第9話 真実
苔むした石床を踏みしめる。壊れて使い物にならなくなった扉を開き、ベネルフィは神殿内部へと足を踏み入れた。カビと埃の入り混じった匂いがベネルフィの鼻を突く。普段であれば、風の魔法を使用して自分の周囲の環境くらいは整えるのだが、あいにく先ほどの魔法行使で魔力は空っぽだ。徐々に回復してきているのは感じるが、このペースでは本調子になるまで数時間はかかるだろう。
「……」
静かに自分の口と鼻を手で覆い、神殿内部を進んでいく。壁に掲げられたたいまつらしき存在は既に機能しておらず、崩れた天井から差し込む光だけが中を照らしていた。
(これは……)
石を積み上げられて作り上げられた壁に対し、そびえ立つ石の柱は違った。まるで岩塊から柱の形にくりぬいたかのように、表面が整えられている。これは、人の手によるものではない――今の時代でさえ、この世界にこれほどの石材加工の技術は存在しない。
「キナ臭くなってきたな……」
まずなによりこの神殿が讃えているのは、女神カロシルでも女神ベレシスでもない。遥か古代の神殿であることは朽ち具合から間違いないが、一体何を讃えた神殿だったのか。自然か、はたまた精霊か。いずれにせよ、貴重な遺跡であることに違いはなかった。
埃っぽい通路を進んでいくと、暗闇の先に広がった空間が現れた。
大広間だ。
「ここに、なにがあるんだ……?」
聖王国が聖騎士まで配置して、隠し通そうとした神殿。そこに、何もないわけがない。少なくとも、聖王国のトップ――教皇は、この場所のことを知っていた可能性がある。その上で聖騎士を配置していたとするなら、ここは聖王国にとって知られては困る情報があるということだ。
きっとそれは、女神に関係することなのだろう。
「さて、何がある……?」
大広間に到着したベネルフィは、わずかに回復した魔力を使って光を生み出した。静まり返った大広間が照らし出され、その全貌をさらけ出す。
大広間の天井は高く、気が遠くなりそうなほど高い位置に天井があった。さすがにそこまでは照らし出すことができないが、ベネルフィの興味を引いたのはどこまでも高い天井ではなかった。
周囲を見渡せば、中央の祭壇を囲むように椅子が配置されている。その椅子は、外から持ち込まれたものではなく、石の地面が盛り上がって作られている、いわば石の台座だった。
「なん……だ、これは……」
そして、その無数の椅子たちの中央にあるのは、ひときわ高い位置にある祭壇。すでに何者かによって持ち去られたのか――その祭壇の上には、何もなかった。
上から置かれたのではなく、地面から生えている椅子。それを一体誰がどうやって作ったのか、それはベネルフィにはわからない。ただ一つわかるのは、この空間が異様だということだ。
綺麗すぎるのだ。
「こんな保存状態がいい遺跡があってたまるか……外の様子から考えれば、人類の歴史よりもさらに古い遺跡だぞ……!?」
外にあった石柱は苔が生え、蔦に巻かれ、劣化していた。いつ倒れてもおかしくないほどに。だが、この大広間は、まるで作り上げられたばかりかのように――
ベネルフィは、積もった埃を払って床を撫でる。冷たい石材の感触――だがそれ以上に不気味なのは、その表面がツルツルとしていて、傷ひとつないことだ。ベネルフィは念のため持ってきていたはぎ取り用のナイフを取り出すと、石床に振り下ろす。遺跡を傷つけるのは気が引けたが、確かめなければならない。
「つぅっ……!」
石と金属がぶつかりあう硬質な音が響き、ベネルフィの手からナイフが弾き飛ばされる。ナイフは確かに床に直撃した――だが、床には傷ひとつない。再生したのでも、護ったわけでもない。
まるで変化を拒絶するかのように、石床はそうであることが普通かのように、ただそこに在った。
「防御でも再生でもない。なんだ、この遺跡は……?」
ベネルフィは、異界に迷い込んだかのような違和感に、背筋を震わせた。ここまで保存状態がいい理由は、この遺跡そのものが『変化を拒絶する空間』だからか。
「ならば……あの祭壇の上にはなにが……?」
中央に大きくそびえ立つ祭壇。周囲の石の椅子に比べて、その祭壇は手が込んでおり、職人たちによる技巧の粋が施されている。だが、掲げるべき象徴は失われていた。
「偶像崇拝が、禁止されていたのか……?」
もしもこの遺跡の『変化を拒絶する空間』が、持ち出しに対しても有効なのだとしたら――もとより、あの祭壇には何も掲げられていなかったことになる。
「これ以上はわからないな……何か資料のようなものがあればいいんだが……」
ベネルフィは空の祭壇から目を離し、大広間の壁を見る。その祭壇を見続けていると、何か巨大なものに飲み込まれていきそうな気がしたのだ。魔法の光を移動させ、大広間の壁を映し出す。
「……これは……!」
そこには大量の文字が刻まれていた。
「アビエル古代文字か! これなら、解読できるぞ……!」
ようやく、真実へと近づく手がかりを得たベネルフィは、その文字に駆け寄った。歴史書に残っている人類史よりも前の時代に使われていたという古代文字だ。いったい誰が、どういう目的で使われていたかまでは明らかにされていないが、各地の遺跡で見つかる文字群である。
「なんだ、えらく仰々しい表現だな……えーと……」
