第9話 取引
「やあ、来たね」
薄暗い石造りの部屋に、音が響く。2人分の息遣いと、地面を打ち鳴らす音だ。
「本当に、これでいいんですか?」
「ああ。問題ないよ」
暗がりでは、二人が何をしているのかまではわからないが――どうやら、少女が何かを手渡し、青年がお金を払ったらしい。何かが擦れる柔らかい音と、硬貨がぶつかる音が響いた。少女の手のひらに載っている硬貨が微かな光を反射して金色に光る。
「こんなに……」
「ああ、もう一人にもよろしくね。お父さん、だっけ?」
青年がからかうように言うと、少女が怒りの気配を滲ませる。しかし、何を言うこともなく背を向けて、扉を開けて出ていった。
「……どうして、僕がこんなことを……!」
誰もいなくなった部屋に、青年の怒りの声が漏れる。自分が犯した失敗の尻拭いとはいえ、こんな下っ端のようなことをさせられる理由にはならないはずだった。値切ってこい、というのであれば磨いた自分の腕も試せるが、商品価値を正しく理解してもいない小娘を相手に、買い取って来いなど。
誰でもできる仕事だ。あんな、商談相手にからかわれたくらいで怒りを露わにする少女相手の商談など。
「……しかし、貴重な存在だ。価値に気づかれないようにしなければ……」
青年は少女から受け取ったものを丁寧に隠すと、何食わぬ顔で部屋を出た。
† † † †
「……オーデルト様」
「どうしたんだい、シャルヴィリア?」
自分の前に立ち、乙女のように頬を赤らめる女性に、オーデルトは笑顔を貼りつけて対応した。世間知らずのこの女性を誑かすのは、そう難しいことではなかったが――それで自分の心が痛まなかったか、と聞かれると嘘になる。今は、ミリは席を離れている。どうやら、『純白』の足取りを躍起になって追いかけているようだ。
「……あの」
オーデルトは、はっきり言って『戦乙女』シャルヴィリアという存在が嫌いだ。
信仰の度合いによって強さが変わる『祝福』が、不確定要素が多すぎて嫌いだ。
ろくな人生経験を積んでこなかったせいで、少し優しくされたくらいで恋してしまう単純さが嫌いだ。
想い人を前にして口を開けず、うじうじと悩んで無駄に時間を消費させられるのが嫌いだ。
だが、その嫌悪も全て飲み込んで笑顔で相対している。それは、『戦乙女』シャルヴィリアという存在が、戦力的にも精神的にも人類の支柱であるからだ。
カロシル教の聖地、聖王国。最強の聖騎士『戦乙女』シャルヴィリア。かつて無双の力を振るったという剣技の達人、聖騎士トーマンと比較される、現時点での人類最強。
大地を割って川を作り出したとすら言われる伝説の聖騎士トーマンと、比較されること自体が名誉なことだ。トーマンは実在し、300年前に戦争を止めた古き英雄だ。死んだ理由は明かされていないが、存在そのものが伝説であるトーマンと、シャルヴィリアの試合予測まであるのだ。シャルヴィリアの人望、その戦力への希望がどれほどか。
笑顔の裏で、オーデルトは思考を巡らせる。
(人々はわかりやすい希望を求める……あのリクルという少女、『転写』で見た限りでは凄まじい『祝福』の強さだ。あれだけの黄金色の光を放つのであれば、戦う意思さえあればシャルヴィリアの代わりも務まるか……? だが、今はまだ無理、か)
勇者が倒れたとき、人々が求めた旗印は『戦乙女』シャルヴィリアだった。もとより一騎当千の強者、しかもカロシル教の聖騎士ともなれば、期待される理由など十分だ。だが、彼女に人々を率いる才能も、覚悟もなかった。
人類を守るために立ち上がったのは、ただの一国の将校であった『軍神』オーデルトで。シャルヴィリアは、その神輿として担がれたに過ぎない。だが、神輿として担ぎ上げた以上、勝手に下げるわけにはいかなかった。
「オーデルト様は……どうして、いつも辛そうなんですか?」
「――は?」
あまりにも予想外の質問に、オーデルトの意識が一気に思考の渦から引き上げられる。『軍神』オーデルトは、辛いと思ったことはない。自分が人類を守ると決めたその瞬間から、足手まといになる感情は全て封印したのだから。
辛苦。願望。悲哀。同情。共感。感動。そういったものを全て封印し、ただの『軍神』――人類を守る守護者として、自身を『そう在れ』と定めた。だからどんな非道な手段もとれるし、ただ生き延びることだけに全力を注ぐことができる。
「辛そう? 僕が? 気のせいだよ、シャルヴィリア」
滑稽極まりない。もともと、あまり他人の感情の機微に詳しい女ではなかったが、どうやら目も節穴らしい――と、オーデルトは内心思う。だが、オーデルトの返事を聞いたシャルヴィリアは、悲しそうに顔を伏せる。それが、無性にオーデルトを苛立たせた。
「なにか言いたいことがあるなら、早くしてくれないか」
「……きっと、その心を溶かすのは私じゃないんでしょう。私は、貴方の優しさに溺れることしかできないから……」
それだけ告げたシャルヴィリアは、踵を返して執務室を出ていく。輝く豪奢な金髪が、窓からの陽光を反射してきらめき、それはまるで絵画のような景色だった。
「……はっ。悲劇のヒロイン気取りか……!」
唇を噛みしめ、オーデルトは呻く。彼女が、彼女だけがオーデルトの悩みだった。
人類の希望を背負う『戦乙女』。決してないがしろにすることができない戦力。だというのに、不安定な精神性。その全てが、オーデルトの心の平穏を脅かす。
「……いや、いい。依存はしている。これから先、また心が折れることがあっても、戦えなくなるなんてことはないはずだ……」
