第28話 戦う理由
俺が完全に気づいているということを悟ったのか、リクルの表情が変わった。
「いつからだ?」
「ついさっきだ、ネメリア」
時が止まったかのように動きを止めるセラ。その中で、俺とリクル――否、ネメリアだけが動く。ここは俺とネメリア、二人の精神世界だ。《揺蕩う幻世界》、俺とネメリアの二人の記憶と能力が干渉しあって生まれた世界。
「私はお前の思考と感情を完全にトレースした。これがお前が望む、最も幸せな世界だ」
「ああ、その通りだよ」
「なぜ気づいた? 私の記憶挿入と消去に問題があったのか?」
「いいや。完璧――だよ。実際、今お前と話している俺は、お前と出会う前は思い出せない。なあ、ネメリア。これ、戻っても記憶はないままか?」
「そんなことはない。この精神世界が終われば、私の残した影響は全て消去される。ああ、いや、嘘だ。消した記憶は戻っては来るが、今の記憶がなくなるわけではない」
俺の思考と感情をトレースした影響なのか、口調も滑らかになり、より人間らしい話し方をしてくるネメリア。リクルの姿で、無感情にしゃべられると、俺の心が痛む。今すぐにでもすべてを投げ出して、温かい幻想世界に戻りたい。
「ならば戻ろう。今のお前の感情もトレースしている。何を迷う必要がある? ここの記憶だって消してやる。今のお前は覚えていないが、前のお前はいつか死ぬ、できれば苦しみたくはない――そう考える奴だったんだぞ。この状況は、限りなくその望みに近い。私なら、お前のその諦めの夢をかなえてやれる」
ネメリアが話す。必死に。それは、魔獣であったネメリアにはなかった。
「……」
「だんまりか。まあいい。だが、聞きたいことがある。フリート、どうやって私の記憶の操作に気づいた?」
「……きっかけは、しょうもないことさ」
たった一つ。きっと、ネメリアには理解できない。
「教えてほしい。そうすれば、それも消してや――」
「消せないさ。いつだって、何回やったって、俺はそれを思い出す。最低でくそったれな、最悪の呪いだ」
「……」
ネメリアが黙る。
俺は、心のうちから這い上がる感情のままに叫んだ。
「ああ、最悪だよ! よりによって、俺が望んだ幸福の最高潮で! 俺の心が囁くんだよ! 『こんな幸福はあり得ない』ってな!!」
それは最悪の呪いだった。
「記憶を消されて! 幸せな夢を見て! 眠ることさえ許されないんだ! 信じ切れるか! こんな平和な世界で、俺が望んだ幸せな夢をいくら見ても、俺の心と体が認めないんだよ! 『こんな世界はあり得ない』『夢に決まってる』『目を覚ませ』ってな!!」
幸せになれない――なったことのない者が抱える、欠陥。
「……であれば。今度こそ掴めばいいではないか。幸せな世界を。幸福な夢を」
「なあ、ネメリア! お前、なんでそんなに必死なんだ?」
「必死? 私が?」
ネメリアの無表情に罅が入る。
「ああ、必死さ! お前、俺を殺すことが目的だよな。なのになんで、俺に悪夢を見せない? 俺の望んだ世界を見せる?」
「それ、は。お前を閉じこめて、この世界で平和に殺してやろうと……悪夢は精神的な負荷は大きいが、突破されるリスクもあ――」
「違うね。お前は俺だ。俺の思考と感情をトレースしたお前は、俺になったんだよ。だからお前も――幸せな世界を、望んだんだ」
「そんな。そんなはずはない! 私は“貴婦人”によって造られた新種の魔獣だ。人間に憑りついて殺す。それ以外の望みなんかない!」
ばかばかしい。俺は必死に言い繕うネメリアを鼻で笑う。俺もこいつも、滑稽極まりない。壁を相手に社交ダンスを練習しているような滑稽さだ。
「そんなのは俺じゃない。もう、お前の中に、魔獣としての望みはないはずだ」
もう一度、ネメリアが黙る。
「なあ、ネメリア。前の俺はどんな奴だったんだ? もう覚えてなくてな」
「……どうしようもない、クソ野郎だ」
「なあ、ネメリア。現実は過酷なんだろ?」
「……そうだな。まあ、死にたくなる程度には」
「なあ、俺」
訊く。
「わからないことは、あるか?」
答えが来る。
「ある」
「訊けよ。答えてやるぜ」
