第9話 名もなき幽霊
また、新しい人間がやってきた。
だいたいの人間は、私の気配に勝手に怯えていなくなってしまうのだが、今度の人間は――肝が据わっているというか。どうでもよさそうというか。ともあれ、怯えて出ていくことはなさそうだ。
新しく入ってきたのは、男1人に女2人。関係性はよくわからないが、仲はいいようだ。仲がいいのはいいことだ、私も好き好んでギスギスとした雰囲気の家には居たくない。
人目がない間にいつものように掃除をする。埃を集め、窓から外に捨てれば、友達がやってきて運んでくれる。この場所には、私の友達がたくさんいる。昔からの付き合いの子もいれば、面白そう、という理由で手伝ってくれてる子もいる。
『あははは! あははは!』
『……何が面白いの?』
いつも笑っている友達は、私を指さして大きく笑い転げると、軽やかに去っていった。彼らの考えなど、私にはわからない。向こうだって、私の考えを理解しているわけではないだろう。ただ昔この場所に住んでいた彼らが、居心地の良さを求めて戻ってくるのだ。私のように、居着いているのはほかにはいないが。
掃除や洗い物をするのは、一応間借りしているわけだから、その代金のようなものだ。無断で居座るのは居心地が悪い――何かしていないと、限りなく暇であるという理由もあるが。
気まぐれで始めたことだったが、意外と家事は楽しい。私は慎ましく、この家に来る人間を観察し、害がないようならいつものように暮らしていくつもりだった。
だから――あんなことになるなんて、思ってもいなかったのだ。
† † † †
実に平和な時間だった。フリートは居間の椅子に座り、のんびりとお茶を飲みながら考える。これも一種の幸せの形なのではないか、と。この家は、変な物が憑りついてはいるが、過ごす分には全く問題ない。今も視界の端で埃が集められているが、フリートとしては勝手に掃除をしてくれるなら楽なものである。
「フリートさん、今日は?」
「今日は休みですよ、テテリさん。昨日魔獣を倒したので、臨時休暇です」
『軍神』オーデルトは、砦の戦力を常に万全に整えることに余念がない。強力な『祝福』持ちの人間は戦力として有用だが――反面、その精神性に大きく力を左右される。仕事内容に不満を持たれて、ボイコットなどされようものなら人類は一気に滅亡だ。そのため、魔獣を討伐したものには休暇が与えられることになっている。金銭ではないのは、手柄を取り合わないようにするためだ。
「まあ、そうなんですか。それでしたら、予定を立てましたのに」
問題は、この手の休みが降って湧いたように訪れることである。また、あくまでも疲労を癒すための休みであるため、あまり大それて楽しむことはできない。せめてゆっくり、のんびり、休日を過ごすだけである。
「リクルは?」
「今、買い物に行きました。私も一緒に行こうとしたのですが、お母さんは休んでて! と……」
「そうか……」
まだ朝である。このあたりは通りが大きく、人通りも多い。人さらいに遭う心配はほとんどないだろう。下手に迎えに行ったほうが、すれ違い危険性が高いと考えたフリートは、椅子に体を預けた。できればベッドで寝ていたいのだが、あまり緩み過ぎるとそれはそれで戦闘に悪影響が出る。
暗殺者として培った技術の研鑽は怠っていないが、それ以外の部分は磨いていない。フリートは体を起こし、剣を持って外に出る。
「どちらへ?」
「庭で少し、剣を振ってきます」
「まあ……見学しても?」
「面白いものではないと思いますが……まあ、見たいのであればどうぞ」
宿屋ではできなかったことをやろう、と思い立ち、フリートは庭に出た。見学を希望したテテリが庭の端にあるベンチに腰掛け、目を細めてフリートの様子を見る。この庭も、小さいながらも何者かの手入れがよく行き届いており、体を動かすのに何の問題もない。
「……ふぅ――」
息を吐き出し、気配を広げる。どこまでも薄く希薄に気配を散らし、自分と外界との境界を曖昧にする。剣を振る、と言っても。フリートが鍛え上げてきた剣技は、『一撃で相手を殺す』剣技だ。ゆえに、防御も回避も剣技に含まれていない。もっとも防ぎにくい剣筋で、もっとも速い剣速で、死角から一撃でもって命を奪う。
殺せないときは戦わない。相手が隙を見せるまでは姿を隠す。冒険者の剣でも、騎士の剣でも、兵士の剣でもない――鍛え上げられた、暗殺者としての一撃である。
風が吹き抜ける。遠くから見ていたテテリでも、その一撃を目視することはできなかった。見ていたのに、わからない。
(一瞬……フリートさんが、すごく薄く……?)
