第8話 事情
これは、夢だ。
なぜなら、目の前にいる男は死んだはずで――否。自分が殺したはずの男だからだ。とは言っても、直接手を下したわけではない。婉曲に、遠まわしに、万が一にでも自分に疑いが向かないように操作して、死ぬように仕向けた。ただ死ぬよりも惨い苦痛を味わうことになっただろう。
じわじわと追い詰められ、男の精神が疲弊していくのがわかった。独り言が増え、物に当たることが多くなった。そのうち精神を病んで、自殺するか自暴自棄になって自爆するか……いずれにせよ、終わりは近かった。
彼女が、そこまで男を追い詰めたのだ。明確な悪意と殺意をもって、死を選ぶしかなくなるように追い詰めた。
彼女の力を使っても、それは簡単なことではなかった。疑われないようにふるまい、時には対価を差し出し、またある時は脅しつけ、またある時は同情を誘い、味方を増やし敵を従え、気づけば彼女はその力に頼り切っていた。すでに周囲に、彼女の敵はいなかった。
人間は醜い。それが、彼女の出した結論だった。
どいつもこいつも秘密を抱え、そこを突いてやれば怯えたように少女に忠誠を誓った。弱みがない人間も、少女が誘えば簡単に、罪の世界に堕ちた。一度堕ちてしまえば、少女から逃げる術はない。そうして味方を増やした少女は、復讐を果たし――何もかもを失った。
どこまでも圧倒的な“力”は、少女が支配していた世界をいとも簡単に打ち壊した。いや、もとより敵とすら認識されていないだろう。嵐のような暴力は、少女のことなど気にすることなく、築き上げた世界を滅茶苦茶にしていった。
“狼王”という名前がついている暴力の化身は、みっともなく命乞いをする人間を殺し、抵抗する人間を殺し、命からがら逃げようとする人間を殺し、国を滅ぼした。
あの日、少女は知ったのだ。自分がどこまでも脇役に過ぎないということを。そして、憎んだ。少女のような脇役の人生を滅茶苦茶にして――復讐というささやかな勝利すら奪っていく“主役たち”の存在を。
だから――今日も悪意を隠して嗤う。
本来そうなるはずだった明るい性格と天真爛漫な笑顔の皮をかぶり、醜悪な悪意と憎悪をひた隠す。
人間は醜い――他ならぬ、自分自身ですら。けれどもう、自分から何かを奪うことは認めない、自分自身が圧倒的な力で、奪う側に回るのだ。
まずは1人、心に傷を抱えた男から。その人生を奪うとしよう――。
目の前で苦しそうに呻く父親の背中を踏みつけ、少女は醜悪に嗤う。
「……きはっ」
歪んだ笑みを浮かべる少女は、自分の片目が涙を流していることにも気づかない。
† † † †
「ここか」
パトと合流を果たしたスウェーティは、朝からテンションの高い少女に辟易としながらも、現場に到着した。調査費用として預かった貨幣で、小腹を満たしながら。
「第2の殺人の被害者は、このあたりに住むご家族だったそうです。子供はいない夫婦でしたが、二人とも壁に頭を埋め込まれた状態で発見――」
「被害者の特徴は?」
一応、頭を使っているフリをすることにしたスウェーティは、投げやりな気分がばれないようにパトに声をかける。
「お二人ともアルディヤ国の出身みたいですが、これは珍しいことではありませんね。ほかの被害者は違う国の出身みたいですし。あ、『祝福』持ちだったみたいです。奥さんの方が『祝福』持ちだったけど、詳しい能力は不明」
スウェーティは目の前にある家を見上げた。塀は打ち壊され、瓦礫は既に撤去されている。不自然に壁が途切れていることから、そこが殺害現場であったことがわかった。昨日訪れた場所よりも、ひっそりと目立たない場所にあった。スウェーティは途切れている塀の淵をなぞり、空を見上げる。狭い通路になっているこの場所は、どうやら普段は日の光が差し込まないらしい。
「――『祝福』、か」
