第11話 平穏の裏
「フリートさんの顔が見れません!」
リクルの声量を抑えた悲鳴を聞いたテテリは、無言で顔を上げた。そして再び、野菜の皮むきに戻る。
「お、お母さん! 無視しないで! 私を助けて!」
「あーはいはい。わかったわかった。可愛い可愛い」
「そんな適当に流さないで! 真剣な相談なの!」
長い昏睡から目覚めたテテリは、目覚めた当初こそ不明瞭な意識や筋肉の衰弱があったが、逆に咳血病はほとんど完治していた。安静に寝ていたことが治療の方向に向かったのは、不幸中の幸いだった。娘であるリクルが魔人と戦い、怪我をしたことを伝えられたときは大いに取り乱したが、実際に娘に会ってみれば口から飛び出てくるのはフリートとの惚気話ばかり。
「恋する乙女は強し、っていうのかね……」
「お母さん、そんな遠い目をして溜息つかないで! 傷つくから!」
涙目でこちらに迫ってくる娘を見て、テテリはもう一度溜息をついた。魔人を相手に戦い、勝利したとはとても思えない。思えば、小さいころから逆境には強い娘だったが――色恋沙汰は、とんと疎かったような気がする。
「で、今日は何喋るの? フリートさんがいかに可愛いかは昨日聞いたし、どれくらいかっこいいかは一昨日聞いたし、どのくらい優しいかは三日前に聞いたけど」
「お母さんやっぱり最初聞いてなかったね! 私、フリートさんの顔を直視できないんだけど!」
「ふーん」
「反応薄ーい!」
包丁をまな板に叩き付ける娘に若干恐怖を覚えつつ、テテリは昨日のことを思い出した。長い療養生活から帰ってきたフリートは、ピリピリした空気が薄れ、丸くなったようだった。それを気が抜けてるというべきか、成長したというべきかは、テテリにはわからない。だが、この家での生活が少し過ごしやすくなったのは確かだった。
「昨日フリートさんが戻ってきたときに気づいたんだけど……私、その……フリートさんに『祝福』のこと、教えちゃったし? 夢の中で、キキキ、キス、しちゃったし? 昔の話も、聞いちゃったし? もうこれは恋人なのでは……?」
テテリはくねくねと奇妙な踊りを披露し始めたリクルから、無言で包丁を奪い取った。持ったままうろつかれては危険でしょうがない。
「デートの約束もしちゃったし! ねえお母さん、今日何着て行けばいいと思う!?」
「服」
「それはそうなんだけど!!」
テテリの適当な返事に、リクルの表情が怒りに染まる。だがすぐにだらしなく表情は崩れ、締まりのない笑顔を振りまき始める。テテリが渡した包丁でまな板を叩くが、先ほどから一回たりとも野菜には当たっていない。
テテリは顔の周囲に黄色やピンクの花びらを振り撒き始めた娘を見て、大きく深い溜息をついた。恋愛は惚れたほうが負け、とはよく言うが、ここまで惨敗している女性を見たことはなかった。
「えへ、えへへ。どんな服買ってもらおうかなぁ? お母さん、私どんな服が似合う?」
「女性服」
「そういうのじゃなくて!」
鬱陶しそうに相手をするテテリにめげることなく、リクルは浮かれた様子で話しかけ続けた。そう、今日は約束していたデートの日なのだ。“貴婦人”と戦っていた状況で、リクルが少しでも緊張を和らげようと叩いた軽口だったが、フリートはしっかりと覚えていた。
「おはようございます、テテリさん」
「あら、フリートさん。おはようございます」
起きてきたフリートが台所に姿を現すが、いまだトリップ状態のリクルはそれに気づかない。二人は無言でリクルの表情が次々と変わっていく様子を眺め、フリートは諦めて居間に退散した。セラほどではないが、フリートも料理はあまり得意ではない。二人に任せた方が得策だった。
「ほら、フリートさんも起きてきたからちゃちゃっと仕上げるわよ」
「えっ。いつの間に?」
「ついさっきよ。ほら、喋ってないで手を動かす!」
「は、はい!」
