第8話 作戦会議
「できた……!」
フリートとリクルは、自分たちが購入した家の中で満足気に頷いた。ベッドなどの家具が運び込まれ、管理者は掃除していないのになぜか綺麗だった家を見回す。ベッドを組み立てるために呼ばれた冒険者が『無音』の噂を聞いていたのか、ものすごい勢いで噂話を始めるなどの細々した事件はあったものの、おおむね問題なく引っ越し作業は完了した。
「いい感じですね、フリートさん!」
「そ、そうだな……」
輝かんばかりの笑顔を向けてくるリクルに対し、フリートは少し気圧されながら答えた。最近――と言ってもここ数日のことだが、なんだかリクルが近い。今も、フリートのそばに体を寄せ、少し手を動かせば体に当たりそうな位置にいる。
「じゃあ、お母さんも連れてきましょう!」
ああ、とフリートは納得した。ようやく母親であるテテリが落ち着ける場所に行くのが嬉しいのだと。もちろん、リクルの内心は全く違うのだが、フリートの勘違いを指摘する人間はいない。
『――……っ』
フリートは後ろから声が聞こえたような気がして振り返るが、そこには何もいない。ただ、玄関まで続く廊下があるだけだ。ここに何度か足を運ぶようになってから、フリートはその存在を確信していた。ちょろちょろと残像や気配を残し、間違いなくこの家には何かが棲みついている。だが、別段悪意のようなものは感じない。どちらかというと観察されているような、そんな感覚がある。
「……」
風のような、霞のような、なんとも言い難い気配は達人であるフリートでも捉えきれない。もう少し勘が戻ってくれば、あるいは見破ることも可能かもしれないが――見破ったところで、幽霊に対しては有効手段がないのがフリートである。
「フリートさん、どうしました?」
「……いや、なんでもない」
幸いというべきか、リクルは気づいていない。もしくは自分だけが感じているのかとも思ったが、過去に幽霊騒ぎが起きている以上、そういうわけでもないだろう。フリートはいつも通り静観を決め込むことにして、リクルと二人であくび亭に戻った。
「おー、ついに引っ越すのか」
「ああ、ようやく準備が終わったんでな。今まで世話になった、グルガン」
「なんの。お前の部屋が綺麗に片付いてホッとしているところだ……と言いたいところだが。少し、寂しくもあるな。また食べに来いよ! リクルちゃんは変わらずよろしくな!」
「はい! また夜に来ます!」
「おお、そういえばウェイトレスは新人が雇えそうなんだ。そうなったら、もしかしたら昼だけでも済むかもしれない。夜の移動は何かと危ないからな……新人がここに泊まり込みがいいって言えば、だが」
「あ、それは大丈夫です。フリートさんが迎えに来てくれるので。ね、フリートさん?」
笑顔で振り返ったリクルに、フリートが頷いて返す。砦の仕事はそう大変なものではない。あくまでも緊急時に備えることと、偵察や哨戒任務がメインだ。あの大暴走のあとも何度かペアを変えて偵察に行っているが、別段危険なわけでも、極度に疲れるわけでもない。
リクルの言葉を聞いたグルガンが豪快に笑い、三人を送り出した。体調が回復したテテリは、健康と言うには顔色が悪いものの、すでに喀血することはなくなっていた。まだ咳は残っているが、おおむね順調に回復している。歩いて移動する程度なら、問題ない程度には健康になっていた。
「グルガンさん、本当にありがとうございました。お世話になりました。そして、これからも娘をよろしくお願いします」
「いえいえ、テテリさん。こちらこそ助かりました。娘さんをお預かりしますので、どうかこれからもよろしくお願いします」
「おい、グルガン。俺に対する態度と全然違くないか?」
「お前! 娘を1人で育て上げたテテリさんと、まだ若造のお前が一緒の態度なわけないだろうが。結婚して家庭を築いたら、お前のことも父親として扱ってやるよ」
グルガンが笑いながら言うので、フリートも釣られて笑ってしまった。確かに、まだ30にもなっていないフリートは、四十半ばのグルガンから見たら若造だろう。
「よし、じゃあ行くぞリクル、テテリさん。また来るからな、おっさん!」
「ああ、待ってるぞクソガキ」
笑顔でグルガンに告げたフリートに、グルガンもまた笑顔で返した。リクルは2人の様子を羨ましそうに見ているが、テテリは男2人の額に浮かんだ青筋からそっと視線を外した。お互いに大人げがなさすぎて、娘の男を見る目が心配になった。
「じゃ、行こうお母さん! 色々見ていこうね!」
「わかってるわよ、リクル。……まさか、私がこうして外を歩けるようになるなんて……」
感慨深そうに、周囲を眺めるテテリ。居並ぶ家と、複雑に混ざり合った道を興味津々な様子で観察する。親子2人で屋台に寄ったり、果物を買ってかじる。その様子を、フリートは後ろから目を細めて見ていた。
幸せそうな二人を見ていると、なんだか自分まで満たされた気分に――
「フリートさんも、どうですか?」
「……もらうよ、ありがとう」
笑顔で差し出された果実を受け取り、一口かじる。果実は口の中で溶けて、瑞々しく甘い果汁を溢れさせた。トメソンという果実で、皮ごと食べても問題ない種類だ。特徴は黄色い見た目と、薄く柔らかい皮。庶民に広く親しまれている果物であり、フリートも食べるのは初めてではない。
口いっぱいに溢れた甘い果汁の中に、わずかに皮の渋みがある。それは甘さの中だからこそ、フリートには際立って感じられた。
「初めて食べましたけど美味しいですねーこれ! トメソン、って言うんですって!」
