第26話 ユメ
その日、俺は妹のリクルに揺らされて目を覚ました。
「おはよう、兄さん。調子はどう?」
「調子……」
体の調子を確認する。頭は妙にすっきりとしているし、体のどこも痛くはない。腹痛もないし、変な倦怠感もない。疲労も残っていないし、昨夜は実によく眠れたのだろう。
「すこぶる健康だな」
「もー、真面目な顔して考え込むから、不安になっちゃったじゃない!」
明るく笑うリクルの表情に、俺は安堵の息を吐く。昨日から風邪気味で寝込んでしまっていたが、どうやら妹の不安を取り除くことには成功したようだ。
「朝ごはんできてるよ!」
「毎朝ありがとな、リクル」
ベッドからおりて居間に向かえば、テーブルの上には湯気を立てる美味しそうな料理が並んでいた。どれも朝ごはん用とは思えないほどに手が込んでいる。
「相変わらず、リクルは料理がうまいな」
「練習したからね!」
自慢げな表情をするリクルに、かすかな違和感を覚える。リクルの料理――は、前から、美味しかった。練習を始めたのは――
最、近……?
いいや。そんなはずはない。これだけの料理を作るのに、多少の練習ではありえない。どれも店に出して遜色ないレベルで作られている。
ああ、思い出した――セラの料理の腕のせいで、外食ばかりだった俺たちの食事環境の改善のために、リクルが練習を申し出たんだった。そのときはセラが事あるごとに『滋養強壮のために』とか言って毒物を取り出すからすぐ除外されたんだっけ。
「……どうせ私は料理が下手ですよ」
「そんなことはないよ、セラ」
下手というか、料理ではないというだけだ。
「……本当に?」
「ほんとほんと」
「じゃあ今日の夕飯は私が作るわ!」
「人には向き不向きがある。セラは2度と台所に立たないでほしい」
「わ、私も、遠慮したいかなー、なんて……」
「……」
見るからに落ち込んでしまったセラ。昔はまるで針山のように尖っていた彼女も、結婚して家を持つようになってからはずいぶんと丸くなったものだ。リクルを養子にしようと連れてきたときは荒れ狂ってたが。
「まあまあ、得意なことは得意な人に任せよう、セラ」
「……それもそうね。仕事の時の役割分担と同じよ。そう、そういうこと」
「で、セラ。今日の予定は?」
暗殺者としての生き方しか学んでこなかった俺たちが、こうして平和な生活を送れているのには理由があった。
「んー師匠と一緒に警備かなー」
「ベネルフィさんのところか」
「そーそー。魔法って楽しいよ、フリートも習ったら?」
「俺、『適正なし』って弾かれたんだが?」
「そうだっけ?」
『魔女』ベネルフィにスカウトされ、魔法の腕を磨くことになったセラは、早くもその実力を示し始めているらしい。暗殺者としても超一流だったし、こいつの才能には勝ち目がない気がする。
そしてこのベネルフィという女性は偏屈で、『魔法の修行を『生活が苦しい』とかいう理由で中断したくない』という理由で、弟子であるセラに給金を支払っている。相場より多めに。なんでも、『お金をかけても才能は産まれないんだから、出会えた才能にお金をかけるのは当然』らしい。英雄の考え方はよくわからない。
「フリートは?」
「うーん……いい仕事があればいいんだがな……魔獣討伐か……」
「適当に蹴散らしなさいよ」
「や、そこはもうちょっとこう、心配するとかね? 一応命を賭けてるわけですよ俺?」
「私が夫に選んだ男がそこらの魔獣に後れを取るわけないでしょ」
しれっと言われたセリフに俺は面食らい、照れくさくなって目を泳がせる。面と向かって言われるとくすぐったい……と思ってセラを見ると、表情は無表情だが耳まで真っ赤に染まっている。
「……なによ」
「……いや、自分で言った言葉に自分で照れてて、可愛いな、と」