生き物ならば誰でも持つ気配が、溶けた。まるで呼吸音、心臓の音すら消したかのように――フリートは今、確かに『いなかった』のだ。
「……ま、こんなもんか」
突きを放った姿勢から、ゆっくりとフリートは剣を降ろした。鈍っていた暗殺者としての技能が、少しずつ戻ってきている。この間の瞑想の時はリクルに気づかれたが、今のフリートならば魔獣の鼻すら掻い潜れるだろう。
もう一度精神を集中させたあとに、その集中を散らす。自分に注意を向けてはいけない。風のように、水のように、ただ在るがままの姿を、意識を――世界に溶かし込んでいく。
(っ、また……フリートさんが、いなくな……いない……!?)
すでに姿はなかった。音もたてずに、意識もさせずに、フリートは無意識のうちにテテリの呼吸の隙を突いて姿を消していた。認識できない。周囲に視線を走らせても――テテリは、それがフリートだとわからない。
テテリが視界の端に映ったフリートを認識したときには既に、フリートの剣が突き出された後だった。
視界には入っていた。目には映っていた。だが、それが『剣を構えた人間』だと認識できない。まるで風景の一部、見慣れた景色の一部のように、『なんでもないもの』として認識してしまう。
人は風景を見るときに、地面に生えた草の一本一本まで思考を及ばせることはできない。
「悪くない。感覚が戻ってきた……」
フリートは呟き、剣を収める。だが、全盛期のフリートでも、セラには及ばない。テッタ公国の一線級だった自負はあるが――その一線級の暗殺者たちの中でも、エースだったのがセラという女性だ。圧倒的な才能と研鑽で、彼女は暗殺者として最強だった。思い出に浸りそうになるフリートだったが――
「うわあああんっ!」
「っ!?」
突然飛び込んできた少女を受け止める。何かが地面に落ちる音が響き、フリートは抱きとめた少女を確認した。
「どうした、リクル……?」
「い、今! フリートさんが、消え……いなくなった、と思って! それで、それで……!」
「ああ……」
確かに、とフリートは思う。何も知らない人間が見れば、消えていく人間なんて恐怖でしかないだろう。そして、リクルは買い物から帰ってきたら、何故か気配が消えていったフリートを見たのだ。それは怖い。恐怖体験である。
「大丈夫大丈夫。ちょっと練習してただけだから……」
フリートはテテリの視線を気にしながらも、嗚咽を漏らすリクルの頭を撫でた。なにせ、泣いている女性を慰める、なんて経験はしたことがない。ぎこちなく頭を撫でていると、少しずつ泣き声が収まっていくのに、フリートは心底ほっとした。
「……ちゃんと、います?」
「ああ、いる」
「どこにも行かないで、くださいね?」
「ああ、わかった」
(あの年齢で末恐ろしいことするわ、さすが私の娘……あれ、天然ね……)
甘えられる年齢であることを最大限に利用したリクルの天然アピールに、テテリがしたり顔で頷く。自分が教えた大人の恋愛テクニックは全く役に立っていないものの、それはそれでアリかな、と思い始めるテテリである。
二人だけの甘い空間――そう思っているのはリクルとテテリだけで、フリートはただ困惑した様子でテテリに助けを求めている――は、気づかないふりをしたテテリのせいで、しばらくの間続いたのだった。
(ああ、平和な時間だ。悩みらしい悩みもない……いや、今はちょっと困ってるけど。こんな些細な悩みなら、いつでも歓迎だ。こんな平穏な時間が、ずっと……)
諦めたはずの感情。捨てたはずの願い。フリートの中でわずかに顔を出し始めた、幸福への渇望。
(今――幸せ。お母さんも元気になって。フリートさんは優しいし、もう少し私のことを見てほしいけど……でも、十分。あとは、私が頑張るだけ……もう少し)
諦められない情念。捨てられるはずがない気持ち。リクルの中で生まれた、恋心。
(私たちは、本当にいい人に出会えた。ここまで献身的に振る舞ってくれる人は少ないわ。この時代ならなおさら……願わくば)
ささやかな願い。けれど時代と状況を考えれば、大それた願い。テテリが望む、平穏な日常。
(この幸せが――)
穏やかな日差しの中、平和な庭の一風景。
『あー……いいなぁ。羨ましいな』
その光景が微かに翳り、そして何事もなかったかのように収まった。フリートですら気づかなかった囁き声。誰も聞くことができない悪意の声が――
(いつまでも、続きますように……)
『私も……そんな生活、してみたいな』
平穏な世界に混じって、いくつもの願いと重なって、響いた。
翌朝――。リクルとフリートが、いくら揺さぶって、声をかけても。テテリが目を覚ますことはなかった。