第4話 絶望の世界
食事を摂った二人は部屋に戻り、これからのことを話し始めた。戻る前に、ピークを過ぎて落ち着き始めたグルガンに事情を説明し、病人であるテテリを泊めることを了承してもらった。別の都市でも宿屋を開いていた、というグルガンはテテリの病状を診るなり、『これは流行り病じゃねぇから好きにしな』という言葉を残して1階に降りて行った。この店を経営する人間としては、伝染の可能性がある病気は困るのだろう。
咳血病は、死者を最も多く出している病気ではあるが、人に伝染するものではない。宿を経営するうえでそういった知識も必要になるのだろう、と、密かにフリートは感心していた。
「俺は砦に雇われてお金を稼いでるから……金がきつくなったら、冒険者として魔獣を狩りに行っていた。けど、明日からは定期的に狩りに行こうと思う」
「わ、私はどうすればいいですか?」
「まず、ついてくるのは無理。戦闘技能があるなら別だけど」
「……な、ないです」
「ま、そうだろうね」
リクルが答えるまでに少し間があったが、そもそも戦う力があるなら、あんな冒険者崩れにいいようにやられてはいないだろうと考えたフリート。この件をほじくり返すのは流石にデリカシーがなさすぎるので、フリートは話を進める。
「だからどこで働くかって話になるんだけど……」
「は、はい……」
「俺もあんまり顔広いわけじゃなくて……というか顔が利く場所は基本、荒っぽいとこばっかなんだ」
この世界で就職するのに必要なのは、なによりも『コネ』である。その人物が信用するに足るかどうかは実績でも金払いでも見た目でもなく、紹介した人物によって判断される。紹介する人間も、長年の付き合いで築いた信頼を失いたくはないので、本当に信頼できる人間しか紹介しない。逆に、スラムにいる人間は、そういった信頼がないため、仕事に就くことができない、仕事に就けないから金がなくてスラムに行く――という負のループが起きるわけだ。
「荒っぽい……」
「冒険者崩れが来るとこは危ないから置いとけないしな」
フリートの脳内に姦しい女の知人の顔が浮かび上がるが、リクルが彼女とうまくやっていける気がしなかったので、選択肢から除外する。
「んーまあ、働く場所はおいおい考えよう。とりあえず明日だな」
「はい、あの。お願いがあるんですが……」
もぞもぞと座りなおして、リクルが話し、フリートはそれに頷いて応えた。
「ふ、服を……取りに行きたいです……コートもお返ししなきゃですし……」
「あー……すまん、正直すっかり忘れてた」
いまだに半裸状態の上にフリートのコートを着ているリクルが、恥ずかしそうに顔を赤くしながら告げた。一目みるだけでは問題ないために、彼女の服の状態をすっかり忘れていたフリートは困ったように頭を掻いた。
「よし、明日は生活物資を整えよう。リクルもテテリさんも体を清潔にしたほうがいいだろうし……買い物だ!」
力強く宣言して拳を掲げたフリート。その勢いで、気が利かなかったという事実をうやむやにして流し去ろうとしているのは明白だった。だが、まだまだフリートという人間のことをよくわかっていないリクルは勢いに押され、戸惑い気味に「お、おー……?」と拳をあげた。
「というわけで、安静にして今日はもう寝よう。明日は朝ごはんの時間になったら起こすから、寝てていいよ。コートを返すのは明日でいいから、とりあえず寝よう」
「は、はい……」
フリートはリクルが同じ話題を蒸し返すまえに、とそうそうに切り上げて部屋に戻る。椅子から立ち上がり、扉に手をかけたところで、リクルが声をあげた。
「あ、あの!」
「ん?」
「今日は、私とお母さんを助けていただいて――本当に、本当にありがとうございます! わ、私、何でもしますから、お母さんを――」
そこまで勢いよく話したリクルの両目から雫が溢れる。
「あ、あれ……?」
男に襲われて犯されそうになり、その男が目の前で殺され、母親とともに宿に来て、今日初めて会った男と一緒に荒くれ者の冒険者たちの中で食事を食べる。リクルにとって、怒涛の半日だった。許容量を超えた分が涙となってこぼれ、リクルはその涙を拭おうとするが、着ている服が借りものであることに気付いて思いとどまった。
