第6話 リクル
「辛い」
「いきなりどうしたの、リクル」
夜。仕事を終えて戻ってきたリクルを前にして、母親であるテテリは困惑した。今までのスラム生活でも、弱音を吐かなかった娘。自分にはもったいないほど強く、可愛らしく育った娘が、苦しんでいる。
仕事がきついのだろうか?
「仕事、大変だった?」
「ううん……仕事は大丈夫……口説かれたけど、グルガンさんがすぐ追っ払ってくれたし……」
「そ、そう……」
母親の贔屓目を抜きにしても、リクルは可愛らしい容姿をしている。最近は生活に余裕が出てきたため、身なりや髪を整えることを覚えたのだ。母親である自分に、手入れの仕方などを聞いて、できる限り美しくあろうとしている。スラム生活では考えられなかったほどの娘の変化に、テテリは心当たりがあった。
「フリートさんのことかしら?」
肩が跳ねる。ゆっくりと顔をベッドに埋めた娘の反応に、テテリはほくそ笑む。やはり、異性の目というのは、女の自尊心を刺激するのだ。
テテリとしては、脈アリだと思っている。脈がなければ、こんなに高価な服を3着も買い与えたりはしない――歳は若干離れているが、なに、10歳程度どうということはない。真実の愛の前には無力だ。
「フリートさんは……」
「うんうん」
恋に悩む娘の気持ちを聞いてやろう、とテテリは軽い気持ちで続きを促した。たまたま、すこぶる体調がよかったのも影響している。
「可愛い」
「……ん?」
雲行きの怪しさを感じた。
「なんていうか。その、私も男の人に対してこの言葉を使うのはおかしいってわかってるんだけど、あんなに強くて優しくてかっこいいのに、ところどころ抜けてる。抜けてるどころか、なんか常識ない。金銭感覚もおかしいし、この間なんかズボンが前後逆だった。無理。なんで。ダメ人間すぎる……のに優しいし強いしなんなの。なに? 人なの?」
「り、リクル、落ち着きなさい。どうしたのいったい」
ベッドに顔を埋めたまま、呻くように呟き続けるリクルに、テテリが問いかける。
「こんな小娘に服を3着も買うし。知ってる、お母さん。服の予算に金貨1枚も出したんだよあの人。意味わかんないし信じられない。おかしい」
「そ、そんなに。それだけ愛されてるってことじゃないの?」
「それは違うの。なんか、こう、どうでもいいわけじゃなさそうなんだけど。少なくとも女としては見られてないの。なんかこう妹? 娘? そのあたり。普通、妹とか娘の服に金貨1枚も出す? おかしくない?」
「え、ええ……」
耐えきれなくなったように、リクルが顔をあげた。
「無理。好き」
ああ、これはだめだな、とテテリは思った。リクルの顔は真っ赤で、恥ずかしがってはいるが――その目は決意を秘めていた。娘は今、『人を好きになる』ということを知ったのだ、と。テテリはあっという間に成長し、自分の元から精神的に巣立っていった娘の成長を喜んだ。だが全て喜びの気持ちで、全身全霊で祝福できたかと言われると、それは違う。
自分の元から巣立っていく娘に、寂しさを覚えなかったと言うと嘘になる。娘――リクルは、正しく成長し、その成長していく過程で、フリートに恋をしたのだ。
「……本気、なのね」
「……うん」
ならば、娘の気持ちを確かめる必要がある。本気だと勘違いしている恋ほど、辛い物はないのだから。
「私たちはフリートさんに救われたわ。その感謝の気持ちはある?」
「ある」
「感謝の気持ちと恋心を混同していない?」
「……わかんない。でも、私はフリートさんが好き」
「結構な歳の差よ?」
「関係ない」
「……たぶん、実らないわよ?」
その言葉を投げかけるには、テテリにも勇気が必要だった。フリートは一貫して、彼女たちに対して『協力者』という姿勢を崩していない。見返りを求めない献身というのは、受ける側もそれはそれで辛いものがあるのだ。まるで線を引いているかのようにこちらに踏み込んでこないフリート。初恋は実らない、とは言うが――フリートが、リクルの恋心に応える可能性は低い。
「……それでも、いい」
嘘だな、とテテリはすぐに見破った。ここでため込むのは、娘のためにならない。
「嘘をついちゃダメよ、リクル。自分の気持ちに正直になりなさい」
「……やだ。フリートさんに笑いかけてほしい。一緒に寝たいし、買い物にも行きたい。旅行にも行きたいし、喫茶店でのんびりしたい。ずっと、笑っていてほしい。前を向いてほしい。明るく生きてほしい。たまにすごく苦しそうな顔をするのを、やめてほしい。昔のこととか、戦いのこととか、色々話してほしい。話してるときに目を逸らさないでほしい。頭を撫でてほしい。いっぱい、褒めてほしい」
まるで、ため込んだものが溢れだすかのように喋り続けるリクル。今まで蓋をしてきた想いが、言葉が、止まらなかった。
「見てると、苦しい。喋ってると、辛い。一緒にいると、落ち着く。遠くにいると、不安になる」
「……うん」
「まだフリートさんにとって、私は……こ、小娘、かもしれないけど」
今のリクルがそれを認めるのには、勇気が必要だった。しかし、間違えることはできない。