「なっ」
さらに顔を真っ赤にしたセラが反論しようとしたところで、ガンッ! と食器が跳ねた。
「お食事中はご静かにお願いしますね?」
「「……はい」」
どうやらリクルがテーブルを蹴り上げたらしい。静かに怒りの表情を浮かべるリクルに、胃袋を掴まれている俺とセラは縮こまるしかない。だがそれはそれとして、兄として保護者として、言っておかなければならないことがある。
「だ、だがリクル。食事中の机を蹴り上げるのはどうかと思……」
「なにか問題でも?」
涼やかに返され、俺は言葉に詰まる。
「女の子として、だな。こう、もう少しおとなしく……」
無言でリクルの視線がセラに移る。俺はつられてセラを見て――
「?」
彼女にされた数々の、おとなしいとはとても言えないコミュニケーションを思い出し、口を噤む。
「わかっていただけたようでなによりです。それに、私モテますよ?」
「なにっ!?」
「あら、フリートそんなことも知らないの?」
あそこで何故か勝ち誇っているアホは放っておいて、リクルがモテるという話は初耳である。
「昨日も告白されましたし」
「リクルちゃんはモテモテなのよねぇー?」
「はい。姉さんと違って」
俺にやり返すためにリクルにすり寄ったものの、すげなく煽られてセラの額に青筋が浮かぶ。セラを努めて無視し、俺は今急遽浮上してきた懸念事項を解決すべく問いかける。
「昨日『も』? 相手はどこのどいつだ」
「いや、言っても兄さんわからないと思うので。あと普通に暗殺とかしそうなので言いません」
「リクルちゃんすごいモテるのよねぇ。なんでかしらね?」
それは俺も知りたい。リクルと同世代の男に聞けばわかるだろうか。
「まずこの低い背ですね。胸はあんまりないですが、この背丈は同世代の男子平均より低いので、庇護欲を刺激するんでしょう。あとは料理が美味いというのもポイントが高いと思います。同世代の女子のようにきゃいきゃいはしゃいでいない、落ち着いているとかもたぶん理由ですね。あとたまに見せる笑顔とか」
「怖い……この子、自分の強みを完全に理解してる……怖い……」
朝食を口に運びながら、冷静に自分の強みを考察するリクルに、俺は恐れた。ここまで自分の魅力を理解していれば、同世代のアホな男どもなんて手玉に取り放題なのでは……?
「ああ、あと、ガードが堅い、っていうのも理由のひとつかもしれませんね。男ってなんでたいして話してもいないのに告白してくるんですか? なんか奇跡とか起きてオッケーされるとでも思ってるんですかね?」
「やめてあげてもらっていい? 俺もなんか、そういう青春を過ごしたわけじゃないからアレなんだけど、なんかすごい心が痛い……」
「自分の魅力を理解する……なるほど……」
「いや、姉さんは今更理解しても遅いと思います」
「それは年寄りって言いたいのかしら……?」
リクルは不自然にそっぽを向き、早口で返した。
「お二人はもう十分幸せなので。これ以上、望むことなんてないんじゃないですか?」
幸せ。
不意に、その単語が現実味のある言葉として胸に落ちてきた。
「幸せか……」
確かに、そうなのかもしれない。明日の絶望に怯えず、死の恐怖とも戦わず、日々を緩やかに穏やかに過ごす。子供はいないが、健気な妻はいるし、仕事も暮らしも安定している。
これが、幸せと言わずになんというのだろう?
「……セラ。今、幸せか?」
「そうね……言われるまで考えなかったけど。確かに、今すごく幸せなのかも」
「間違いなく幸せです。悩みなんてないでしょう?」
「……いや、ある」
俺がわざと渋面を作ってリクルに言うと、リクルはひどく驚いた表情で俺を見た。そんなにお気楽な人間に見えているのだろうか?