「わ、私――」
「リクル」
フリートは真剣な表情でリクルを見つめ、扉から離れて近づいた。まだ彼女の詳しい事情は知らないが、あのような危険が隣り合わせの場所で、病気の母親を守ろうと奮闘していたのだろう。気を張り詰めさせ、だが母親に悟られないようにしながら、必死に生きてきたのだろう。それは、いくら年齢的には成人しているといっても、16歳の少女が背負える重圧とは言い難い。
「よくがんばったな」
「っう、うあああ……! フ、フリートさん……!」
フリートが近づいて、そんな言葉とともに頭を撫でてやれば、今まで母親に泣きつけなかった分を発散するかのように、嗚咽を漏らしながらリクルがフリートの胸に飛び込む。
「怖かった……! お母さんが死んじゃう、って……なんとかしなきゃって……!」
(娘か……妹くらいにしか思えんよなぁ……なんたって、幼すぎるし素直すぎる……)
近くで寝ている母親を起こさないように、大声をあげて泣き叫ぶ、という行為をしない。リクルの芯は、間違いなく強い。だがそんなリクルでも、誰にも頼れない状況で病気の母親を守り続けるという行為は、精神をすり減らすものだっただろう。必死に押さえつけるようにフリートの服を握りしめ、それでも抑えきれない嗚咽を漏らし続けるリクル。
そんな彼女の頭を、フリートは今までひたすら剣を握り続けた右手を使って、ぎこちない手つきで撫で続ける。まるで見守っているかのように、優しい銀の月光が二人を照らしていた。
その夜。結局泣き疲れて眠ってしまったリクルを起こさないように苦労して引き離したフリートは、テテリの見張りも兼ねて今日だけは、テテリとリクルと同じ部屋で眠ることにした。リクルをベッドに運んだあと、いまだに服の端を握り続けるリクルの右手を優しく丁寧に剥がし、壁に背中を預ける。
(そういや、路地裏で気分悪くて座り込んだ時もこんな感じだったな……)
フリートはあくび亭の部屋を数日間にわたって借り受けてはいるが、その部屋で寝ようが外で酔いつぶれて寝ていようが、金を払っている以上フリートの自由である。冒険者という死と隣り合わせの職業に就いているので、契約期間が切れても帰ってこない場合は、グルガンも容赦なく部屋にある荷物を捨てるだろうが。
フリートは静かに今日一日を振り返りながら、自分が持っている残金を思い浮かべる。魔獣討伐隊に参加して給金をもらったのがつい2日前のことなので、まだまだ余裕はある。あるが、散財すればその分金の減りは早いだろう。宿泊費にしたっていままでの2倍だし、食費に関しては3倍である。二人に任せろと大見栄を切った以上、『やっぱりお金ないんでごめんなさい』とは言えないフリート。
「やっぱり働いてもらうに越したことはないか……」
そう呟き、フリートは壁に頭をつけた。そのまましばらくテテリとリクルの様子を観察する。リクルは何度か寝がえりを打った末に、テテリの体に抱き着くことに決めたらしい。二人とも寝息は穏やかだった。フリートは思わず頬が緩むのを感じながら、襲い来る眠気に身を預けて眠りに就こうとしたが。
そのとき部屋に、控えめなノックの音が響いた。中にいる人間を気遣ったがゆえのノックだろう。つまり、このノックはここに病人がいることを知っている人物――そう考えながら、フリートはいつでも剣を抜けるように構えながら扉を開けた。
「夜遅くにすまんな、フリート。隣にいなかったんでこっちにいるんじゃないかと思って……今、いいか?」
「グルガン……ああ、構わない。俺の部屋でいいか?」
フリートはグルガンの言葉にうなずき、静かに部屋を出た。そのまま隣の部屋に移動すると、雑多に物が散らかっている中の様子を見たグルガンが顔をしかめた。
「お前、ちょっとは整理しろよ……」
「あ? ああ、すまんすまん。ま、勘弁してくれ」
「勘弁して欲しいのはこっちなんだが……これ片付けるまでは死ぬなよ?」
「……ん、ああ。気を付けよう」