俺の問いかけに、俺は答えていく。
「なんでそこまで辛いのに立ち上がろうとするんだ?」
「知るかよ。体が勝手に立ち上がるんだ」
「なんで幸せな夢を拒絶するんだ?」
「知るかよ。心が勝手に否定するんだ」
「なんで思い通りにならないんだ?」
「知るかよ。世界が俺より理不尽なんだよ」
「……なんで、戦ってるんだ?」
「ああ。やっと答えられる質問だ」
俺は答える。
「なんとなくだ」
「……くっ、はっ。ケキャハハハハハハハッ!!!」
ネメリアが笑う。
「おい、俺。その気持ち悪い笑い方やめろ。品性を疑う」
「うるさい、俺。元からだ。なんだよ! わからないのか! お前にも!」
「わかるわけないだろ。俺だってお前の夢で一生を暮らしたいわ」
「そりゃそうだ! 俺だってそうしたい! それでも、お前は立ち上がるんだな!」
「立ち上がるっていうか、体が勝手に動くというか」
「わからない! 何もわからない! 人間がわからない!」
「おい、俺。完璧にトレースしたんじゃなかったのかよ」
「トレースしたのは思考と記憶と感情だ。理性は別物、もとのネメリアだ」
「……理性と思考って違うのか?」
「こればっかりは感覚的なものだからな、説明はできないな」
「そういうもんか」
「というよりも、そうか。お前がわからないんだから、俺にもわかるはずがなかったのか!」
「そりゃそうだろ。本人が答えを出せないのに、物真似野郎に答えられてたまるか」
ネメリアが笑い、俺は渋面を作る。
「それもそうか。で、戻るんだな?」
「ああ」
「現実は厳しいぞ? お前の想像より、何百倍もだ」
「行ってから考える」
「戻ったときに、心が折れるかもしれないぞ?」
「また立ち上がるだろ、たぶん。きっと」
「最後の質問――私と一緒に、幸せな夢を見るつもりはない?」
セラの声で、リクルの顔で、ネメリアが問いかける。
「見ても、どうせいつか起きる」
「キャハハハハハハッ! わかった! 理解はできないけど、感覚として伝わった!」
リクルの姿がほどけ、黒と白が入り混じった蝶の姿になる。ひらひらと浮遊しながら、彼女――は、じっと俺を見つめた。
「じゃあ、これでお別れね、フリート。現実は厳しいけど、頑張りなさいな」
「ああ、そうするよ。じゃあな、ネメリア」
「私、諦めたわけじゃないからね。貴方が幸福な夢にどっぷり漬かれるようなら、いつでも引きずり込んであげる。適当な相手に膝を屈したら、意地でも立ち上がらせるわ」
「……ああ。それは、きっと、辛いな」
「責任はとってもらうから、そのつもりで」
「なんもした記憶がないんだが?」
「私を貴方にしたでしょう? その罪は重いわ」
「全く、さすが俺だ。屁理屈だけは上等だ……」
「自覚がある分性質が悪いってわかったでしょ?」
黒と白の蝶が舞う。ひらひらと揺らめき、くるくると廻る。
「なあ、ネメリア。お前、【幻死蝶】じゃないんだろ?」
「ええ、違うわ。“道化”は【悪意の蝶】って呼んでたけど」
俺の顔が歪む。
「記憶はないが、本能的にその名前は嫌いだ」
「私も嫌い」
「そうか。じゃあ、俺が新しい名前をやる」
「名前? ネメリアじゃなくて?」
「個体名じゃない。新しい種族としての名前だ」
――【鏡感の蝶】。
「オシャレな名前ね」
「人の思考と感情を持つ魔獣。鏡合わせのように、感情を共有する蝶の名前だ」
「……うん。気に入ったわ。少なくとも【悪意の蝶】よりは、ずっと」
「そうか。それはよかった……」
ネメリアが舞う。
「これが1つの形なのね……フリート。貴方が思っている以上に、私とあなたの存在は大きいものなのよ?」
「そう、なのか?」
「ええ。きっと、これからの戦いで世界の真実を知ったとき。そのときのあなたの選択を期待しているわ」
「……これ以上、頭痛の種を増やさないでほしいんだが……」
ゆっくりと、周囲の空間が剥がれ落ちていく。まるで蝶の鱗粉のように、黒と白の光が剥がれ落ちていき、視界が2つの光で染まっていく。
「じゃあ、行ってらっしゃい。辛く厳しい現実世界へ!」
「――ああ、行ってくる。さよならだ、穏やかで幸せな夢の世界」