第7話 異常事態
見渡す限りの荒野。少し前までは左右に森が広がっていたのが、防衛の見通しの悪さは致命的ということで焼き払われた。魔獣相手に身動きしづらく、『軍神』オーデルトが状況把握がやりにくくなるというのはそれほど致命的なのだ。当時は埋め尽くすように広がっていた灰色の景色も風に吹き散らされ、今は黄土色の荒れた世界だ。
俗に、危険地帯と呼ばれる魔獣の領域。そこに安全というものは存在せず、いつどこで魔獣と出会ってもおかしくない。セルデやフリートなど、実力があるものなら探索も可能だが、一般人が暮らすことは不可能。
「よし、行くか」
「了解」
二人は声をかけあって歩き出す。その動きに気負いはなく、ごく自然な足運びだった。地を埋め尽くさんとばかりに迫る大暴走に比べれば、今の荒野は無人に等しい。とはいえ、一体の魔獣に発見され、長い間交戦しているとほかの魔獣を集めてしまう。いくらセルデとフリートといえど、複数の魔獣を相手取ることはできない。
「確認するぞ。基本的に戦闘は避ける、どうしても戦闘が回避できない場合は速やかに殺して離脱。素材はなし」
「了解」
魔獣の素材には無駄がない。爪や牙は加工すれば良質な武具になるし、ほかの部位は魔力を含んでいるため、魔法士たちが使う触媒になる。戦い続ける人類にとって、武器や触媒はあればあるだけ助かるものだ。だが、解体や運ぶための荷造りの最中に魔獣に発見されては元も子もない。特に今回は、たった二人で探索しているのだ。念には念を入れる方がいい。
「んで、フリート。なんで遊撃隊に入ったんだ? お前の稼ぎなら、別に大暴走の時に出稼ぎしてればいいだろう」
「あー……話さなきゃダメか?」
周囲を警戒しながらも、セルデはフリートに話しかける。偵察任務は日の出から昼まで行われる。適度に警戒を緩めつつ、ただ違和感には気づけるように注意深く。たわいもない雑談で緊張と集中をほぐすのは、冒険者にとっては必須のスキルと言っていい。
「できれば、な」
「そうたいした話じゃないんだが……」
目線は合わさずに、言葉だけを交わす。見渡す限りの荒野といえど、大小さまざまな岩や石が散乱している。その影から魔獣が飛び出てくる――なんてことも、普通にあり得るのだ。
「スラムで襲われてる女の子がいてな……」
「ほう」
「で、助けたら、成り行きで病気の母親の面倒も見ることになって」
「ほうほう」
「定期的な収入が必要になったんだ」
「ふーむ」
経緯を三行で説明したフリートに、セルデが頷く。
「お人よしだな」
「……まあ、自覚はしてるが……」
「だが、俺はそういうヤツは嫌いじゃない。むしろ好きだ――正直胡散臭いヤツだと思ってたが、なんだ、お前意外といいヤツじゃないか」
「……シャルヴィリアを止めてくれるか?」
「それは無理だな」
『戦乙女』シャルヴィリアの思い込みの激しさを知っているセルデは、あっさりと諦めた。フリートが以外といいヤツだったということを知ったからといって、自ら死地に飛び込む予定はない。
「ところで、セルデ」
「お前も気づいていたか、フリート」
「ああ、よかった。これでセルデが気づいてなかったらどうしようかと思った」
「そんなヤツはもう死んでるさ」
「「――挟まれてるな」」
見渡す限りの荒野に、今のところセルデとフリート以外の生物の姿は見えない。だが、二人はその二つの呼吸音を確かに捉えていた。慎重に聞こえないように、今まで潜めていたのだろう。
「【地に潜む大蛇】が二匹か……」
「連携か? それぞれか?」
「一匹ずつだ。右は俺がやる――」