見た目に似合わず器用な男の気遣いに、フリートは少々面食らいながらも答えた。グルガンとの付き合いもそろそろ半年になるが、今までそのような言葉が出てきたことはなかった。フリートが訝し気な視線をグルガンに向けると、グルガンは正確にその意図を読み取ったのか、照れくさそうに話し始める。
「前までのお前さんは、なんかちょっと人間離れしててな。話しかけづらかったし、正直なことを言うと『今にも死にそう』でな……あんまり言えなかったんだが」
「……否定はしないが。今はどう見えるんだ?」
フリート自身は変わった意識はないが、少なくともグルガンには変わって見えたらしい。この最前線の町で半年以上宿屋を経営している男だ。フリートはその目を少なからず信用しているし、グルガンは元冒険者としてフリートの今の姿に思うところがあった。
「今は、少なくともピンチになったときに生き足掻けそうだなと、そう思う」
「……生き足掻く、か」
フリートはグルガンの言葉を繰り返し、自分の内心と向き合った。確かに、少し前までの自分であれば、ピンチになったときに必死に生きようとするかというと、怪しい。そのまま死を受け入れる気がする。少しでもそんな心境が変化したのはやはりテテリとリクルとの出会いが影響しているのだろう。
「ん、まあ、だからあの子のためにも死ぬなよ、フリート」
「保証はせんがな。危険度は増すし……明後日から魔獣討伐遊撃隊に加わるつもりだ」
「おお、頼むぞ『無音』のフリートよぉ」
「任せろ、『健壁』。数匹ならこっちに流してもいいか?」
「ダメに決まってんだろ!」
かつて遥か南の土地で勇名を馳せた――とはいえ、今やその2つ名を知っている人間は少ないが――グルガンは、快活に笑って見せた。料理人としての繊細な腕と、冒険者としての豪快な力を持っているのが、グルガンという男だ。
「んで、用は?」
「おお、忘れるところだった」
大げさに手を打ったグルガンは、笑顔から真剣な表情へ切り替え、低いバリトンボイスで告げた。
「リクルちゃん、くれ」
「よぉしわかった。お前はここで死ね」
真剣な表情でグルガンが告げた言葉を理解すると同時に、フリートは剣に手をかけて目の前の男を突き殺す覚悟を決めた。その殺気に満ち溢れた目を見て、グルガンが慌てて言い訳を始めた。
「ま、待て! お前、違う! 言葉を間違えた! 言い直す!」
「1回だけな」
「ウェイトレスとして、リクルちゃんを雇いたい!」
「……なるほどな」
確かに、とフリートは考える。今日の様子を見ていた感じだと、明らかに人手が足りていない。フリートは普段あまりここの食堂を使わずに外に飲みにいくので知らないが、数日まえにウェイトレスがやめてしまい、グルガンは非常に困っていた。自分で料理をしつつ、ウェイトレスを兼任するのは無理がある。
「なんでリクルなんだ? 募集をかければいいだろう」
「ぶっちゃけた話をするとな。募集とか面接をしている余裕がない」
「お前、変なところで抜けてるよな……やめたときのカバーとか考えてなかったのか……」
「ぐっ、なにも言い返せない……」
それなりの給金と信頼関係を築けていたので、グルガンも急に辞められると思っていなかった、というのが本音だ。
「冒険者の客と駆け落ちされてな……」
「あー……そういうの増えたよな……」
人類滅亡が迫るこのご時世、悲劇のヒロインと、運命の出会いを演出し、逃避行に酔う人間が増えたのは事実だった。現実逃避の一種なのだが、いずれ現実に直面して目が覚めるか、目が覚めないままに死ぬことになるのだろう。
「てわけで、今あくび亭はピンチだ。リクルちゃんとお前が構わないなら雇いたい」
「うーん……」
フリートは悩む。あくび亭のメイン客層は冒険者だ。荒くれ者の集まりである冒険者の群れのなかに、年若い少女であるリクルを放り込んでいいものか。つい先ほど、未遂とはいえ男に襲われかけたばかりなのだ。こればかりはリクルに聞いてみないとわからない。
しかし、あくび亭で働くという提案は非常に魅力的である。なによりリクルが母親であるテテリのそばにいることができるし、フリートの目も届きやすい。グルガンとの付き合いは長く、それなりに信頼もしている。