「リクルがモテすぎる。兄として、心配だ」
「自慢の妹じゃないですか! ちょっとモテるくらい許してくださいよ!」
食べ終わったらしいリクルは、怒りながら食器を運び始めた。俺はともかく、セラは時間通りにベネルフィのもとに行かなければ、帰る時間が遅くなってしまうだろう。
怒りながら食器を洗いに行ったリクルを笑って見送り、魔女の元へ向かうセラを見送る。そのあと俺は自分の部屋に戻り、いつものコートと安物の剣を佩いた。
「さぁて、俺も行きますか」
セラがベネルフィからもらっている給金は、一般家庭ならば問題なく養える額だ。しかし、リクルは年頃の娘で、お金もなにかと入り用になる。貯金を作るために、魔獣を狩っておくのは悪いことではない。安全も確保されるし、と俺は言い訳をする。
実際は、妻に養われている男という立場が嫌なだけなのだが。
リクルに見送られて家を出た俺は、集合場所まで少し急いで歩く。
「よう」
「おお、ようやく来たか。フリート」
待ち合わせ場所にいた男に、俺は軽く手をあげて応えた。この町に来てから知り合った冒険者だが、腕も確かで気が利く男なので、何度も組んで仕事をしている。
「何してんだ、セルデ」
「いや、そこの焼き鳥屋があんまりうまそうな匂いがするからよぉ……」
「いや、そっちじゃない。その座っている女の子のことだよ」
学生服に身を包んだ少女が、冒険者の鎧を着ている大男の隣にいるのは奇妙な光景だった。チラチラと道行く人が見る程度には。
「君、フェルーリ学園の生徒だよね? どうしたの?」
「はい! 噂の『剛腕』のセルデさんと、『無音』のフリートさんに直撃インタビュー! ということで取材です!」
くるり、とその場で回って見せた少女。俺はすぐに興味を失った。
「これで何回目だよセルデ」
「いや、こういう広報活動も大事なんだよフリート。俺らあての依頼も増えてるだろ?」
「ばっかやろ。こういうことするとへそを曲げる奴がいるだろうが」
「それはフリートがいつもの口車でなんとかしてくれ。頼んだぞ」
「はぁー? お前へそ曲げたあいつのめんどくささなめんなよ?」
「げっ来た! よろしく!」
セルデが隠れたので、必然的に俺がそいつの相手をすることになる。
「……そこの学生はどういうことだ。説明してもらえるな、フリート」
「知らん。そこの馬鹿が勝手に連れてきた」
「お、おい、フリート!?」
「……ふん。まあいい。そこの学生!」
「ひゃ、ひゃいっ!」
「私とセルデの雄姿を余すところなく伝えるように。できれば女性徒を中心に」
「はいっ! はい……?」
腰に長い剣を佩いた痩身の女性。遥か東の海に浮かぶ島国から来た、『斬鉄』のカンナだ。
「おい、どうした。前は嫌がっていたじゃないか」
「当然だ。こんな食べ頃の少女がいたら、うっかり間違えて襲い掛かりかねん」
「お前ほんっと最低だな」
「で、襲い掛かってしまうと私のチヨ様に対する背信行為になるな、と思っていたのだが」
この時点で俺は既に聞く気が失せていたが、カンナは勝手にしゃべり続けた。
「よく考えたらな、出張先で趣味をするのは別に主を裏切ったわけではない、ということに気づいたのだ。なに、少々つまみ食いしようがチヨ様に対する我が忠誠、小揺るぎもしないわ。なので問題なし。のーぷれぶれむ」
「お前無理やり行ったら止めるからな、人として」
見栄えのする戦い方をする二人にとっては取材はありがたいのだろうが、基本背後から不意打ちをするのが役割である俺からすれば、若干面倒な存在ではある。女生徒のキラキラとした目線は、主にセルデとカンナに向いているようだし……害もないが、特に利もないのだ。
「……じゃ、フリートの嫁さんに見つからないうちに行くか」
「ああ、そうしろそうしろ」
「ふむ。私も彼女とやりあうのは遠慮したいところだな。ああいや、ベッドの上であればやぶさかではないが――」
「お前もう、ほんっと黙ってろ。夫の前でそういうこと言うな」
「……少々配慮が足りなかったようだな。すまない、フリート」
「足りないのは配慮っていうか常識ね。東の島国ってどこもこうなのか?」
「いや、基本的に温厚で和を尊び、困ったときは皆で助け合う国だぞ」
「良い国じゃん」
「それがえすかれーとしたせいで、協力しない人間は爪はじきされるし、陰で陰湿な嫌がらせを受け続けることになるがな」
「嫌な国だな」
「全くだ。私も婚約者が国にいるがな、男気のかけらもない奴だ。いや女々しくたって困るんだが、股間についているものを切り離して美少女になってから婚約者になってほしい」
「待ってその情報初耳なんだけど。婚約者!? 婚約者がいるの!? お前もう5年くらいこっちの大陸にいるって言ってなかったか!?」
「うっかり事故とかで死んでくれればいいなと思っている」
「聞かなきゃよかったよ」
しょうもない会話を続けながら、俺たちは町の外に向かって歩き始めた。