第14話 その瞳に映る世界
砦における英雄たちが、つかの間の平穏に思い思いで羽を伸ばしている頃。一人の男は、ある悩みを抱えていた。
「……鬱陶しい」
呟いてはみたが、声のトーンからそれが本心でないことを感じ取り、男は苛立たし気に舌打ちした。
「チッ。本当、嫌になるぜ……」
その男の名前はスウェーティ。『天眼』という『祝福』を持つ、40手前のおっさんである。懐から葉巻を取り出してくわえ、火をつける。煙を吸い込んだところまではよかったが、喉に殺到する煙にむせて、葉巻を吐き出した。
「だーっ、くそ!」
火を消し、放り捨てる。ストレス解消にいいと聞いて買ってみたが、不必要な苛立ちが募っただけだった。普段からぶつぶつと文句を言っているのが、『天眼』スウェーティの特徴でもあるが、ここ数日の彼の様子は特に顕著だった。
原因はわかっている。『転写』という『祝福』を持つ少女、パトのせいである。あの少女はいったいどこから嗅ぎつけてくるのか、ことあるごとにスウェーティの前に現れて付き纏ってくるのだ。だが、苛ついている理由は、それが全てというわけではない。
スウェーティは、スウェーティを『予言者』直属の凄腕諜報部員だと思い込んでいるパトに対し、『天眼』であることを明かしもせずに要らない見栄を張り続ける自分に嫌気が差していた。『天眼』であることを明かさないのは別にいいのだが、相手の勘違いをわざと加速させるような嘘を吐き、その尊敬のまなざしを心地よいと思っている自分が嫌いだった。
決まって、終わったあとは自己嫌悪に陥るくせに――いざ会ってしまえば、いつもと同じように嘘を吐き、そしてパトの純真な視線に傷つくのだ。やめようと思っても、やめられなかった。
「……くそっ」
スウェーティは、自分がクズであることを知っている。戦いから逃げ、自分さえ良ければそれでいいような人間だ。『天眼』という強力な力を手に入れて、その力を制御もできずに垂れ流す。こんな力がなければ――と何度思ったかわからない。だが、この力がなければ、スウェーティはとっくの昔に殺されていただろう。
スウェーティが生きている理由は単純だった。『天眼』が強力だから――スウェーティではなく、『天眼』の入れ物として生かされているに過ぎない。周囲から生かされている人生に飽き飽きしながらも、自殺するような勇気はない。いや、むしろ――生かされているからこそ、生に対する執着は強かった。
「……入れ」
ノックの音が聞こえたスウェーティは、短く答えた。いつものように扉が開き、見慣れた顔の女が入ってくる。
いい身分だな、と自嘲するように笑う。この『天眼』という力を縛り付けるために、『軍神』オーデルトはとてもわかりやすい条件を提示した。それは、砦からの自由な外出を禁じるかわりに、要望を出せばその要望を可能な限り通すというものだ。女も、酒も、買いたい放題だが――代わりに、自由も人権もない。
「今日は、どうするの?」
「……いつも通りだよ」
高い金が必要な、高級娼婦も買った。それ一本で金貨が飛ぶような高い酒も買った。しかし、スウェーティはそのどちらも虚しいとしか思えなかった。酒を飲み終わって、酔いから醒めたときに残るのは、どうしようもない孤独だ。誰もこの酒を一緒に飲んではくれなかった。
高級娼婦の時は、もっとひどかった。彼女は、確かに丁寧にスウェーティの相手をしてくれたし、洗練された娼婦とは思えない所作は見ていて飽きなかった。
だが、そのオーラがダメだった。内側から溢れる、『成功者』のオーラだ。いわゆる、人生の『勝ち組』のオーラである。彼女のそのオーラを知覚した瞬間、スウェーティの胸中にはどす黒い嫉妬の念が溢れかえり――慌てて、その高級娼婦を追い返した。そのままでいれば、自分が何を仕出かすかわからなかった。そして、追い返したあとに、自己嫌悪に陥った。
「相変わらずだめだめだねぇ、あんた」
「……うるせぇ」
こちらの様子を一目見た女は、溜息をつくと落ちていた葉巻を拾い上げる。そしてそれに火を点け、大きく吸い込み、吐き出す。その様子が妙に様になっていて、スウェーティは苛立ちの感情を顔に出した。自分ができなかったことを簡単にやってみせた――その程度のことで苛立つ自分が、嫌いで仕方ない。
「ふー……で、どうすんの? なんか、今日はそんな気分じゃなさそうだけど?」
「商売女が、いちいち余計なことを言うんじゃねぇ」
ああ、まただ。
溢れた感情が言葉に乗って、人を不必要に傷つけ、自分への嫌悪を募らせていく。嫉妬、妬み、嫉み、やっかみ、それらが裏返しになって、強い言葉で相手を傷つける。常に自分が優位でいないと気が済まない精神性、スウェーティは――吐き出しそうになった溜息を隠す。
――ほら、見栄っ張りだ。反省してることすら、気に病んでることすら気づかれたくないのさ。
「荒れてるねぇ……ま、いつものことか。気が向いたら言っとくれ」
この女を呼ぶようになったのは、いつごろからだろうか。名前も知らないが、彼女は自分のことをどうでもいい相手と思っているのが感じられた。興味もなければ、悪意も善意もない。
自分の性格を治そうとしてくれた善人は、スウェーティの罵倒に心を痛めて離れた。