スウェーティは呟き、今度は視線を地面に落とす。日の光が差し込まない証拠として、茶色と緑色の入り混じった苔が地面に生えている。それを蹴飛ばして削り取ったスウェーティは、吐きそうになった重い溜息を飲み込んだ。
『祝福』。女神カロシルからの贈り物、人類が持つ特殊な力。
スウェーティのように、使いこなせていないものは少ない。『こんな力は要らなかった』――そう思っている『祝福』持ちは、多くはないだろう。ましてや、『祝福』を一種の『呪い』のように捉えている人間など。
「……ここには何もなさそうですね」
「ああ。こんな奥まった場所じゃ、そもそも目撃者もいなそうだしな」
誰かが見ていないと力を発揮できない『転写』を持つパトは、残念そうに呟いた。『転写』と『天眼』を除けば、ここにいる二人は並の人間である。散々調べ尽くしただろう現場をいくら調べても新しい情報が出てくるとは思えなかった。
(俺の『天眼』が、過去でも見れるならともかくな――)
「……っ」
ドクン、とスウェーティの両目が熱を放つ。一瞬だけ脳裏をよぎったその光景は、赤毛の女が壁の中に消えていく風景で――
「どうかしましたか、スウェーティさん?」
「……なんでもない。今日は、もう一つの場所を見て終わりにしよう」
「はい、わかりました!」
まさか――本当に?
スウェーティはもう一度、試すように『過去の光景』を望むが、その一瞬以外、『天眼』は沈黙するのみだった。
「……」
使いこなせていない。この、『天眼』という『祝福』を。だが、スウェーティはことさら『天眼』を使いこなそうとは思えなかった。これ以上強力になられても、自分の仕事や役割が増えるだけ。現状、必要以上の力を手に入れているのだ。
「行きますよー?」
「ああ、今行く」
とはいえ、もしも過去を見ることができるのであれば、試しておくに越したことはない。今日の夜砦に戻ったら、実験をしてみる決意をしてスウェーティはパトに続いて歩き始めた。
「3件目の被害者は、ならず者のリーダーだったそうです。スラム街の――」
「そこはパスだ、パト。俺たち二人では危険すぎる。近日中に護衛が決まるらしいから、先に4件目に行こう」
「了解です。とはいっても、4件目もスラム街なので、5件目に行きますね。5件目は広場の近くにある小道で起きました。この1件で、一気に“埋め込みのレベッカ”の噂が広がっています。目撃者が多かったんですね」
「どれ」
パトが読み上げている資料を受け取り、スウェーティはゆっくりとその内容に目を通していく。広場は英雄たちの石像が建っている、この町の人気スポットだ。この町の外から訪ねてくる人間などはいないが、住人たちの憩いの場所として屋台があるし、大道芸人もいる。最近では、夕方になると吟遊詩人が歌を唄っているらしい。ギベルの町で、最も多くの人が集まる場所と言ってもいいだろう。
「そんなところでやれば、そりゃ見られるだろうよ……」
「なんかちょっと違和感ありますね」
立ち止まって資料を読むスウェーティの後ろから顔を出し、資料を覗き込んでいたパトが言う。
「違和感?」
「はい。何か、こう……うっかり、みたいな? あえて、のような?」
「……気のせいだろ? なにせあの『予言者』から逃げ切っている犯罪者だ。並大抵の相手じゃないだろうよ」
パトが首を傾げているが、スウェーティは少し考えてすぐに思考を放棄した。もとよりあまり考え事は得意ではないし、真面目にやる気もないのだ。リスクは避け、適当にやるに越したことはない。
「俺らの思いつきで、意図が読めるような奴じゃないだろ」
「んーまあ、そうなんですけど」
ハネた桃色の髪を指先でくるくると弄りながら、パトが何かが腑に落ちないという表情で考える。スウェーティには全く感じ取れなかった違和感なので、彼女が言葉にするのを待つ。
「なんというか、うまく言えないんですけど……方針の違いというか……目立つか、目立たないか……の境目?」
「……」