この間の大暴走の時のことを考えれば、冷静に戦うことは無理そうだが――それでも、使い物にならなくなるよりましだ。動かなくなるのではなく、たとえ暴走状態でも動くのであれば使いようはある。
冷静にそう考え、オーデルトは心を落ち着かせた。人類の守護者であるミリとオーデルトに対し、シャルヴィリアの精神は脆い。戦力としては、最も人類の希望としてふさわしいというのに、彼女の両肩はあまりにも狭く――人類の命運、なんてものは背負えそうにない。
(……また、大暴走でも、来てくれないだろうか……)
ふと、オーデルトの内心を願ってはいけない願いが流れる。戦いこそがオーデルトの生きる意味であり、生きる理由だ。自分が人類の守護者になったのも、滅亡の間際までここで戦い抜けると思ったからだ。誰かのくだらないミスで殺されるなど納得がいかない。自分であれば、この最北端の大地に追い込まれた人類を、誰よりも有効活用できる――
「……『純白』は、どうなったんだろうな」
オーデルトは封印したはずの感情が漏れ出てきているのを認識し、意識を切り替えた。戦いこそが生きる意味とはいえ、戦いに勝つための準備は怠ってはならない。あらゆる戦いを想定して、準備をしていく必要があった。岩影丸の修復も進められている。
『建築家』チヨの言によれば、あと10日ほどで『祝福』の再利用が可能になるとのことだ。ただ、ゼロから建築物を生み出すほどの出力はなく、せいぜいが補修や維持程度の力に留まるらしい。多少動かしたり戻したりする程度であれば、何度かは使えるという報告を受けている。
「後は……そろそろ、『無音』を動かしてもいいか?」
独り言をつぶやき、資料を手元に寄せる。『無音』のフリート。かつて、情報収集・暗殺任務を国家ぐるみで行っていたテッタ公国の生き残り。『祝福』を使用した状態の彼は、『惨殺鬼』という別の呼び名も持つが――その『祝福』の内容を知ったのはごく最近だ。
そして、その内容を知った『軍神』は、彼にしばらくの休養を命じた。『再誕』と名付けられたらしいその『祝福』は目立ったデメリットもないかわりに、非常に扱いづらいものだった。あらゆる状況に対応する様子から、『剛腕』のように単純なものではないと予測はついていたが――
「まず本人次第の『祝福』、か……」
全盛期の『惨殺鬼』の力は、『戦乙女』に匹敵するレベルだった。“貴婦人”と互角に戦い、多くの魔獣を滅ぼした、力強い『惨殺鬼』の姿は、オーデルトの記憶に新しい。だからこそ、連続でその『祝福』を使えば徐々に弱体化していくというフリートの言葉を、オーデルトは信じた。
その説明は理にかなったものであったし、言われてみれば確かにその兆候はあったからだ。
“貴婦人”と戦った時でさえ、『惨殺鬼』の動きは少しずつ精彩が失われていっていた。使えば使うほど、弱くなっていく力。そもそも、並の人間では扱うことすらできない『祝福』。だが、時間をかければまた最盛期まで持っていける。オーデルトは、力を取り戻せ、という意味も込めてフリートに休養を命じたのだ。
今も、フリートは積み上げてきた自分の力を取り戻すための訓練を続けているだろう。
「『祝福』を抜きにしても、彼の暗殺者としての能力は……」
「それは、私も思っていました」
オーデルトは顔を上げた。執務室の扉を開けて入ってきたのは、黒に見間違えそうなほど深い藍色の髪を持つ少女。『予言者』ミリである。
「彼の経歴を見るに、暗殺者としてだけではなく、諜報員としての実力も兼ね備えているはずです。なりふり構っていられません、『無音』を動かします」
いつも通りに見えるが――わずかに、焦りの色が見え隠れしている。
「……芳しくないみたいだね、ミリ」
「ええ。全く――というわけでもないですが、進展はほぼありません。わかったことといえば、どうやら外部から持ち込まれたわけではないということ。つまり、このギベルの町のどこかに、『純白』があります」
大股で部屋を移動したミリは、素早くデスクの上にある書類に目を通していく。この都市のありとあらゆる情報が彼女に集められているのだ、その情報の記憶は彼女の日常業務。それをおろそかにするわけにはいかない。
そのうえで、『純白』と“埋め込みのレベッカ”の相手もしなくてはならない。隠す気もないのか、彼女の目の下には黒い隈が浮かび上がっていた。
「情報を募るわけにはいかないのかい?」
「“埋め込みのレベッカ”に関しては、赤毛であることは既に公表しています。『純白』は、情報を公開するわけにはいきません。存在を周知されれば、必ずそれを利用しようとする者が現れます。知らないうちに根絶するしかないのです」
「ああ、まあそうか……それで、『無音』はどちらに?」
ミリが悩んだのは一瞬だった。
「『純白』の調査に。レベッカは――住人には申し訳ないですが、しばらく放っておいても大丈夫でしょう。なんだかんだ、殺される人間はただの平民です……」
それが本心ではないことは、ミリの震える右手が示していた。正義感が強い彼女からすれば、“埋め込みのレベッカ”も『純白』も同じように許せない存在。だが、合理的に、論理的に考えて、より脅威度が高いのは『純白』だ。
その姿を見て、オーデルトはわずかに胸を痛めた。こんな少女が――人類の命運を背負っているというのは、どれだけの重圧なのだろう、と。
「すぐに依頼を出します。出した後は、『天眼』に町の捜索を命じます」
強い意思に輝くミリの瞳。決して退かない覚悟を決めた少女は、自分の手足になっている者たちに指示を出し始めた。