第7話 魔女
「っ、これは……!?」
“狼王”が驚いたように自分の体を見下ろす。爆発はダメージにもなっていないが、右足が動かない。見れば、三重に巻き付いた鎖が彼女の動きを封じていた。静止状態から力を込めようにも、さすがに三重に拘束されては打ち壊すことは不可能だ。
「――拘束ッ!!」
足元の鎖を打ち砕こうと右手を振り上げた瞬間、地面から発生した鎖の群れが右腕に巻き付き、動きを止める。
「爆裂」
動きが完全に静止した瞬間を狙って放たれる爆発。一発一発は大したことがないが、何発――いや、何十発も当たれば、さすがの“狼王”は無傷では済まない。
「君に逃走も、抵抗も、反撃も許さない――私の領域の中ではね。拘束」
赤光に満たされた空間で、“狼王”はその場を動けない。地面から生え続ける鎖が、何重にも巻き付き、必ず彼女の動き出しを封じる。
「右足で踏み出す――拘束」
右足に鎖が巻き付く。
「左足を下げる。拘束」
左足に鎖が巻き付く。
“狼王”の全ての動きを先読みし、ベネルフィは魔法を起動させ続ける。鎖が伸び、爆発が起き、その全てが“狼王”の体に炸裂する。その光景を、地面に倒れたウェデスは呆然と見つめていた。
「これが……『魔女』ベネルフィの本来の戦い方……」
この空間――領域はベネルフィの魔力に満たされている。その中でのあらゆる行動は、ベネルフィによって監視され、筋肉の動き、微細な視線の移動、呼吸のリズム、何から何までベネルフィには手に取るようにわかる。加えて、今までの戦闘の様子から、彼女には“狼王”がどんな動きをするつもりなのかが全て先読みできる。
「当てて見せよう、君は右腕を振り下ろす」
振り下ろした右腕から、投げナイフが放たれるが――ベネルフィはそれを首を傾けるだけで回避した。速度、向き、投げる角度がわかっていれば――たとえ動きが速過ぎて見えなくても、どこに飛んでくるのかくらいは予想ができる。
「拘束」
振り下ろした右腕にも鎖が巻き付く。1回、2回、3回、だめ押しに4回。地面に向けて固定された右腕は、その強力な拘束力に、上に持ち上げることすら不可能になる。
「当てよう。君は隠し持っている投げナイフを、左腕で取ろうとする」
「っ……!」
腰の付近に近づいていく左腕を、動き始める前から微妙な筋肉の収斂で分析して予測する。その予測は決して裏切らない。“狼王”が動き始めようとした時には、すでにベネルフィは魔法の設置を始めている。
「拘束」
腰に回された左腕ごと、鎖が巻き付く。そのタイミングは完璧で――動き始めた瞬間に、魔法が起動している。もう動き始めた以上、その動きからモーションを変えることはできない。魔法が起動する時間、鎖が到達する時間、“狼王”の動く速度、様々な要素を計算し、予測し、動きを縛る。
その行動に一切の無駄はなく、“狼王”は反撃の余地なく鎖に捕らわれた。
「――爆裂」
連続する爆発が“狼王”を襲う。合計で十発にも及ぶ爆発が、完全に拘束されて身動きができない“狼王”に叩きこまれ、砂塵が舞った。
そして――ベネルフィは、この程度の魔法で、彼女を仕留められるとは全く思っていなかった。
「爆裂――からの、火山――!」
さらに数発の爆発。さらに動けない“狼王”の足元に設置された魔法から、凄まじい炎が巻き上がる。ベネルフィが使える魔法の中でも、威力が高い大技だ。生物である以上は、呼吸をしているはず。空気すら灼き尽くす炎の奔流が、“狼王”を飲み込んだ。
「――認めよう」
「っ!?」
炎に巻き込まれてなお、“狼王”の声は落ち着いていた。
拘束は――解けていない。縛られた状態で、炎に焼かれているのに、“狼王”の声は二人に届いた。
「お前らを、戦士と認めよう。俺の名前は“狼王”ディーネ――」
体が膨れ上がった――逐一彼女の存在を観測しているはずのベネルフィが、そう勘違いするほどの威圧感。最強の魔人、“狼王”ディーネ。
漆黒の体毛が逆立ち、額に生えた角が青白い光を放つ。炎が収まり、拘束された状態で“狼王”は獰猛に笑った。
「司るモノは二つ。『守護』、そして『復讐』だ。貴様ら人間に追いやられた魔人の一人として――死を、くれてやるッ!」
魔力が膨れ上がる。今までの“狼王”は、純粋な魔人としての肉体性能だけで戦っていた。魔力も魔法も使用せずに、ただ純粋な体術だけで、ウェデスとベネルフィを圧倒していたのだ。
「俺の魔人としての能力は、単純だが……最強だ」
拘束していた鎖が砕かれた。身じろぎ程度しかできないはずのディーネが、その強化された膂力だけで砕いたのだ。
刹那という表現すら遅く感じる速度で近づいたディーネの一撃が、ベネルフィを襲う。ベネルフィは、ディーネの初動は理解していた。動き始めるタイミングもわかっていた。
ただ、純粋に“狼王”ディーネは――速すぎた。
肉を貫く嫌な音が、ベネルフィの耳に響いた。
「……ゴホッ」
咳き込む音の後に、赤黒い血が大地を濡らす。肺にまで達した傷は、どう足掻いても致命傷だった。“狼王”によって貫かれた腹部からも、夥しい量の出血がある。たとえ奇跡が起きても――助かりはしない。人目でそれが見て取れるほどの傷。“狼王”の右腕は腹を抉り、そのまま背中側まで貫通していた。
