第24話 【従順なる獅子】
へたくそな鼻歌を聞きながら、俺はとりあえずこの光景を受け入れることに決めた。俺はフリート、テッタ公国の暗殺者をやめ、同じ暗殺者であったセラと国を亡命し、今ここで幸せな生活を営んでいる――らしい。
(設定に無茶がありすぎるんだが、どうすればいい?)
冷静な頭脳が語り掛ける。まず、セラの鼻歌だが、これは聞き覚えがある。おそらくだがネメリアは、俺の記憶の中にあるセラの姿しか再現できないはずだ。そうでなければ、作られた人格に作られた癖、それはもはやセラではない。セラの姿を真似た別人だ。
そうではなく、俺の中にあるセラの記憶を抽出し、組み合わせて投影する。それならば違和感はないし、幻覚に現実味を持たせることができる。
「フリート、もう落ち着いた?」
「ああ、心配かけたな、セラ」
いたって冷静だ、俺は。そのはずである。
弛緩していく。緊張していた筋肉と精神が緩み、この空間を受け入れ始めている。
『……』
それこそがネメリアの狙いなのだとわかっていても――俺はその領域に踏み込むしかない。
外部から救助の手が伸びているとはいえ、救助がいつになるかはわからないし、目が覚めたと思ったらギベルの町が滅びていました、では冗談では済まされない。
――昔と違って、今の俺には護るべき人が……
「っ!」
「……なにかしら。今、とっても不愉快な思考を感じたのだけれど?」
目の前に突き付けられたダガーに、俺は両手を上げて降参のポーズをとる。
「そう、具体的に言うのであれば。あの日私の決死の告白を受け入れて、二人一緒に亡命して艱難辛苦を乗り越えてゴールインした愛しい男が、まさかとは思うけれど別の女性のことを考えていたような、そんな気がするのだけど?」
「……ははっ、まさか。そんなわけないじゃないか」
「そう、そうよね。私の早とちりだったわ」
愛が重い――というか、俺はこんなセラは知らない。確かに、執着が強く、気に入った物は手放さないタイプの性格をしていたが、ここまで俺を束縛するセラを知らない。恋人関係になったことがないのだから、こんなセラは俺の記憶にないはずだ。だが、このセラに違和感はない。他人がセラを演じているような、不自然さは存在しない。
『……』
考えられることは、たった一つ。ネメリアは――俺の記憶から、『セラと暮らしていたら』という幻想や想像、妄想を読み取れる。そして『俺が考えるセラ』を忠実に再現できるのか。
俺はぞっとする。ネメリアが作り出す幻想世界では、ネメリアが支配者だ。そこで、ゆっくりと精神を侵食され、気づけば幸せな夢の中にいる。そのまま幸せに死ねばそこで終わりだし、突然ネメリアによってその幸せを壊されれば、狂う人間は少なくないだろう。
「……俺は。認めないぞ、ネメリア」
景色が歪む。
目の前にひらひらと、優雅に舞う黒と紫の蝶が現れる。
『……イズレオ前ハ受ケ入レル。人間ノ精神ハソコマデ強クナイ』
「……俺がこれを幻想だと知っている限り、俺がその幻想に屈することはない」
ひらひら、ゆらゆらと舞う蝶の前に、俺の心を不安が襲う。
本当に? この幸せを前にして、俺は――
『ワカッタ。オ前ガナゼ、サッキ心ガ折レナカッタノカガ』
「ほう? 聞いてやろうじゃないか」
挑発的な言葉を返しながらも、俺の心の中に広がる不安の雲は収まらない。
やめろ。聞くな。ネメリアが何を言おうとしているかはわからないが――ひどく嫌な予感がした。
『オ前ノ心ハ、』
……やめろ。
『トックノ昔ニ、折レテイル』
やめろ。
『ナゼ、剣ヲ』
やめてくれ。
『突カナカッタ?』
その言葉は、受け入れられなかった。反発することもできなかった。ただ、俺自身が薄々と感じていた可能性を、見せられた。ただ見せつけられた。
折れているという証拠を。戦う意思が折れていて、小賢しい思考でうまいこと絶望をやり過ごそうとしていた。その事実を、ネメリアは突き付けてくる。
この時間で、ネメリアは俺の記憶と思考をトレースしたのだろう。
「……俺の最も得意な戦闘スタイルは、背後に回って剣を突くこと」
『……オ前ノ得意ナ戦闘スタイルハ、剣ニヨル一突キダ』
俺の言葉はネメリアの言葉であり。
「けどなぜか、リクルを突かなかった」
『オ前ハ突ケナカッタ。自分ノ中ニアル――』
ネメリアの言葉は俺の心だ。
「殺意を」
『認メラレナカッタ』
敵であれば突けばいいのだ。幻影であれば言葉を聞かずに突けばいいのだ。
「たとえ、わずかでも」
『目ノ前ノ少女ヲ、受ケ入レタ』
なのに――
「何故か、斬りかかった」
『明確ナ敵トシテハ見テイナカッタ』
――いや。
「『――みタくナかッタんダ』」
ひらひらと舞っていたネメリアの姿が変わる。気づけば周囲の空間は黒と紫が支配する、汚泥のような空間に変貌していた。いつの間にか泥に手をついていた俺の両手両足を、漆黒の泥が上っていく。
「俺はもう疲れたんだ……」
やめろ……。
「いずれ滅びる世界だ。いつ死のうが、どうやって死のうが俺の自由だろ?」
俺の姿で。
「辛い現実を見る意味なんてない。どうせなくなる、護りたいモノにどんな価値がある?」
俺の、声で。