「これから、絶対振り向かせる。昔、フリートさんになにがあったのかも、聞きたい」
「相手を知りたい、と思うこと。それは間違いなく第一歩目よ」
まだ入り口。そう告げた母親の厳しい言葉に、リクルは胸が苦しくなった。けれど、事実から目を逸らすことはできない。
(きっと、あの時だ――)
あこがれが、感謝が、全て恋という感情に置き換わった瞬間。
大暴走との戦いに赴く彼の笑顔を見た瞬間だ。
あの時、フリートの笑顔を作ったのは。自分ではなく、フリートの記憶の中にいる誰かだった。
フリートは、儚く、優しく、嬉しそうに。リクルには決して向けない笑顔で笑ったのだ。
(ずるい、ですよ……フリートさん……)
そんな笑顔を見せられたら――欲しくなってしまう。独占したくなる。支配したくなる。彼の笑顔を、自分だけのものにしたい。ほかのどんな相手にも向けないでほしい。自分だけを見ていてほしい。
その醜悪な感情と向き合う。愛とは、恋とは、相手に変化を強要する病である。
私が好きになってしまったのだから――あなたも私を好きになって。そんな傲慢な願いを自覚する。
「……お母さん」
「ん?」
「恋、ってこんなにつらいの?」
「いいえ。リクル、大事なことを教えておくわね」
コホン、と咳をして喉の調子を整えたテテリは、真剣な表情でリクルに告げる。
「『恋する女は無敵』、よ」
「恋する女は……無敵……?」
「敵なんていないわ、楽勝よ。恋っていうのはね、盲目的に誰かを信じること。自分の気持ちを信じること。今、リクルは自分の気持ちを確信して、信じたわ。だったらもう大丈夫。多くの人間が気付かずに嵌まる沼に、気づいたのだから」
テテリの言葉にリクルは首を傾げる。沼。それは、自分のなかにドロドロと渦巻く、口に出すのも憚られるこの醜い感情のことだろうか?
「そう。その沼にどうせ落ちる。恋をしている限り、いずれにせよ沈むわ。でも、沼に嵌まっていると知っていることが大事。嫉妬、憎悪、愛情、独占欲――その沼は、居心地が悪いのよ」
まだ、わからない。
「だから、その沼から引き上げてくれる人を好きになりなさい。辛いときは言いなさい。苦しいときも言いなさい。助けてもらうの。助けてくれない人は、どうせすぐに醒めるわ。でも助けてくれるなら、どんどん頼りなさい。それが、いい女に許された特権よ」
……つまり。
「嫉妬した、時は?」
「私を見て! ってアピールしなさい」
「寂しい、時は?」
「傍にいて! って言いなさい」
「辛い、時は?」
「話を聞いてもらいなさい」
リクルの両目から、涙がこぼれた。深く安心すると同時、母親に話してよかったという思いに包まれる。彼女の暗く重い感情は、あってもいいのだと。思ってもいいのだと、許された。
「嫉妬も独占欲もない恋愛なんてその辺に捨てなさい。それはただ、恋愛の真似事をしているだけ。だからその感情を認めなさい。認めたうえで、うまく付き合うの。それがいい女ってヤツよ」
「うまく付き合うって?」
「まず、想い人には気づかれないようにしなさい。なんでか知らないけど、男は女性の嫉妬とか独占欲を嫌うわ。いや、中には心地よく受け止めるタイプの男もいるけれど、少なくともフリートさんは違うわね」
「……うん」
「うまく甘えなさい。貴女の年齢なら許されるわ、それは強みよ」
「……で、できるかなぁ……」
「やるのよ。あと、追いかけると逃げるから、振り向かせるの。具体的な作戦はこれから練るわよ、リクル」
「ええ? お母さん、もう遅いし寝たほうがいいんじゃ……」
「何言ってるの、恋はスピードよ。娘の初恋を応援せずしてなにが母親ですか」
「恋はスピードなのかぁ……」
なんだか今まで夢見ていた恋愛というものの全てを木っ端みじんに打ち砕かれたような気持ちで、リクルは呟いた。
「お母さん、なんか元気になった?」
「生きる気力が湧いてきたわ。ふつふつと」
「そんなに!?」
夜だということも忘れて、思わず大声を出してしまうリクル。テテリはそんな愛しい娘の姿を見て微笑みながら、頭のなかでリクルにフリートを攻略させるための作戦を考え始めた。幸い――ではないが、考える時間はたっぷりとある。
迷惑にならない程度に、かといってほかの女にかっさらわれないように、フリートにリクルという少女が持つ魅力をアピールしなければ。
(可愛いし、気立てはいいし、真面目で一途。こんな彼女滅多に見つからないわよフリートさん……是が非でも実らせてみせるわ……)
かつて住んでいた町で多くの恋を実らせてきたテテリは、昔のことを思い出しながら決意を固めた。
フリートは知らない。
圧倒的な絶望に追い込まれているこの町で生きる住人たちが、とてつもなく強い精神を持っているということを。
戦う術を持たない人間が持つ、強固な精神を知らない。精神が弱い人間はとっくの昔に淘汰され、今生きている人間たちは、ある意味エリート中のエリート――ただの町の住人ですら、英雄に匹敵し得る精神性を持っていることを。
そんな彼らが本気になったときのパワーを、フリートはまだ知らないのだ。