刻んだ野菜を鍋に放り込んで煮込み、買ってきたパンを木箱から取り出す。それをリクルに渡して切るように告げたあと、テテリは手早く朝食の準備を整えていった。そのドタバタと響く音を聞きながら、フリートは苦笑する。どうやら、二人はもう平穏な生活に順応していっているらしい。
『ちょっと、フリート。平和ボケしすぎじゃない?』
「まあ、たまには休まないとな……でも、俺の中にいるお前ならわかるだろ」
『……ええ。ほんと、救いようがないわね……』
平穏な生活を享受しようにも、心の奥底ではその平和を否定する自分がいる。戦いに、絶望に、常に備えろと叫ぶもう一人の自分がいる。それはネメリアではなく、幸せを感じることなく過ごしてきたフリートという男の、いわば呪いだ。
幸福を受け入れることができない。
人としては、欠けているのにもほどがある。その深すぎる呪いは、きっと生涯フリートを苦しめるのだろう。悪い想像が次から次へと頭に浮かび、幸せを否定する。
「やれやれ……我ながら、なんて面倒くさい奴なんだ」
『それに関しては全く同感ね』
フリートはネメリアからの言葉に肩を竦めると、不意に気配を感じて部屋の隅を眺めた。会話することはできないが、相も変わらず家精霊は仕事をしてくれているようだ。家がリクルの『祝福』で吹き飛んだと聞いたときは、さすがの精霊もいなくなったかと思ったが――再建されると、再び家精霊は現れ、家の掃除をしてくれるようになった。
「いつもありがとな、家精霊」
返事はないが、こちらの言葉は理解できるらしい。部屋の隅に集まった埃が舞い上がり、慌てたように外へと運ばれていった。その様子を眺めながら、フリートは今日リクルとどんなところに行くか、頭の中で予定を立て始めるのだった。
† † † †
「……ベネルフィか」
「ああ。調子はどうだい? とは言っても、私に言われても納得がいかないか」
「……ふん。戦友を失ったとはいえ、それはお前のせいではない。冒険者であれば、死は常に覚悟しているもの。あのウェデスが納得して死んでいったのなら、俺がお前を責めることは、ウェデスの意思を否定することになる」
「……頭の中では、そうわかっている。というだけの話だろう?」
ベネルフィの指摘に、『剛腕』セルデは目を見開いた。
「驚いたな。他人の感情に配慮するなんて、傲岸不遜な『魔女』様らしくもない。理屈があれば、納得すると思ったが」
「まあ、旅の途中で色々あってね。私もちょっと、考え方が変わったのさ」
「……そうか。答えは是、だよ。ああ、今にもお前を殴り殺してやりたい気持ちさ。なんでウェデスを選んだ、と。あいつは俺の親友だ。ともに死線を潜った回数も、十や二十では効かない。一緒に行ったのがお前じゃなければ、きっと『烈脚』のウェデスは生き延びて帰ってきたはずだ」
「……私も、そう思うよ」
「なあ、散々聞いたが、あといくつか聞かせてくれ。あいつは、お前に惚れてたのか? だから、命を賭けたのか?」
『剛腕』セルデは、すがるように『魔女』ベネルフィに問いかけた。なぜ、『烈脚』のウェデスが死ななければならなかったのか。その理由はセルデにはわからない。わからないが、だからこそ訊かなければならないこともある。そして、その問いに対してベネルフィは静かに首を横に振った。
「……いいや。『烈脚』のウェデスが、私に惚れていたということはない。彼はただ、純粋に、少年だったのさ。かつて見た英雄の背中に憧れ、その背中に追いつきたいと思った。その英雄の背中とは、『剛腕』。君のことだよ」
「……そうか。相変わらずだったんだな、あいつは。変なところで頑固なんだからよぉ……あいつが俺と旅してた時の口癖、知ってるか?」
「……いいや」
セルデは、両目からあふれ出る涙を拭おうともせずに、言葉を綴る。
「『いざって時は俺が先に犠牲になりますから、セルデさんは逃げてくださいよ!』って、ずうっと言ってたんだ。今思えば、あいつは……あの時すでに、英雄を目指していたのかもな……」
「……すまなかった、セルデ。私がウェデスを連れて行かなければ、こんなことにはならなかった」