「俺が頑張る理由なんてない。もうとっくに、俺の戦いは俺の負けで終わってる」
……俺の、心を。
「は、ははは。なにもない。なにもないんだよ、俺には。復讐心すらない。希望もなければ夢もない。絶望すら、許されない」
喋らないでくれ。
「目を背けていただけだ。何か意味があるはずだ、何か希望があるはずだ。そんなものはないのに」
泥が上ってくる。
「滅びの時期を延ばす? バカバカしい。その過程で、俺は死ぬ。仲間も死ぬ。もうたくさんだ」
泥が上ってくる。
「俺は弱い。そんな苦痛には――」
泥が上ってくる。
「「耐えられない」」
視界が黒く染まった。
† † † †
「反撃の時間だ」
「よぉ大将! ついに必殺技のお出ましかい?」
『軍神』オーデルトと『拾声』キッカが、氷で生み出された鳥から飛び降りて着地する。少し冷たそうに手をこすりつつも、二人は油断なく周囲を見渡した。
「『氷牙』、君も降りてきてくれ」
「はぁーい」
黄金色の光と、白と水色を合わせたような光を放つ女性が、地面に降り立つ。その場所には、6人の英雄が集まっていた。
槍を担ぐ『断罪』のトロー。
拳を握りしめる『剛腕』のセルデ。
気の抜けた笑みを浮かべる『氷牙』アディリー。
不安そうに周囲を見渡す『拾声』キッカ。
不敵に笑おうとしてひきつっている『裂速』のウェデス。
そして、人類の守護者たる『軍神』オーデルト。
「セルデ、部隊は誰に預けたんだ?」
「あん? 『鳴滅』に任せたよ。少しは大丈夫だろ」
「……そうか」
彼女の性格を知っているオーデルトは不安になるが、少なくとも試算の上では問題ない。
「ウェデスがいたほうが楽だろう?」
この『剛腕』のセルデという男は、考えてもいないのにオーデルトの考えを見抜いてくることがある。
「ああ、いてくれると助かる。では、まずシャルヴィリアと合流する――」
オーデルトが手早く作戦を説明し、6人の英雄たちは行動を開始する。
レヴェオが空を見上げたのは、そこに強者の気配と――黄金色の輝きがあったからだ。もう日は傾き、そろそろ夕方になろうというこの時間に、空中に光があれば目立つ。その光を放つのは、槍を持った禿頭の男だった。
「地より生まれし者、霞より這いずる者、風に乗って漂う者、水に漬かり揺蕩う者、雲より落ちゆく者――」
その言葉の意味はわからない。だが、レヴェオは思考を捨て、理性を投げ打ち、魔獣の本能に従ってその場を逃げ出した。なりふり構わず、ただ『この場にとどまれば死ぬ』という本能の悲鳴が彼を動かした。
「生きとし生ける者どもよ、私が断じる。無罪有罪、冤罪重罪、一向に構わん。今ここにいることがそなたらの罪である!」
意味がわかれば、文句のひとつやふたつはぶつけないと気が済まないほどに傲慢な言葉。
「我が名はトロー。『断罪』のトロー。魔獣どもよ、疾く大地に還れ!!」
精霊信仰者らしいセリフを、最後の最後に付け加え。
禿頭の大男、トローは槍を――
投げ出した。
投げつけるのでもなく、叩き付けるのでもなく、まるでゴミか何かを捨てるかのように放り投げた。このままだと、ただ地面に落下して終わりである。
――もちろん、そうはならない。
黄金色の光が走り、槍が落ちる。
やがて魔獣たちは違和感に気づくのだ。
――あの槍、あんなに……大きかったか?
「潰れよ」
豪快な音を立てて、巨大化した槍が落着する。大地に落とされた銀色の槍は多くの魔獣を巻き込み、すり潰し、押しつぶした。
巻き上がった土砂が収まれば、そこにはまるでギロチンのように大地に落とされた銀色の槍があるのみだった。
「ひゅー! 相変わらず豪快だねぇ、トローの旦那のは!」
「でー、私は、あの黒いの捕まえればいいんだねぇ?」
「ああ、頼む『氷牙』。で、キッカ。シャルヴィリアと回線を開いてくれ」
「えー……わかりました、ですって……」
ウェデスが震える語尾でトローの一撃を褒め、アディリーがのんびりと自分の役割を確認し、オーデルトの頼みにキッカが非常に嫌そうに黄金色の光を走らせる。
『あーシャルヴィリア。聞こえるか?』
『ああ、オーデルト様! いったいどこにいたんですの!? 私、私不安で仕方なくて! 嫌な夢を見たんですの、それで目が覚めたら周りに醜悪な魔獣がいっぱいいましたので、オーデルト様のために――』
一度息継ぎをする。
『皆殺しにしたんですの!』
『――ああ、わかってるよ。よくやってくれた、シャルヴィリア』
『ああ、オーデルト様! どちらにいるんですの!? 私、もう不安で胸が張り裂けそうで――』
『シャルヴィリアがいるところからまっすぐ砦に向かって戻ってくれ。そこにいる』
『はい!』
遠くに見えていた黄金色の光が、魔獣を蹴散らしながら一直線にオーデルト達に向けて走ってくる。その間にも『軍神』は次々と英雄たちに指示を出す。彼が状況を見定め、的確な戦力を配置し、英雄たちが集うという過剰な火力を、最も効果的な一瞬に運用する。
「……伊達や酔狂で人類の守護者なんて呼ばれてるわけじゃないのさ」
セルデやアディリーが指示通りに動き出すのを確認しながら、オーデルトは近づいてくるシャルヴィリアの光が眩しすぎて目を逸らした。