各地で見つかるアビエル古代文字の多くが、簡潔な意思疎通のために使われていたものだ。だがベネルフィが見つけたこの文字たちは、普段使われないような表現を使われていたため、解読には時間が必要だった。ベネルフィはわからない表現は諦め、単語を拾って文字を解読していく。
「……神……えーと、これは大地か? 大地に在りし、大いなる神、くらいの意味か。神話時代の話か……光が来たりて、大地を……奪う? 照らす? 影が生まれ、神は対になり……対照の、概念? 顕現した? が生まれた……?」
静寂が支配する大広間に、ベネルフィの呟きが静かに木霊する。ベネルフィはその文字を読み進めるにつれて、自分の顔から血の気が引いていくのを感じていた。
「簒奪者……は、この大地を……そして、終末が訪れる。やがてこの世界は――」
――滅びるだろう。
「は、はは……なるほど。そういうことか……」
確証はない。確証はないが――ベネルフィの明晰な頭脳は、最も可能性の高い推論を生み出していた。なるほど、そういうことなら、この神殿が『変化を拒絶する』のも納得がいく。この神殿の存在を、聖王国が必死になって隠すわけだ。
『変化を拒絶する』この神殿は、どうあがいても壊すことができなかったのだろう。こんな文献を見つければ、カロシル教の人間ならば必ず破壊しようとする。こんなものが残っていれば、カロシル教もベレシス教も、根本的な部分から崩壊を免れない。それどころか、魔王の誕生を待たずして、人類が自滅する運命すらあり得た。
隠蔽することを選択した聖王国は正しかったと言わざるを得ない。こんな事実が知られれば、混沌と恐慌を引き起こしていたことは間違いない。
「そうか……もとより、私たちに正義なんてものは……」
ベネルフィは呟き、文字に背を向けた。
「ウェデス君。君の命を犠牲にしてたどり着いたこの場所で、私は救いを得た」
ベネルフィは埃を散らしながら大広間を出ると、そのまま薄暗い通路を通って神殿を出た。
「私がなぜこの世界に来たのかも、予想はついた。私は偶然、巻き込まれただけだったのだな。時間軸がズレることも、まああり得る話だ。そして、もしこの予想が正しいのなら――」
その先を言葉にすることに、一瞬躊躇い。その迷いを断ち切るように言葉に乗せる。
「私に帰る手段はない。どう足掻いても、元の世界に戻ることはできないだろう」
一度目が奇跡だったのだ。二度目はあり得ない。だが、ベネルフィは不思議と後悔はしていなかった。それはウェデスという人間に触れたからでもあるし、もとより彼女は知ることが目的だった。帰れないなら帰れないで、この世界に骨を埋める覚悟を決めただけだ。
「あーあ、しかし――この世界に骨を埋めるとなると……所帯でも持った方がいいのかな? どう思う、ウェデスくん?」
森のざわめきに耳を傾けるが、答えが返ってくるはずもない。死者は蘇らない――それは、どの世界でも変わらない法則らしい。
「さて、ギベル砦まで一人旅か。なんというか、とても寂しいものだな。道連れが欲しいところだ」
彼女の独り言は止まらない。その言葉に、返事をする者がいなくても、ベネルフィは言葉をしゃべり続ける。そうしなければ、返ってくる静寂に押しつぶされそうだった。
「ああ、アンデッドとして蘇るっていうのはどうだい? さすがに不謹慎すぎるかな。君はきっと怒るだろうね……」
遺体すら黒点に飲み込まれた以上、アンデッドとして復活することすらできない。聖王国にはアンデッドが溢れかえっているというが、カロシル教の聖地が“闇騎士”と“詩人”によって落とされてから、アンデッドが蔓延る不浄の地と化した。
「“闇騎士”と“詩人”、あとは“道化”、“教徒”あたりが厄介な相手かなぁ。とはいえ、不死である魔王を殺す手段がなければ、魔獣の増殖は止まらないけど……」
原理はわかった。多くの人間が、魔王が魔獣を生み出していると思い込んでいるが、実態はそうではない。魔王という存在が持つ膨大な魔力が――魔獣を活性化させているのだ。
そもそも、魔獣とは。魔人とは。魔王とは、なんなのか。
かつてフリートに投げかけたその問いの答えを、ベネルフィは見つけ出した。
「不死の魔王、か。一体君は、いつごろから生き続けているんだろうね……」
遥か彼方を見据えるベネルフィ。保有魔力は、時が経つにつれて増大していくという特性と合わせて考えれば――魔王が持つ膨大な魔力量の理由も、納得がいく。
奴は、不死であるがゆえに魔王なのだ。
魔王が不死なのではなく、不死であるから魔王になったのだ。
「この真実の重みに、人類は耐えられるのかな……いやまあ、無理だろうとは思うけど。これは公表するわけにはいかないだろうな……『軍神』ぐらいには話しておくか……」
キッカを通じてオーデルトに話すと、内容もキッカに筒抜けになる。そもそもここは砦から遠すぎて範囲外だ。この報告は、『軍神』オーデルトに直接するしかないだろう。そして――
「君の死も、伝えなきゃいけないなぁ、ウェデス君。セルデと、あと誰かな……ああ、セルデに聞くか……今から気が重いけど……」
自分のせいで死んでしまった人間のことを思い出すのは辛い。だが、彼と約束した以上はその死に方を――いや。『烈脚』ウェデスという男の生き様を、伝えていかなければならない。
「さて。ギベル砦までは、私の脚で歩いておおよそ12日ほどかな。行きはウェデスくんの脚で短縮できたが、帰りはそういうわけにもいかない。行くとしようか」
踏み出した足の裏に、確かな大地の感触を感じながら、ベネルフィは歩き始めた。