第4話 アルディヤ国
「やれやれ、ようやく見つけたぞ」
石畳を叩く、硬質な音が響いた。初老の男性は、目の前に立つ美女を眺めて溜息をつく。ここ数日彼女に追い回されていることに気づいてはいたが――まさか、自分が見つかるとは思っていなかった。
「『魔女』ベネルフィ……第二遊撃隊の隊長ともあろうお方が、こんな老いぼれになんの御用かな?」
「用件は確認だが、こうも逃げ回るとは思わなかったぞ……」
白い煙を吐き出す男性に対し、ベネルフィは鋭い視線を向けた。いくらベネルフィが天才で、『予言者』ミリの力を借りて捜索したとはいえ――目の前の老人を見つけ出すのは並大抵のことではなかった。
「賢者クイル。勇者の仲間……あらゆる真実を見通す『識眼』を持つ魔法使い。お前には、確認したいことがある」
「賢者、か。今となっては過ぎた言葉だがね」
ほとんど睨みつけるような視線を放つベネルフィに対し、賢者クイルは飄々と肩を竦めた。先日の大暴走の際に、【千影の怪鳥】を討伐した二人組の片割れ――宝玉の嵌まった杖を持つ初老の賢者。彼は無精ひげを撫でつけながら、『魔女』ベネルフィに問いかける。
「して、確認したいこととは?」
その問いにベネルフィは口を開いた。幸い、周囲に人影はなく、盗み聞きされる心配はない。あるいは、そうなるようにこの賢者クイルに誘導されていたのかもしれない。
「魔王の正体について、だ」
やけに乾いた風が吹いた。風がベネルフィの髪を揺らし、クイルが吐き出した煙を散らす。煙で隠れていたクイルの顔が露わになった。その表情は、ベネルフィが想定していたもののひとつだ。
あきらめと、自暴自棄。
「知ってどうする? とは聞かんよ。そもそも、私のもとにその質問をしに来る時点で、予想とはいえ――確信しているのだろう?」
「だから、言っただろう。確認だと」
かつて勇者とともに魔王に挑んだ老兵は、疲労に彩られた顔を伏せて、煙草の火をもみ消した。そこにいたのは、飄々とした歴戦の賢者ではなく――夢破れ、希望を折られた一人の老人だった。
「想像通りだ、『魔女』ベネルフィ。魔王の正体を、私は確かに“視”た。そして彼が人類を襲う理由を知り、逃げ出した」
淡々と、当時あったことを語るクイル。ベネルフィは静かにその言葉に耳を傾けた。
「あの時ほど神を呪ったことはない。あの時ほど世界の理不尽に憤ったことはない。だが、ごく最近希望を見つけたのだ」
「……」
「その少女の名前を言うことはできない。私は――私とアインは、もうこの戦いからは降りたのだ。もう二度と戦うことはない」
「……」
「すまない、『魔女』ベネルフィ。私たちにもう一度同じ希望を夢見ろ、というのは無理な相談だ。力を貸すことはできない。リリーティアも……彼女は、逃げているだけだ」
賢者クイルは、淡々と言葉を紡ぐ。押し殺した感情も、忘れようとしている不自然さも感じられない。ベネルフィは無言のうちに悟る――彼は、もうだめなのだと。そしてそれは、『増幅』の『祝福』を持つ魔法使いアインにしても同じことなのだと。かつて、たった5人で人類の希望を背負っていた勇者たちは、すでに戦う気力が残っていないのだと。
勇者と騎士は死に、聖女は聖域に籠り、賢者と魔法使いの心は折れていた。
しかし、『魔女』ベネルフィはそんなことを聞きにきたわけではない。
「なにもお前たちを戦場に引っ張り出そうとしているわけではない。私は本当に確認しに来ただけなんだ……魔王の正体は――」
『魔女』ベネルフィは、その先を告げるかどうか悩むように一度口を閉ざしたが、結局は言葉にして訊ねた。そして、クイルは彼女の予想に頷きで返し、二人は別れた。
たった一分にも満たない短い邂逅だった。だがそれだけで二人は多くのことを知った。
賢者クイルは、もう二度と表舞台に立たないということを。新たな世代が芽吹き、先に進み始めているということを。
『魔女』ベネルフィは、自分の予想が正しかったことを。そして、勝利の鍵は――まだ揃っていない、ということを。
2人の道は分かたれ、それ以降二度と交わることはなかった。
「魔王の正体はわかった。そして、正体がわかれば、その目的もおおよそ察しがつくものだが……本当に、私の予想が正しいとすれば……」
常識に囚われず、否、常識さえも疑ってかかる『魔女』ベネルフィだからこそ思いつく、柔軟な発想と論理的推論によって導き出される仮説。その仮説が描き出すであろう未来を見据え、ベネルフィは重い溜息を吐いた。
† † † †
「シラリエの花……ねぇ」
偶然か、必然か。シラリエという植物が群生しているという地域に、スウェーティは聞き覚えがあった。商売と賭博の国、アルディヤ国――大陸の中央に位置し、交易と賭博によって成り立った、『軍隊なき大国』である。アルディヤ国は、かつて悪名を馳せた国であり、同時に希望も謳っていた。一攫千金を夢見て、多くの人間が吸い込まれて破滅していった、『金でなんでも買える国』である。かの国では、法律や常識といったものは通用しない。とはいえ、法がないわけではない。
