第17話 ユメ、再び
「おはよう、リクル」
「はい。おはようございます、フリートさん」
私は、起きてきたフリートさんに挨拶をする。彼は最近寝坊気味だが、それでもしっかりと朝食に間に合うように起きてくれる。仕事で疲れているだろうに、決してないがしろにすることはない。
「今日の朝食は何かな?」
「はい、今日はですね……」
食卓には、私が腕によりをかけて作った料理たちが並んでいる。まだまだ練習不足のものもあるが、それでも腕はいい方だ。本職のグルガンさんにはまだまだ敵わないし、正直敵う気もしないけど、それなりに美味しいごはんは作れている。お母さんも、美味しいと言って食べてくれているし。フリートさんも、満足してくれているはずだ。
「いつも美味しいよ、ありがとうリクル」
「はっはい! ありがとうございます! がんばります!」
まるで、私の考えを読んでいるかのように声をかけてきたフリートさんにびっくりする。驚きはしたけど、でもやっぱり、褒められるとうれしい。それが、好きな異性であれば、なおさら。
「えへへ……」
今、きっと私は人に見せられない顔をしている。恥ずかしすぎて、私は顔を両手で覆って隠した。
「どうした、リクル? 調子が悪いのか?」
「あらあら……」
「う、うぅ……!」
気遣いをしてくれるフリートさんだが、今ばかりはその優しさが辛い。今の私の顔を見ないでほしい。きっと、真っ赤に染まってニヤけているだろうから。
気遣いしてくれて嬉しい、嬉しいけど、女の子には見られたくない顔もあるんです!
「フリートさん、照れてるだけなので気にしなくてもいいですよ」
「テテリさん……そうか、照れてるだけか」
「お、お母さん!」
そんないきなり本当のことを言わなくても! と思った私は、抗議の目線を送るが、お母さんはにこにこと微笑ましいものを見るかのように私を見つめるだけ。そりゃあ、恋愛百戦錬磨のお母さんに比べたら、私なんてひよっこでしょうけど!
膨れる私を見て、フリートさんも笑う。でもそれは、バカにするような笑い方ではなく、優しく儚い微笑み方だった。まるで、宝箱に大切に閉まった宝物を見るかのような、優しい笑い方。
滅多に見ない――いや――そもそもあの笑顔は――
私にだけ向けてくれる、フリートさん本来の笑い方。悩みや束縛から解放されて、本当の意味で大切なものを見ているときだけ、見れる笑み。
昔は私には向けてくれなかった笑い方だけど、今は、その笑顔は私だけのものだ。そう、私だけの――?
「どうした、リクル? なんか怖い顔をしてたけど……」
「えっ、本当ですか? やだ、どうしたんだろう、私……」
今、何か。とても恐ろしいことを考えていたような気がする。
「あんまり悩んじゃダメだよ、リクル。辛いことは忘れたっていいんだからさ」
「……はい。そうですね、フリートさん」
そうだ。考えることなんてない。今、私は幸せだ。
「ごちそうさま、美味しかったよ。じゃあ、仕事に行ってくる」
「あら。それじゃあ私は、部屋に戻るわね。あとはお若い二人でごゆっくり~」
お母さんがニヤニヤと笑いながら部屋に戻っていくのを、フリートさんは少し困ったように笑いながら見送った。その困ったような笑顔も、どうしようもなく好きだ。
私も困った。毎朝毎朝、フリートさんへの恋心を認識しなければいけないらしい。
「えーと……」
「……」
無言で目を閉じる。見ていなくても、フリートさんが観念したように目を閉じたのがわかった。毎朝毎朝性懲りもなく――と思っているのかもしれない。しつこい女だと嫌われているかもしれない。でも、これをするのとしないのとでは、私の今日1日の気分が違うのだ。
「ん」
唇が重なる。優しく、ついばむようなキス。初めてキスしたときのように、恐る恐るとしたものではない。多少経験を重ねて、それでも優しく私を包みこむ、愛情たっぷりのキス。
たまには、頬とか首筋にもサービスしてほしいけど、毎日やってもらっているのだ。これ以上の贅沢は言えない。
「んっ!?」
と思っていたら、軽く一回右頬にキスをされ、さらに首筋にまでキスが降ってきた。私は咄嗟に驚きの声を漏らしたものの、フリートさんは気にする様子もなく首に2回キスをすると、離れた。私が少し名残惜しく思いながら目を開けると、わずかに頬を染めて照れたようにそっぽを向くフリートさんがいる。
(可愛い)
「いってらっしゃい、フリートさん。これ、今日のお弁当です」
「……ああ。行ってくる」
内心を口に出すと、きっと拗ねてしまう。たまにはそんな意地悪もしたくなるが、今日は我慢だ。また帰って来た時にでも、声をかけよう。私はひそかに、お帰りのキスにも憧れているのだ。いってらっしゃいのキスは習慣になりつつあるんだから、このままいけば――
「むふっ」
私は慌てて口を抑えた。今明らかに、聞かれてはいけない笑い声をしてしまった。急いで周囲を見渡すが、フリートさんは既に仕事に向かった後だった。お母さんは部屋から降りてきていないし、居間にはどうやら自分だけ。
私はほっとしながら、出しっぱなしの食器を片付ける。洗い物をして、水を捨てる。そろそろ、溜めておいた水がなくなりそうなので、また川に汲みに行かなきゃ。私が黙って汲みに行くと、フリートさんが若干不機嫌になる。どうも、私が1人で出かけることにあまりいい印象を持っていないらしい。水が減っていることに気づかれると、私が知らない間に補充されていたりするので、フリートさんが夜こっそり汲みに行っているのだろう。
愛されてるなぁとは思いつつも、さすがにそれくらいの仕事はさせてほしい。フリートさんが稼いでくるお金は多すぎて、私にはまだ貯金以外の選択肢が浮かんでいないのだから。
