのだ。
だが、別段咎められることではない。独断専行には違いないが――そもそも、彼らが協力して何かを為すということがほとんどないのだから。この中に、独断専行をしたことがない人物は1人たりともいないため、彼らの文句はただのやっかみ――すなわち、意味のない愚痴である。
「例の国を攻めたときも、1人で勝手におっぱじめたよな、あいつ……」
「まあ、それができる力があるのですから仕方ないですわね」
「然り然り。滅多に姿を見せないくせに、見せるときは必ず舞台を盛り上げる。あやつほど、“道化”の名前がふさわしいやつはおるまいて」
最初に声を上げた荒々しい女性の声が文句を言えば、貴婦人めいた艶のある声が慰め、厳つい老爺の声が“道化”をフォローする。
「ぼ、僕には真似できないです……」
「けっ、“迷宮”はよえーからなぁ」
「こらこら、同族をそう悪し様に言うものではありませんよ」
“迷宮”と呼ばれた弱弱しい少女の声が嘆き、若い男の声がそれを責め、優しげな青年の声がそれをたしなめるようにして煽る。
「……誰と誰が同族だってェ? おい、言ってみろ“教徒”」
「おお、怖い怖い。残念、貴方はたった今神に見放されました。神は貴方を救うことはないでしょう」
「救われたいとも思っちゃいねぇよ。ていうか、お前の崇める神って誰なんだよおい」
「神とは私です」
「お前かよ」
“教徒”と呼ばれた青年が真面目な声で答えれば、若い男は呆れたように言葉を漏らして引き下がった。あまりに話が通じないため、“教徒”は“道化”と並んで『話し合いをしたくない相手』に分類されている。若い青年を除く誰もが“教徒”と関わりたくないために黙っていたが、会話が終わったと見るや否や再び“道化”に対する文句が流れ始める。しばらく、なんの生産性もない愚痴が交わされた。
「……愚痴は終わったかの」
厳つい老爺の声が、彼らの声を静める。威厳をもって彼が場を静めると、今まで好き勝手に騒いでいた彼らも口を閉じ、次の言葉を待つ。影たちが息をひそめて次の言葉を待っていると、漆黒の空間に老爺の厳かな声が響いた。
「では解散」
老爺の声が漆黒の空間に響き、それが反響して消える。瞬間、息をひそめていた彼らが軽い調子で挨拶をして去っていく。
「ああ、じゃあなー」
「お疲れー」
「“迷宮”、お前このあとちょっと付き合えや」
「え、えー!? 僕がですかぁ……?」
「お前んとこのが一番後腐れなくストレス解消できんだよ」
「お、それ私も行っていいか?」
「おお、来い来い」
「え、僕まだなにも――」
「ああ?」
「イエ、ナンデモナイデス」
「じゃあ私も失礼するわねぇ……はー忙しい……小娘のアレ、厄介なのよねぇ……」
「毎回お疲れ様でーす」
「働くなんて私の柄じゃないのですけれど……」
次々と影が消えていき、漆黒の空間に静寂が戻り始める。彼らは別に何か相談事があって集まったわけではなく、これはただの雑談のようなものだった。そもそも彼らが足並みを揃えるということは不可能であり、それぞれが“道化”に対する不満を言う相手が欲しいだけだった。今回は“道化”だったが、この中の誰かが独断専行すれば、またそれ以外のメンバーが集まりぶつぶつと愚痴を漏らすことになるのだ。
まったくもって、生産性のない集まりであった。