第11話 白
休養中の『無音』のフリートへと、『予言者』ミリからの命令書が届いたのは、休養の期間に入って5日ほど経った頃だった。砦に出向いて直接話を聞けば、“埋め込みのレベッカ”ではなく『純白』と呼ばれるものの対処であるという。
もちろん、フリートは『純白』というものがなんであるかを知っている。
かつてアルディヤ国で流行した、薬物の名称である。ある花を乾燥させ、簡単な魔法を用いて生成される魔の薬物。燃やしながらその煙を吸引することで、多幸感・幻覚・精神高揚の効果を持つ、依存性の高い薬物。アルディヤ国では依存症に陥った人間が高額で『純白』を買い求め、国を別れての戦争にすら発展しかけた。
『純白』は、一時的にだが『祝福』の力を強化する、ということも流行に拍車をかけた。女神カロシルからの贈り物である『祝福』を強化するのであれば、それが悪いものであるはずがない――強化された『祝福』は、反動さえも強化され、廃人になる人間が後を絶たなかったというのに、人々はそうして『純白』の存在を正当化して、使い続けた。
事態を重く見た他国の人間がアルディヤ国に干渉し、徹底的に『純白』の根絶を図った。幸いだったのは、アルディヤ国周辺でしか原料となる花が採取できないため、周囲の国にはあまり広まっていなかったということ。だが、なかなか根絶できずに手こずっている間に勇者が魔王に負けて、“狼王”がアルディヤ国という存在を叩き潰した。図らずも、そのとき『純白』もアルディヤ国もろとも叩き潰されたはずだった。
アルディヤ国から追い出された人類は、もう『純白』を生成する手段はないはずだった。実際、ギベルの町ではこの1年間、『純白』の存在は確認されていなかった。
それが、今日になって復活した。しかも情報を聞くに、どうやってかこの町の内部で生産されているらしい。フリートは、『惨殺鬼』となってからもテッタ公国の暗殺者としてのパイプは生きていたため、アルディヤ国で起こった内乱騒ぎ、内政干渉の実態は、その暗殺者としての伝手で伝え聞いていた。
「……厄介、だな」
呟き、砦の屋上から町を見据える。砦の屋上からは町全体を一望することができるが、複雑に積み上げられた家々に視線を遮られ、細部までは見通すことができない。この町のどこかで今日も『純白』が生産され、誰かを蝕んでいる。
『――『純白』の存在は、一般には周知されていません。製法が非常に手軽なため、興味を持たれて広まるよりは情報を秘匿して、存在を忘却させたほうがいいという判断からです。ゆえに、この町で『純白』を使用している人間は、罪悪感や罪の意識が薄い可能性が高いです』
『予言者』ミリの声がフリートの脳内で自動的に再生される。フリートは情報を扱うテッタ公国の諜報部員だったから知っているが、一般人――そう、例えばリクルなどは『純白』の存在すら知らないだろう。
「興味を持って手を出されても困る。注意しておくか……」
眼下に広がる町の風景に背を向け、フリートは家に戻るべく足を進める。気配を殺して歩いているはずだが、通り過ぎる冒険者や兵士がフリートに敬礼をしてくるものだから、フリートは内心辟易とした。悪いニュースを打ち消すためとはいえ、英雄扱いは正直気疲れする。普段の生活にも気を遣う――とは言っても、身なりを気にするようになったくらいで、フリート自身に特に大きな変化はなかったが。
フリートは、実に3年ぶりになる情報収集任務を前に緊張していた。全身の怪我は完治し、活動に支障はないが――そもそも、暗殺者としての技能、経験は弱体化している。今のフリートは、『惨殺鬼』として戦うのも、『無音』として戦うのも難しい。今“貴婦人”と戦えば、おそらくすぐに殺されるだろう。それほどにフリートの力は弱体化していた。
「まあ、でも……やれるだけのことは、やりますか」
『無音』のフリート。大暴走から人類を救い、人知れず“貴婦人”という脅威を滅ぼした英雄が動き始めた。
† † † †
「まずいことに、なりましたな」
『無音』という男の生涯は、すでに吟遊詩人によって語り尽くされていた。テッタ公国を代表するかつての暗殺者――その仕事に疑問を持った彼は、その力を人類のために振るうことを決意する。『惨殺鬼』として魔人を葬り続けた彼だったが、やがて故郷は魔獣と魔人によって滅ぼされた。それでも人類のために力を振るい、真紅の獅子を倒して人類を救った英雄。
その噂は、彼らの耳にも届いていた。
「真の英雄とでもいうべき者……しかも、裏稼業に属していた者ともなれば、我らの足取りを辿るのも難しいことではないであろう」
「そもそも私たち、これが本業ではないわけですしね」
「あの女の存在も厄介ですね。尽く、私たちの先を読んでくる……」
闇に包まれた部屋で、三人の男女が話し合う。
そして、三人の意見は一致していた。
「引き上げ時じゃな」
「辞め時ですね」
「手を引くべきでしょうね」
そうと決まれば、彼らの行動は早かった。末端の人間を切り捨てる準備など、とっくの昔に終わっている。とある偶然から金を稼ぐチャンスだと始めた試みだったが――どうやら、英雄たちが集うこの終末の町では、悪だくみをするにはリスクが高すぎたようだった。これ以上のしがみつきは不要、とそうそうに見限る覚悟をする。
彼らの周囲を嗅ぎまわっている女も、さすがに証拠も何もなくてはどうしようもないだろう。それだけの地位と権力は持っているし、そもそも弾劾される理由もない。
「では、我々のうちで誰が告発しますか?」
「そうじゃな。もう少し時期を見て――」
誰にも知られない三人の密談は続く。散々悪事を働いてきたが、彼ら三人が悪事を行うときに大切だと思っているものはたった一つ。それは、逃げ時である。
人間は、巨大な悪に加担することを恐れる。彼らのような『根っからの悪人』ではない限り、やがて良心の疼きによって巨悪は崩壊する。多くの人間が悪を恐れ、善を良しとするためだ。
正義は必ず勝つのではなく――悪は、勝てないのだ。人間の良心や、見栄という存在に。
それを、1人1人が巨悪とも言うべき彼らはわきまえている。様々な国で悪事を働いてきた彼らは、逃げ時に非常に敏感だ。ゆえに死なずにこのギベルの町に潜り込み、やがてゆっくりと力を蓄えていった。密かに悪を為すために、確実に悪を遂げるために。
理由はない。強いて言うのであれば、存在が悪だから――無償で善なる者もいれば、無垢に悪である者もいる。他者の人生を踏みにじることをいとわず、同情や憐憫といった感情を置き去りにした人間が。
全人類の中から、純粋に抽出された悪の塊。騙し、欺き、踏み潰し、蹂躙し、嗤うでも泣くでもなく、ただ悠然と佇む者たち。
「では、『純白』の生産からは手を引くということで」
「ふむ。責任はほれ、あの親子に押し付ければよかろう」
「そうですね。ああ、あとうちの若いのにも押し付けましょう」
淡々と、他者の人生を決めていく三人組。悪意と非情な決断によって自己を守る彼らに、正義の手は届かない。誰にも気づかれずに、善なる者のフリをして悪を為していくだけだ。
だから、もし彼らに届く手があるとすれば――それは。
同じく、悪の者か――もしくは、善も悪も超越した者か。