「……これじゃないほうがいいかなぁ?」
ふと思い出した私は、今の自分の体を見下ろして考える。初めてフリートさんに買ってもらった3着の服のひとつ。そのなかでもかなり気に入っている薄い紫色の服。中に着ている紫のシャツを覆うように、肩から肘にかけて乳白色の袖が覆い隠している。少しオシャレをしつつも、水作業で袖をまくり上げるのに邪魔にならないので気に入っている。若草色のワンピースは、汚すのが怖いので普段はしまいっぱなしだ。これだって汚したくはないが、まあ紫なので最悪……という思いがある。
ただ、汚してもいい作業着のような服が欲しい――いやでも、たとえ家の中でもフリートさんがいるんだから可愛い服を着たい。
2つの欲望に挟まれ、私は悩んだ。
「ぐぬぬ……」
下に履いている、膝までのズボンは変える必要はない。足を晒すのは少し恥ずかしいが、きちんと手入れもしているし、問題ない。チラチラとフリートさんが足を見ているのも知っている。残念なことに、私の魅力にやられたわけではなく、どちらかというと「あんなに足を出して寒くないのか?」とか、そっちの視線であることは感じているが。
「というか……」
今の悩みは、フリートさんが私に手を出してこないことだ。いや、さっきキスはしたし、習慣のようになってはいるが、今まで一度だってフリートさんと、その、『そういう行為』をしたことはない。
「贅沢な悩みだけど……」
毎晩毎晩求められるのも困るのだが、求められないのもそれはそれで不安。わがままなことはわかっているが、乙女心ということで許してほしい。フリートさんと晴れて恋人同士になった私だが、今はお母さんとフリートさんと一緒に住んでいる。いや別に、お母さんはたとえ知っても「ようやくヤッたの?」とかそういう感じで済ますだろうということはわかるんだけど、こっちの気持ちの問題である。あとムードとか。
「家庭的すぎて、なかなかそういう雰囲気にならない……」
そうなのだ。問題はそこである。今の生活が、満ち足りすぎている。まるで長年連れ添った熟年夫婦のように――それはそれで少し恥ずかしい――落ち着いている。なんだか、こう、私の中では恋の炎が燃え盛っているのだが、フリートさんが優しすぎるのだ。時折見せる嫉妬は可愛いのだが。
「ん~……」
過激な下着でも買うべきだろうか? いやそもそもそこまで行けていないし、フリートさんは夜に私の部屋に入ってくることはない。寝ぼけたふりをして抱き着いてみようか? ……普通にベッドまで運ばれそうな気がする。
難しい。普段の優しいフリートさんが大好きなのは間違いないんだけど、夜くらいこう、多少獣になってほしいというか。
「うむむむむむ」
しかしそれはそれでフリートさんらしくない、というか。ジレンマである。お母さんに尋ねれば、きっと「どんなに優しい男でも襲いたくなるような誘惑をしなさい」とか、そういうアドバイスが来ると思うのだが、悲しいかな、お母さんが積んできた恋愛経験には胸があったのだ。私にはない。
「な、なくはない……」
そっと胸に手を当ててみるが、返ってくる感触は――いや。具体的に考えるのはやめよう、悲しくなるだけだ。私はそっと手を降ろし、今度は腕を組んだ。
私の魅力とはなんだろうか?
まずそこから考える必要がある。お母さんいわく、顔は愛らしいとのこと。少し童顔だが、男の庇護欲? を刺激するとかなんとか言っていた。「それは利点なんだけど、性の対象にするにはブレーキを掛けられてしまうという欠点でもあるのよね……」と呟いていたが、まあとりあえず、利点ということにする。
体は小柄――というか、スラムの栄養状態が良くなかったのだ。胸が大きくならないのも、その影響に決まっている。この生活を続けるようになって、足や二の腕の肉付きはよくなったんだから、胸だって大きくなるに決まっているのだ。ただ時間が必要なだけで。
――そんなしょうもない、けれどとても大事なことを考えていた私が、後ろから母親に面白がって見られていたことに気づくまでには、かなりの時間がかかった。
お母さんに諭され、ようやく動き始めた私。とりあえず、日が高くてフリートさんがいない間に水を補充しようと、桶を持って扉に向かう。そして扉に手をかけ――
「え……?」
扉が開かない。いや、手に力が入らない。
「な、なんで……」
昨日は確かに回ったはず、その記憶がある。なのに、扉は動かない――違う。私の手が、頭が、心が、『この扉を開けてはいけない』と叫んでいる。
「ひぅ……!」
細い嗚咽が漏れる。呼吸が浅い。空気が足りない。
胸の中から這い上がってくる恐怖の感情に、足が震える。
「み、水は……あと数日は大丈夫そう、だし……!」
私は、扉に対して沸き上がる恐怖におびえながら、必死に視線を逸らした。ふしぎなことに、扉が視界から消えた瞬間、胸中の恐怖心も嘘のように収まった。
「な……なんで……?」
理由は、わからない。だけど、もうあの扉は見たくない。まるで見たことのない、恐怖の光景につながっているような悪寒が、私の体を震えさせている。
「む、無理して……開けることない。水も……頼めば、フリートさんが……」
必死に、扉から逃げる。背を向けたまま廊下を歩き、居間につく。私は、そこで安堵の溜息を吐いた。
「どうしたの、リクル? 体調が悪いのかしら? 今日はもう休みなさい」
「う……うん……」
お母さんに言われた私は、ふらつく足取りで自分の部屋に戻り、ベッドに身を投げ出した。
私はすぐに眠りに落ち――不思議な事に、翌朝目覚めるまで夢も見なかった。