「……」
「けれど、これだけは言わせてほしい。私はウェデスを連れて行って、後悔はしていない。あの“狼王”と戦い、私を生き延びさせることができたのは、『烈脚』のウェデスがいたからだ。『剛腕』でも、『戦乙女』でも、『軍神』でも、『断罪』でも、あの場で“狼王”を足止めすることは不可能だった。ただ1人、『烈脚』のウェデスだけが、勝利の可能性を持っていた」
セルデが握りしめていた拳がほどけた。鼻をすすりながら、セルデがベネルフィを睨む。
「……当たり前だぜ。これで、連れて行かなければよかった、なんてぬかしやがったら、お前の頭を握りつぶすところだった。ウェデスの最期を見届けたお前が、ウェデスの最期を否定するな。ウェデスの人生を否定するな」
「ああ。私は死ぬまで、彼の人生を背負って生きていく。安心したまえ。必ず、私の総力を持って『烈脚』ウェデスの名前を人類史に刻んでやるとも。あいつが恥ずかしがって、『もうやめてくれ!』と言ってもだ」
ベネルフィの力強い宣言とまなざしを見たセルデは、ゆっくりと頷いた。長年の戦友の死が与えた精神的なダメージは大きいが、ひとまず、『魔女』ベネルフィへの心の整理はついた。
「ここからは業務連絡だ。亡くなった『断罪』に代わって、私が第二遊撃隊の隊長を務めることになった。とは言っても、私はこの砦から動かないからお飾りのようなものだが」
「……本当に変わったな、『魔女』」
「ふん。貴様ら凡人に任せていては、人類が滅びるのも早まるというものだ。私の戦争に関する知識は、『軍神』ほどではないがそれなりにある。何か困ったことがあったら声をかけるんだぞ」
「ああ、頼りにさせてもらう」
『魔女』ベネルフィは、照れくささを隠すように早口でまくしたてると、セルデに背を向けた。そのまま歩いて扉まで行くと、そのまま部屋を出て行こうとする。そんなベネルフィに、セルデは疑問を投げかけた。
「ベネルフィ。さっき、ウェデスが私に惚れているということはない、と言ったな。なら聞くが――逆はどうだ?」
「……」
凍り付いたように動きを止める『魔女』。沈黙が数秒、部屋を支配して、ようやく動き始めた彼女の口は、酷く重たげだった。
「……さあ、な。それは私にもよくわからないが……仮にそうだとしたら、あまりにも、気づくのが遅すぎたな」
「……そうか」
『魔女』の返しに、『剛腕』が頷き、二人の会話はそこで終わりとなった。ベネルフィは部屋を出て扉を閉め、廊下に出る。
「……よくわからないが……私がこれから先の人生で、伴侶を持つことは――きっと、ないだろうな」
呟き、ベネルフィは自分の研究室に向けて歩き始めた。あの神殿を調べて知ったことは、推論も交えて『軍神』オーデルトに伝えてある。その仮説を聞いたときの彼の顔はなかなか見ものだったが――さすがは人類の守護者というべきか、すぐに立ち直ってベネルフィに緘口令を敷いた。その判断は的確で、ベネルフィとしても大っぴらに喧伝するつもりもなかったので、その命令を受け入れた。
彼女は真実が知りたいだけで、富や名声が欲しいわけではないのだから。
「『元の世界に戻る』という望みと希望は断たれたが――なぜだろうな。ひどく、清々しい気分だ。やるべきこともあるし、その目標は大きい」
人類を救う――『烈脚』ウェデスの名前を、英雄として人類史に残すために。今は、人類が魔王に勝つ必要がある。あの神殿に刻まれていた文字の内容は、表面的に見れば絶望だった。そして読み解くとわずかな希望が見え、その奥に更なる絶望がある。
「全ての終末……か。いったい、だれがどこまで真実を知っているんだ……?」
ベネルフィは振り返る。延々と続く砦の廊下の奥、闇に包まれた部分から、誰かに見られているような気がした。
「……魔王の正体か。賢者にでも、会いに行ってみるか……」
すっかり癖になってしまった独り言をつぶやき、ベネルフィは研究室に戻っていった。