決して柔らかいとは言えない大地を抉り、二人の左右から二匹の大蛇が飛び出してきた。【地に潜む大蛇】は大地に潜り、通りがかった獲物を補足して丸のみにする魔獣だ。その長さはおおよそ6~9メル程度と言われており、人間一人程度なら軽々と飲み込む。頭から鋭く伸びたスコップ状の骨で、地面を掘り砕いて進み、獲物が通るのを待ち望んでいた。油断していると、先制攻撃で一人か二人は犠牲になってしまう危険な魔獣だが――
「ッシャァァッ!!」
「奇襲の時に鳴くのってバカだよな」
――今回は相手が悪かった。もっと大人数での行動なら、足音や話し声に紛れて【地に潜む大蛇】の呼吸音に気づかれることもなかっただろう。だが足音が鳴らないように歩いているフリートはもとより、冒険者の勘とも言うべき察知能力を備えているセルデにとっては、居場所を教えてもらっているようなものだった。
飛びかかって来た褐色の蛇の噛みつきを、フリートは避ける。セルデはあろうことか、7メルにも及ぶ【地に潜む大蛇】の噛みつきを、素手で受け止めた。
いや、セルデが魔獣皮製のグローブを嵌めていることを考えれば素手ではないのだろう。だが、武器もなく【地に潜む大蛇】の飛びかかりを受け止めるなど、まともな人間の筋力ではない。まともではないのなら、それは何らかの技能か――『祝福』の力だ。
「オラァ!」
上下に分かれた【地に潜む大蛇】の口を両手で抑え込み、セルデは続いて頭を地面に叩き付ける。地面でバウンドした【地に潜む大蛇】の体が跳ねた。
そして【地に潜む大蛇】が反撃しようと体を持ち上げる前に、セルデの拳が振り下ろされ、一撃で【地に潜む大蛇】の頭を粉砕した。
「ふぅ――」
【地に潜む大蛇】は硬い。その表面は鱗で覆われており、生半可な刃物は通じない。それこそ【神剣クーヴァ】やら【聖剣アナシスタシア】なら切り裂けるのだろうが、そんな名剣を一冒険者に過ぎないフリートが持っているとは考えづらい。
なので、セルデは速攻で蹴りをつけ、まだ戦っているであろうフリートの助けに向かう予定だったのだが――
「あ、終わった?」
セルデが見たのは、一突きで殺されている【地に潜む大蛇】の姿と、剣の血を拭うフリートの姿だった。
「これは……早いな。口の中を突いたのか?」
「ああ。大口開けて飛びかかって来たからな」
フリートは【地に潜む大蛇】の飛びかかりを避けた。避け様に右手に握っていた剣を素早く突き入れて、そのまま脳まで剣を押し込んだのだ。口で言うのは簡単だが、それを実際にやってのけるほどの技術を身に着けるのに、いったいどれだけの修練を積む必要があるのか。
過去13回の大暴走に参加して、いずれも無傷で帰還したという冒険者。
『無音』のフリート。
「……じゃあ、移動するぞ」
「おう」
その強さの一端をまざまざと見せつけられたセルデは、頼もしさを覚えながらその場を後にした。やがて、血の匂いを嗅ぎつけた【群れる死肉漁り】という四足歩行の小型の肉食獣が現れ、【地に潜む大蛇】の死体をむさぼり始めた。【群れる死肉漁り】は徐々にその数を増やし、【地に潜む大蛇】の死体はやがて30匹ほどの【群れる死肉漁り】に喰い尽くされた。
フリートの技術は、とても一朝一夕で身につくものではない。それは血の滲むような研鑽と努力、そして天性の才能を基にして築き上げられた、形のない財産だ。与えられる『祝福』ではなく、フリート自身が信念を持って作り上げた努力の結晶。ただ、それを周囲の人間に知られてしまうと、事情を話さなければいけなくなるため、フリートからそのような話をすることはない。そのあとは、とりとめのない話――どこそこの店の女がいいとか、どこの飯がうまいとか、そのような男二人だからこそできる気兼ねのない会話――を広げながら、二人は荒野を歩いていた。
異常が起こったのは、太陽が徐々に昇り、そろそろ砦に戻るかと二人が話し始めたときだった。
「……フリート、お前、目はいいか?」