はらり、と資料を1枚めくったスウェーティは6件目の事件を読み込む。今度は、とある有名風俗店の女性が被害に遭っていた。仕事帰りの朝に襲われ、周囲の人が見る中壁に埋め込まれたそうだ。この事件も目撃者が多い。
さらにもう1枚めくり、7件目の事件。狙われたのはこの町の中にいくつか店を構えている有力商人。店を視察に訪れているところを客のふりをした赤毛の女につかまり、そのまま壁に埋め込まれている。この事件も――目撃者が、多い。
「……だんだん、大胆になってきているのか?」
「そう! それです! なんか、目立つようになってませんか? だから噂が広がるのも早かったんですよ。それに、出没する期間がだんだん短くなってます。前は5日後とかだったのに、最近はほぼ1日おきに現れてます」
(調子に乗っているのか? 誰も、自分を捕まえることはできないと……)
その可能性は大いにあり得る。『透過』という『祝福』――詳細は不明だが、壁を通り抜けることができる『祝福』。それは複雑怪奇な発展を遂げたこのギベルの町という場所において、追跡を振り切るには最適なものだ。1つ向こう側の通路に行くのに、上から向かわなければならないということすらあり得るこの町で、障害物を無視できるというのは逃走に向き過ぎている。
「確かに。だんだん手口が大胆に……」
「はい。まるで――誰かに何かを訴えているかのような……」
自信なさげに呟くパトに、スウェーティは眉をひそめた。さすがに論理の飛躍のような気がするが、確かにそれは考えていなかった。
なんのために殺すのか?
すなわち、“埋め込みのレベッカ”が殺人を行う動機である。被害者に共通点は見当たらず、また恨みなどを買っていた様子もない。少なくとも、調べた限りでは、だが。
その『祝福』の能力が凶悪過ぎるため、物理的に追いかけることはほぼ不可能に近い。であれば、精神的に行先を予測していくしかないわけだが、殺人の動機がわからなければ被害者の予測を定めることができない。
「……でも、待てよ。もしも――」
スウェーティの脳内に、ひとつの仮説が成り立つ。
もしも、目立つことも目的なのだとしたら――ある程度、事件が起きる場所を絞れるかもしれない。まず、スラムでの殺人はいくら特異な殺し方をしていても、話題になり得ない。少なくとも、平和な街中で起きるよりは流されるだろう。噂を広めたい、目立ちたいのであれば、広場や酒場など、人が集まる場所を狙うはずである。
「だとすれば……」
スラム街を除外できるのであれば、その範囲はぐっと狭まる。赤毛の女は、決して珍しいわけではないが、そこまで一般的な髪色というわけでもない。少なくとも、印象に残りやすい色であることは間違いない。
目撃者が多ければ、その分パトの『転写』で足取りを追いかけることができる。
「……そうだな。だが、深追いは危険だ」
「え?」
ぽかんとスウェーティを見上げるパトに、スウェーティは言葉を選びながら諭す。
「今の俺たちは戦闘能力がない。少なくとも、誰か護衛がつくまではレベッカ本人を追いかけるのはリスクが高い。俺たちが受けた依頼は、『レベッカの寝床・拠点を見つけ出すこと』だ。無理にリスクを払う必要はない」
スウェーティは、こんなところで死ぬつもりはなかった。しかも、壁に頭を埋め込まれて窒息死するなんて、死に方としては最悪である。
「ちっ。あのお子ちゃまはなんでこっちにまともな人員を回さねぇんだ?」
スウェーティが毒づき、パトは何かを言いかけて口を閉ざす。
(『純白』……もし、あれがこの町に出回っているとしたら……? ううん、間違いない。『純白』は既に……だったら、ミリ様がそっちを優先するのも当然、か)
2つの事件が、ギベルの町を静かに襲っていた。1つは大々的に、もう一つは密やかに、人類に牙を剥いていく。誰が止めるのか、果たして止められるのか。それは、誰にもわからない。