「……嫌いでもないが、好きでもないな」
湿った音とともに、“狼王”の右腕が引き抜かれる。冷徹な視線を向ける先には、1人の人間が地面に倒れるところだった。“狼王”はすぐに、興味を失くした様子で視線を逸らす。もはや死ぬことが確定した敵に、かける言葉はない。けれど――
「おい、人間。死に際の言葉があるなら聞いてやるが」
その言葉は、戦っていた二人を戦士として認めたからこそ、出た言葉だった。
“狼王”ディーネが、人間を許すことはない。『復讐』を司る彼女は、憎悪や憐憫などの感情はともかくとして、やられたことはやり返すのが流儀だ。かつての仲間たちが、人間に追いやられたように。住む場所を奪われ、故郷を追われたように。
ただ、彼女の望みはもうほとんど叶っている。すでに多くの人間が殺され、故郷を失った。住む場所を失い、さまよい、偶然“狼王”や魔獣に出会って殺された。その時点で彼女の望みは叶っているため、こんな辺境の地で“道化”に言われた通りに守護の任務に就いているのだ。
その任務の中で出会った二人の人間。殺すことに変わりはないが――死ぬのが決まったなら、それ以上の追い打ちをかける理由はなかった。
対するベネルフィは、傷の状態を正確に理解していた。この領域内において、彼女の状況把握能力は非常に高い。それこそ、地面を這う虫の一匹一匹ですら数えられるほどに。だから理解できていた。人間がこの傷を負ってしまえば、決して助からないということを。
「……ああ」
口を開き、すぐに血を吐く。だが、何故か安らかな顔で――
「俺のこと、忘れないでくださいね……ベネルフィさん……」
“狼王”とベネルフィの間に割って入った『烈脚』のウェデスは、そう呟いた。腹部を貫通され、もう助からない。だが――いや、だからこそ、“狼王”ディーネは彼が最期の言葉を託すのを黙って聞いていた。
「俺は……英雄になりたかったんだ……」
「……」
仲間を庇う精神。それ自体は、ディーネも認めている。だが、自分の命を投げ打ってでも、というのは理解できなかった。あくまでも、自分が生き残ることを前提とした行為なら、理解はできる。だが言うまでもなく“狼王”ディーネにとって一番大切な命は、自分の命である。
「俺みたいな……ただの、普通の人間でも……本物の英雄じゃあ、なくても……やれることは、あったんだ」
「……その結果、死ぬことになってもか? 無駄死にだぞ?」
“狼王”ディーネは、思わず口を挟んだ。ベネルフィを庇ったことによって、ウェデスの死は確定した。そして、ウェデスが死ねば、そのあとに死ぬのはベネルフィだ。
「無駄死にじゃあ、ないさ……。ベネルフィさんは、この領域で、1対1なら、最強だ……」
「……ああ、そうとも」
死にゆくウェデスの言葉に、ベネルフィは言葉を返した。光を喪いつつあるウェデスの両目は、もう見えていない。
「だから……勝って、ちゃんと広めてくださいね? 英雄に憧れた、1人の男が……ここにいたって。その男のおかげで、“狼王”に勝てたってことを」
「……ああ」
どす黒い血と一緒に、まるで命そのものを吐き出すかのように、ウェデスは激しくせき込んだ。
「……英雄かぁ。憧れるなぁ、本当に……」
「……ウェデス君。君は、立派に英雄だったとも。私は決して、君を忘れることはないよ」
「はは……それなら、よかった。あとは……ベネルフィさんが、勝てばいいだけ、ですね……」
ウェデスの両目が閉じる。
今――『烈脚』のウェデスという青年が死んだ。物言わぬ骸となり、これから先、彼が何かを為すことは永遠になくなった。
だが、だからこそ。彼が残したものは無駄ではないと、『魔女』ベネルフィは証明しなければならない。
「“狼王”、ディーネ。聞きたいことがある」
「なんだ」
「私が、神殿には入らない、立ち去ると言ったら……もう二度とここには来ないと言ったら、見逃してくれるか?」
感情の窺えない声で、囁くように問いかけるベネルフィ。
「いいや。見逃さないね、お前はここで殺す」
「なら――」
これで、和解はなくなった。『魔女』ベネルフィが、『烈脚』ウェデスの生き様を人類に伝えるためには――
「――勝って、生きて帰るしかないわけだ」
「――やってみろ」
二人の間で爆発が起き、ベネルフィは再び爆風で吹き飛ばされ、“狼王”は気にせずに距離を詰めるべく足を踏み出した。瞬間、“狼王”の足元の地面が炸裂する。
たとえ、拘束が効かなくなったからと言って、ベネルフィに手がなくなったわけではないのだ。
「戦う方法はまだある――」
「小賢しい……」
信じていたウェデスのためにも、ベネルフィは勝たなくてはならない。この領域の中で――
「――私は、対人戦最強の『魔女』だ。負ける理由など、何一つない!」
溢れる感情を抑え込み、冷静に冷徹に“狼王”の次の動きを予測する。
悲しむのも、思いを馳せるのも。全ては後回しだ。今は――生き残ること。“狼王”を倒し、生きて戻ることこそが、ウェデスに託された願いと思いだ。
ベネルフィは、静かに魔法用の触媒を握りしめた。