「給金は?」
「その辺はまたおいおい詰めていこうと思ってたんだが、1日中働いてくれるなら、3日で銀貨1枚出す」
「本当に困ってんだな」
「ああ、割と真剣に」
3日で銀貨1枚は、相場よりもかなり上だ。冒険者は考えなし――あまり金銭に執着せずにお金を放出する傾向が強いので、飲んで騒げて飯も美味いあくび亭は、この町にある食堂のなかでもかなり稼いでいる方だろう。それでも、3日でキュリスタ銀貨1枚稼げるのであれば、十分以上と言えるだろう。普通は7日で銀貨1枚程度である。
ここで、もはや形骸と化しつつある貨幣制度の話をしておこう。キュリスタ王国が発行したキュリスタ通貨の種類は、大きく分けて4つある。
1つが、銭貨。質の悪い銅貨、歪んだ銅貨などがこれに当たる。おおよそ10枚で銅貨1枚に相当するが、あまりにも状態がひどいと元銭貨――クズ扱いされることもある。
2つ目が銅貨。基本的に流通しているのがこの銅貨だ。銅貨が10枚あれば、とりあえず1食食べることができる、と言われている。銅貨が100枚あれば銀貨1枚とほぼ同等の価値を持つ。
3つ目が銀貨。銅貨と並んでもっとも流通している硬貨のひとつ。銀貨1枚持っておけば、日常生活の買い物に困ることは、基本的にはない。
4つ目が金貨。約銀貨100枚と同じ価値を持ち、1枚で3人家族を半年養える。滅多に見ることはない――と思いきや、凄腕の冒険者は意外と持っていたりする。それだけ魔獣の素材は高値で売れる、ということだ。
キュリスタ王国以外の国が生き延びていたころは含有率などの関係で両替の価値が違ったのだが、もはや通貨が流通しているのはキュリスタ王国の中でも、このギベルの町とその周辺の村々しかない。冒険者たちは自分で魔獣を狩り、その魔獣の素材を売り、得たお金で自分のスタイルに合った防具や武器をそろえているのだ。魔獣の素材は魔法触媒などの付加価値がつくため、やりようによってはかなり高く売れるということもあるが――今は、その話は置いておく。
「俺としては大丈夫だ、むしろこちらからお願いしたいくらいなんだが」
「そうか、それは助かる!」
「まあ待て、冒険者に変なちょっかい出されないように見張っておいてくれよ」
「それはもちろん。また駆け落ちされても困るからな!」
一応釘を刺しておくフリート。そして人手が増えることを、もう決定事項のように喜ぶグルガン。だが、フリートとしては一応、注意しておかねばなるまい。
「リクルはウェイトレス経験とかないからな?」
「ああ、最初は大丈夫だ。なんとかするさ」
「あと、リクルが断ったらこの話はなしだ」
「ああ……俺も、無理やり働かせるつもりはないから、安心しろお父さん」
「誰がお父さんだ」
憤然と言い返すフリートだが、あながちやってることは保護者だなと思いなおす。断じてお父さんではないが。
(そういえば、リクルの父親って……)
姿を見ないのはいいとして、テテリもリクルも一度も話題にあげたことがない。もしかしたら、リクルが生まれる前に死んだか、テテリの元を去ったのか――下手に聞かないようにしよう、とひそかに決意を固めるフリート。こういった家庭環境に関して野次馬根性で首を突っ込むと、ろくなことにならないというのは常識だった。
「とりあえず今夜はよく眠れそうだ。助かった、フリート」
「お礼なら、働くのが決まったらリクルに言ってくれ」
「ああ、それもそうだな。だがお前が連れてきてくれなければ、このチャンスもなかったんだ。感謝もするさ」
グルガンはフリートの肩を何度か叩くと、部屋の扉に手をかけた。
「じゃあ明日な、グルガン」
「――ああ、また明日なフリート」
部屋から出たグルガンは、この宿に初めて来たときのフリートの様子を思い出して大きく息を吐き出した。フリートの部屋から離れ、自分の部屋に戻りながら。
「また明日、か。フリート……半年前のお前に聞かせてやりたい言葉だな……」
雨に打たれながら、幽鬼のように現れたフリートの姿を思い出しながら、グルガンは呟いた。