「それはよかった。俺は何度か食べたことがあるが――相変わらず甘いな、これは」
もう一口かじる。今度は薄い皮をむいて食べたが、口いっぱいに広がるただただ甘い果汁は――それはそれで、フリートには気持ち悪く感じられるのだった。
「でもこれ、ひとつ銅貨7枚もするんですね。びっくりしました」
「あー、昔はもう少し安かった気がするが……今は、流通している量が少ないんじゃないかな」
そもそもが、人類の農作地はほとんどが魔獣に支配された。ギベル砦の裏側で細々と農作と栽培を続けているものの、その量はとても潤沢とは言えない。フリートに出会う前のリクルとテテリのように、飢えて死んでいく人間の方がずっと多い。
『予言者』ミリは今流通している貨幣を一度集約し、分配することで現状を維持している。フリートに一気に大金を渡せたのも、貨幣をため込んでいるからだ。今の人類の状況では、ふとした拍子に食料を求める暴動が起きてもおかしくはない。国が崩壊したとき、金貨や銀貨といった貨幣は、ただの重荷になるからだ。
「へぇ、そうなんですか……詳しいですね、フリートさん」
「ん、まぁ……昔、色々習ったからな」
フリートは暗殺者として育てられたときに、情報の重要さを徹底して叩き込まれている。それが軍隊を持たないテッタ公国が、長きに渡って政権を維持していた理由でもあるのだから。情報を買い、集め、売りさばき、邪魔者は消す。それこそがテッタ公国が、諜報国家として成り立っていた理由だ。
「そ、そういえば、フリートさん。フリートさんの昔の話……聞いてもいいですか?」
――恐る恐る。窺うように、フリートに問いかけるリクル。フリートは少し悩み、首を横に振った。
「聞いても、面白くないさ。あと、少し野蛮な話になるから……」
「そ、そうですか……」
ちらりと振り返ったリクルの視界に、小さく指でバツを作るテテリが映った。『それ以上は聞くな』、そう判断したリクルは撤退する。
「ごめんなさい、変なこと聞いて……」
「ん、いや。気にしてないよ」
「リクルー、お母さんを1人にしないでー」
「あ、ごめんお母さん!」
フリートに断りをいれて、母親であるテテリの元に走るリクル。フリートはテテリの声が若干棒読み気味だったのが気になったが、特に違和感はなかったのでスルーした。なにやら話を始めた二人を見守る。リクルは元気だがふつうの少女だし、テテリは治りつつあるとはいえ、病人である。何かあってからでは遅いのだ。親子水入らずの会話を邪魔しないよう、聞こえない位置から二人を眺める。視線を向けるのではなく、風景の一部として視界に入れることで、『注目されている』と感じさせない、フリートが暗殺者時代に培ったテクニックのひとつである。まさか、こんなことに使うとは思っていなかったが。
「見なさいリクル、あの目を」
「う、うん……」
「あの目はね、『休日に家族と買い物に行くことになったが、娘と母親の会話についていけずに手持ちぶさたになる父親』の目よ」
「つまり……?」
「今、フリートさんは1人でいることに安らぎを感じているの。あそこに無理に突っ込んでもだめ。今は引きなさい」
「わ、わかった……!」
「いい、ねらい目は心が弱っているときよ。夜不安なとき、悪い夢を見たとき、仕事で嫌なことがあったとき――そこで貴女の持つ母性で攻めなさい」
「母性……母性……?」
リクルは言葉を繰り返し、母親であるテテリの胸を見る。そしてそのあと、自分の胸を見下ろした。
地面がよく見える。
「胸の有る無しでは決まらないわよ、リクル。言葉巧みに悩みを聞き出す。ただし、攻めすぎてはだめよ。あくまでも話したくなるように誘導するの。このやり方は前説明したわね?」
「うん……できるかわかんないけど……」
「やるのよ。母性は大丈夫、持ってるわ。この前の夜で私確信したから」
テテリの脳内で浮かんだのは、悶えながらフリートのことを『可愛い』と評したリクルの姿だ。テテリが思っていることが伝わったのか、リクルは顔を真っ赤にして手で覆った。
「……死ぬほど恥ずかしい……」
そんな計画が立てられているとはつゆ知らず、家に向かって歩く二人をフリートが追いかけてくる。テテリは視線が行かないように気を付けながら、自分の娘に忠告をする。
「問題は、貴女の『祝福』よ」
「……うん」
それで、リクルは急に現実に引き戻されたかのように真剣な目つきになった。まるで胃の部分に冷たい氷をいれられたかのように、恋の熱に浮かれていた精神が落ち着く。
「今は制御できているとはいえ、貴女の『祝福』の内容を知ったら――フリートさんがどういう反応をするかは、正直未知数。それに、」
これは、リクル。貴女の覚悟の問題でもあるわーー、とそうテテリは告げた。
「どうなるかは、私にもわからない。だからリクル、貴女が決めなさい。『どうなるかわからないけれど、どうなっても受け入れられる』――もしくは、どうしようもないとき。そうそうそんなことは起こらないと思うけれど、貴女が『祝福』を使わざるを得なくなった時には、使いなさい」
「うん。わかったよ、お母さん」
「よろしい」
リクルが真剣な顔つきで答えると、テテリは満足気に頷いた。
「あ、お母さん。そろそろ家につくよ」
「例の幽霊が出るっていう家ね? まあ掃除や洗濯をしなくていいのは正直助かるわ」
「お母さん、しなくてもいいわけじゃないと思う……」
リクルをスラム街で、女手一つで育て上げたテテリの精神力は、もはや生半可なことではびくともしないのだった。