かの国では金こそが法であった。
人権も、自由も、寿命も、時間も、権力も、金で買える国。人間のありとあらゆる欲望が集う国――それが、アルディヤ国であった。
もっとも、『魔獣や魔人からの安全』だけは、金では買えなかったようだが。圧倒的な暴力の前に、金貨や銀貨は役に立たなかった。約束された終末を前に、金は無力だった。
そんなアルディヤ国の周囲に咲き誇っていたのが、純白の花――シラリエの花である。
「私、ちょっとだけアルディヤ国にいたことがあって。それで、知ってたんです」
聞いてもいないのに話し始めたパトの言葉に、スウェーティは内心面倒に思いながらしたり顔で頷く。市場まではもう少し距離があり、すでに行く気力すら尽き始めていたスウェーティは、気が紛れれば、とパトの話に耳を傾けた。
「と言っても、ほんの数日なんですけどね。シラリエの花は、あの国のなかで唯一人間の欲望に塗れていない――とってもきれいな花畑でした。まさか、ここでまた見れるなんて……」
不思議な縁に感心するかのように、パトは優しくシラリエの花を撫でた。微かに浮かんだ少女の微笑から、スウェーティは慌てて目を逸らした。まるで、底知れない何かの底を覗き込んでしまったかのような悪寒が背筋を走ったからだ。
(なんだ、今の感じは……?)
スウェーティは目をこすりパトを見るが、シラリエの花を見つめていた時のような怪しい雰囲気は鳴りを潜めていた。
「あ、そろそろですね、スウェーティさん!」
再び見たときには、パトはすでに明るく快活に笑う少女に戻っていた。内心首を傾げるが、もとより彼女に興味があるわけでもなく、対人関係が得意でない自分ではなにもわからない、と諦めてスウェーティは返事を返した。
「ああ、そうだな。市場はやかましいな……」
そろそろ夕刻になろう、という時間帯だった。つい先ほどまでは昼休みの時間だったが、ダラダラと歩いていると不思議と時間は早く過ぎるものだ。市場は帰宅途中の人間が買い物に立ち寄る影響で、ごった返していた。スウェーティのそばを歩くパトが、道行く人の肩にぶつかって跳ね飛ばされる。
「あっ、ごめんなさい!」
「こっちこそごめんねぇ! 気を付けるんだよ!」
恰幅のいい男性が、朗らかに笑いながら後ろへと抜けていく。
(ちっ、お前が気をつけろ間抜けが……)
心の中だけで毒づきながら、スウェーティは倒れたパトに手を差し出す。パトは数秒迷ったが、結局手を差し出してスウェーティの右手を握って立ち上がる。スウェーティは年若い少女の柔らかい感触に動揺してしまった自分を恥じるように、心中で舌打ちをする。
(くそ、落ち着け。ほとんど娘みたいな歳の少女だろうが……)
まあ娘を作るような相手はいなかったわけだが、と思ったスウェーティは皮肉気に笑った。嫌われ者である自分と、子供を作ってくれるような相手はいない。それはこれから先もそうであるだろうし、それが当然だ。
「大丈夫か、パト?」
自分の声に込められた薄っぺらい同情の感情に、スウェーティは内心で溜息を吐く。全く同情なんてしていない――だというのに、さも同情しているように振る舞う自分が嫌いで嫌いで仕方がない。『断罪』のトローのように自分は自分だ、と開き直れるほどの強さが欲しかった。自分に自信を持って、他者と向き合いたかった。
しかしそれは叶わない願いだ。彼は『天眼』の入れ物、『覗き屋』としての人生を歩んできたのだから。
「ありがとうございます、スウェーティさん」
年下の女の子が転んだら、普通は手を差し出すだろう――そんな虚栄心と下心と打算によって差し伸べられた右手を握って立ち上がったパトは、純真な笑顔でスウェーティに礼を言う。その純真さが、汚れきったスウェーティにとっては眩しく――ひどく、苛立たせるのだ。
「気にするな」
そんな、スウェーティの歪み切った感情に気づいているのかいないのか。パトは数回服を叩いて埃を払うと、にっこりと笑ってスウェーティに手を差し出した。
「手、繋ぎましょ? スウェーティさん!」
「……あ、ああ」
今度はパトの方から差し出された右手に、スウェーティの右手が重なる。はぐれないように手を繋いだ二人は、周囲からどのように見られているのだろうか。歳の離れた兄妹、は少し無理があるだろう。スウェーティが凄まじい老け顔で、パトがとんでもなく童顔だということならあり得るかもしれないが……二人の実年齢は20以上も離れているのだ。どう見ても、親子がやっとだろう。
顔色の悪い無精ひげの父親と、明るく天真爛漫に振る舞う娘。
にっこりと笑う少女に、気まずそうに目を逸らす男。二人は離ればなれにならないように手を握りしめて、人波に負けないように移動を開始した。