「人並み程度には」
先に発見したのはフリートではなくセルデだった。それは熟練の冒険者だけが持つ、勘のようなものの成果なのかもしれない。遥か彼方にかすむ景色に違和感を覚えたセルデによって、それ――それらは、発見された。
「あっちの地平線……なんか動いてねぇか?」
「言われてみれば、だが……確かに、なんか動いているように見えるな」
フリートもセルデに習って目を凝らすと、確かに地平線に動く影が確認できる。今までそれに気づかなかったのは、地平線をじっくりと注視するような余裕がなかったことと、その影が動く範囲が――あまりにも広いためだ。
「……仮に、だフリート」
「……おう」
「あの動いている範囲の影が、全部魔獣だとしたら――」
「数千頭クラス、だろうな」
「……だよな」
あり得ない。そう断じることは簡単だった。魔獣、と一言で呼称されているものの、その内情はいくつもの種族に枝分かれしている。蛇であったり、鳥であったり、獣であったり、虫であったり。そんな種族も食物の好みも違う魔獣たちが、何千頭と一緒に行動することなどあり得ない。
大暴走でさえ、その魔獣の数はおよそ百頭から二百頭。千頭を超えるレベルの大暴走など、前例がない。
「ちなみに、セルデ。前回ここに来たのは?」
「……一月ほど前だな」
「なるほど……」
どちらにせよ、異常事態だった。だが、『地平線に蠢く影が大量に見えた』からといって、即座に危機につなげることができる人間がどれほどいるのか。セルデとフリートの二人では弱いし、なにより二人もしっかりとあの蠢く影の全容を掴めたわけではないのだ。ならば、確認するしかない。
「ここで逃げれば、初動が遅れるかもしれん。偵察をしに行こう……」
「それなら、セルデはここで待っててくれ」
フリートは当然、という顔でセルデに言う。その言葉を聞いたセルデは面食らったように言葉を止めた。
「もし仮に、あれが魔獣の群れで、偵察に行った俺たちが死んだ場合。砦はあれに備えることができない。なら、どっちか一人でも残ったほうがいい」
「それは、その通りだ。だが、それなら俺が行く。お前が残れ」
セルデの言葉に、フリートは静かに首を横に振った。
「それはだめだ。理由は2つある」
「……言ってみろ」
「まず1つ目。これは簡単なことだ、セルデより俺の方が偵察に向いてる。なんたって『無音』のフリートだからな」
指を1本立てておどけたように自分の二つ名を口にするフリート。セルデもそれなりに偵察をこなす自信はあるが、確かに『剛腕』のセルデと『無音』のフリートで、どちらの方が偵察に向いているかと言えば、それは『無音』のフリートである。
「そして、2つ目。もしセルデが帰ってこなかった場合――果たして、砦の奴らは俺の言うことを信じてくれるだろうか?」
セルデは唸る。フリートに言われるまで気づかなかったが、確かに。何度も一緒に戦っているので、最終的には信じてくれると思うが、砦全体がフリートの言葉を信じるようになるまで時間がかかるのは間違いない。それでは本末転倒だ。ならばこそ、いざというときに信用されているセルデだけがせめて異常事態のことを報告できるようにすべきだ――というフリートの提案は、理に叶っていた。
理屈がある以上、感情では否定したくても、セルデが否やを唱えることはできない。冒険者として、遊撃隊の一部隊を預かる身として、セルデはフリートの言葉が正しいと認めた。認めたからには、彼が言えることはそう多くはない。
「……気をつけろよ、フリート」
「ま、見てくるだけだ。見てくるだけだが……もし、太陽が頂点に上っても帰ってこないようなら、砦に戻ってくれ」
フリートは素早くセルデに背を向けると、遠くに動く影に向かって静かに走り出した。