自分を相手に見下してくる悪人は、スウェーティによって秘密を暴かれて自滅した。
結局、自分に人付き合いなど不可能なのだ――スウェーティが、その結論を出したのは、およそ十年ほど前か。よく付き合ってくれた幼馴染の友人に離縁を言い渡されてから、スウェーティはさらに加速して歪んでいった。もとよりスウェーティがひねくれた性格をしていたこともあり、その暴走を止められる人間はいなかった。
その点、この女はお互いに無関心だった。もし彼女が、スウェーティのことを見下していた目をしていれば、スウェーティは二度と呼ばなかっただろう。自分が劣っているのはわかっているが、見下されるのは我慢ならない。
「……ほっとけ」
「あーそうするそうする」
どうでもよさそうに返事をした女は、葉巻を吸って煙を吐き出す。自分をないがしろにするその態度に若干イラつくが、それは見下された時の苛立ちや、変にすり寄られたりしたときの虚しさほどのものではなかった。飲み込んで、ベッドに倒れる。スウェーティは今、何も考えたくないし、何もしたくない気持ちだった。
結局、うたたねを始めたスウェーティを置いて、女は去った。これでは、なんのために呼ばれたのかわからない――とは、思わなかった。
(あの男のことは何も知らないけど、他人に何もされないことが救いになる人ってのは、いるのよね……)
まあどうでもいいけど、と呟いた彼女は、流れでくすねてしまった葉巻の火を、壁に擦りつけることで消した。火が消えた葉巻をそっと袋にしまい、持ち帰る。
「さあて、帰って寝るか……ん?」
彼女は前を歩いてくる少女に目を止めた。外にだらしなくハネた薄桃色の頭髪に、大きめの瞳は蜂蜜色――明るい黄色に輝いている。きょろきょろと周囲を見回す様子は、慣れない場所に連れてこられた小動物のようだ。彼女が道を譲ってやると、慌てたように頭を下げ、またきょろきょろと周囲を見回しながら通り過ぎた。
砦の中でも奥の方にあるこの場所では、大体の人間が顔見知りだ。スウェーティのように訳ありの人間も多いが、初顔――特に、このような少女がいることは珍しい。とはいえ、関係のないことだ、と彼女は少女の存在を無視する。
「えぇと……スウェーティさんの部屋は……」
「ちょっと待った。お嬢さん、スウェーティのとこへ行こうとしてるのかい?」
無視したのだが、さすがにその呟きを聞いてしまっては反応しないわけにはいかなかった。
「おねーさん、スウェーティさんを知ってるんですか!?」
「おねー……い、いや、名前と部屋の位置くらいは知ってるだけさ」
彼女は少女に声をかけてから、『予言者』直々にスウェーティのことは他言無用と言われていたことを思い出した。なので、慌てて誤魔化したが、少女は花が咲くように笑った。
「あ、そうなんですね! 私、スウェーティさんにお会いしたいんですけど、色々聞いたら『予言者』様が場所を教えてくださって! でも、こっちの方までは来た事ないから迷ってたんです! この先ですか?」
「ああ、『予言者』様が。こっちの通路をまっすぐ行って、3番目の扉がスウェーティの部屋だよ。でも、ついさっき寝たから行っても意味ないかもね」
笑顔を見せていた少女の表情が曇る。彼女はその様子を見て、「あのクソ男、なに幼気な少女ひっかけてんだボケ」と脳内で口汚くスウェーティを罵った。スウェーティがクソ野郎であること自体はなんの問題もないが、何も知らない少女を犠牲にするのならば話は別だ。彼女自身、あの男に会うのは苦でもなんでもないが、できればこの少女のような純真無垢な存在はあの男に触れるべきではないと思う。
「……そうですか、寝ちゃったんですか。じゃあ、また今度にします。ありがとうございます、おねーさん!」
「ああ、気を付けて帰りな」
「ありがとうございます!」
くるりと、反転した少女は、彼女の脇をすり抜けて通路を歩いていく。すれ違う時に、軽く右手が掠めるように彼女の手に触れ――
瞬間、脳内を埋め尽くす怪物の映像。迫りくる牙が生えた口、殺意が迸る瞳、足元から迫る爪――その映像は、一般人である彼女には刺激が強すぎて、彼女は悲鳴をあげることもなく気を失った。
「……くすっ」
悪意に濡れた笑い声が通路に響き、気を失った彼女は砦の通路に倒れた。その様子を見ることなく、少女――『転写』のパトは、軽やかにその場を後にする。
「おねーさん、嘘はよくないよ」
部屋と名前くらいしか知らないのに、なぜ先ほど眠りについたことを知っているのか? そんな些細な違和感を見逃さず、虚偽を見抜いたパトの観察眼は凄まじいが――嘘をつかれたというだけで、この対応は異常だ。
右手からわずかに黄金色の光を漏らすパトは、まるで今何もなかったかのように気軽に歩き出す。
「スウェーティさんは寝ちゃったのかぁ、まあ仕方ないよね。もう夜だし。色々隠されてるみたいだけど、なんでだろうなぁ。やっぱり特別な人なのかなぁ。気になるなぁ」
誰もいない通路を歩きながら呟いたパトは、暗がりに姿を消した。
ある青年は少女の態度に悩み、ある男は死んだ戦友を想い涙を流し、少女は自らの欲望のために暗躍する。
回り始めた歯車たちは、いったいなにを――動かそうとしているのだろうか。