第22話 【悪意の境界】
周囲を見渡して溜息を吐く。この光景に覚えがあるから、ではない。この風景が、先ほどの蝶型の魔獣によって作り出された物だと即座にわかったからだ。
「――幻覚だとわかっていれば、こんなもの恐れる理由がない」
のどかな花畑が広がる光景。テッタ公国の中にある、自然公園と呼ばれていた区域の光景だ。
「どんな幻影を見せても無駄だぞ。種が割れている手品ほど、つまらないものはない」
花畑の向こう側から、人影が歩いてくる。ここはテッタ公国の中だ、そこで俺が関わりが深い相手など数人しかいない――
「……久しぶりだね、フリート」
「ベシュルタ……ああ、久しぶりだな」
青年は静かに笑う。隣に住んでいたただの青年だ。テッタ公国の暗部を知らず、平和な観光資源で成り立っていると信じていた純朴な青年。俺の仕事なんて知らずに、ただパン屋を営んでいた普通の青年だ。
「俺、死んじゃったよ。君のせいで」
頭が割れる。流れ出す赤黒い血液が、静かにベシュルタの顔を濡らしていく。相変わらずほほ笑んではいるが、その笑顔からは隠し切れない怒りと俺を非難するまなざしが飛んできている。
「そうか」
「君が魔人狩りなんてしていなければ。この国が“道化”に滅ぼされることなんてなかったのに」
「どうせ滅んでるさ。早いか遅いかの違いだけだ」
俺が淡々と返すと、ベシュルタの笑顔が憤怒に染まる。
「君さえいなければ! 僕たちはあの国で平和に暮らせていたのに! 君なんかがいるから……!」
「そうよ、フリート君。貴方さえいなければ私たちは……」
「そうだぜ兄ちゃん! お前さえいなければママも死ななかったのに!」
「お前が悪いんだ、全て……」
「お前だけ死ねばよかったのに……」
気づけば、のどかな花畑だった場所は燃え盛る瓦礫が支配する黒い汚泥のような空間に変わっていた。両足が黒い泥に飲み込まれていくのを感じながら、俺は周囲を見渡す。
幽鬼のような、亡霊のような存在が口々に俺をなじる。
「今さらな話だ」
剣を抜き放ち、一閃する。別に破邪の効果なんてない、ただの剣なのが、それだけで亡霊たちは一瞬怯んだようだった。本当にこいつらが悪霊、亡霊の類なら物理攻撃なんて気にする必要はないというのに。
「俺は俺の生きたいように生きる。少なくとも、幻影なんぞに負けはしない」
力強く宣言すると、亡者たちは崩れ落ちた。黒の汚泥の中に沈んでいき、代わりに無数の白い腕が生えてくる。
「こういう趣向か……」
言葉にはなっていない、嘆きのうめき声が空間を支配する。
「しかし、これどうやったら抜け出せるんだ……」
あの蝶型の魔獣が喋っていたところによると、外部から攻撃されているらしい。待っていれば、このまま外の人間があの魔獣を引き出してくれるだろうが……それを待つのは、どうにも俺の性格には似合わない。
「とりあえず、色々探してみるか」
俺は右足を黒い泥から引き抜くと、一歩を踏み出した。周囲を蠢く半透明の青白い手がまとわりついてくるが、適当に振り払うと簡単に振りほどけた。どうやら、物理的な拘束力はないらしい。
「やれやれ。おい、聞いてるんだろ? 諦めて俺を出してはくれないか?」
『……ネメリアトイウ名前ガアル』
返事があるとは思っていなかった俺は驚いた。ネメリア? 魔獣に名前があるということも、自我があるというのも初耳である。
「ネメリア? 俺にはお前の幻覚効かないから、出してくれよ」
『イイヤ。効イテハイル。時間ハカカルガ、オ前ノ心ハ必ズ壊レル』
「そうですかい」
ゆっくりと片足を引き出し、前に進んでいく。おおよそ10歩ほど進んだ時だろうか、周囲の景色が一変した。
「これは……ギベルの町か。というか、あれだな? 思い出深いな……」
フリートが見覚えのある景色に溜息をつく。この戦いに参戦するきっかけになった、リクルと出会った路地裏だ。
「……いやぁっ! 助けて! フリートさん!」
奥の路地から悲鳴が響いてくる。俺は自分の顔が歪むのを抑えられなかった。
「ちょいと趣味が悪いぞ、ネメリア」
『……』
返事は帰ってこなかった。どうやら行くしかないらしい、と俺は硬い石畳の地面を進んでいく。途中で路地を作り出す平積みの家に触れてみたが、確かに石の感触だった。
「……」
奥に進む。そこでは、浮浪者に肉棒を突き入れられて涙を流しながら泣き叫ぶリクルの姿があった。
「いやっ! いやぁっ! どうして、もっと早く! もっと早く助けに来てくれなかったの、フリートさん!」
「無茶言うな」
剣を振るう。浮浪者とリクルが切り裂かれ、地面に倒れた。俺はまた溜息を吐く。
「想像力豊かだな、ネメリア。俺の記憶を覗けるのか?」
『……従来ノ【幻死蝶】デハ、ヤレル事ト言ッタラ記憶ノ再現ノミ。私ハ、記憶ヲ繋ギ合ワセテ、作リ変エテ、オ前ニ効果的ナ幻影ヲ見セル事ガデキル』
「趣味悪いなやっぱり。“貴婦人”だったか? 外道だな」
『……否定ハシナイ』
俺が剣を振り払い、腰の鞘に納める。その背後で、死体が蠢き始めた。
「ひどい……ひどいよ、フリートさん……」
「……」
「私は、生きたかったのに……こんなところで死にたくなかったのに……フリートさんが殺したんだよ……? お母さんも、もう助からない……私がいなかったら、すぐ死んじゃう……」
「死んだなら喋るな、動くな」
袈裟懸けに切り裂かれた状態で喋り続けるリクルの死体。肩から腰にかけてバッサリと切り裂かれており、内臓も見えている――というか、腸とか胃とか見えてはいけないモノまで外に零れ落ちてきているのだが、その状態で話し続けるとは。
蹴る。それだけでリクルはよろめき、後ろに倒れた。
「……ひどい、ひどいよ……」
嘆きの声を上げ続けるリクル。それに対して、俺は強い違和感を覚えた。
――俺は今。
――なぜ斬った?
『……ナルホド』
景色が、切り替わる。
「なんていうかさ、趣味悪いよね本当」
それはテッタ公国で暮らしていたころの自分の家だった。自分の家、自分の部屋、自分の食器、自分の家具――だが、妙に食器や生活用品に可愛らしいものが増えている。
「おはよう、フリート。今日はどこ行こうか?」
いつもの黒装束ではなく、街中を歩いている娘が着ているような緩やかな緑色のワンピースを着ている。こうして見ると、どうやらセラは自分よりもかなり背が低かったらしい。俺の胸のあたりに彼女の頭がある。
「……」
あり得ない。これは幻覚である。テッタ公国の暗部から無傷で足を洗うことは不可能だ。ましてや逃げ出して家庭を築くなど。俺だって、仕事を辞めた後は常に監視の目が入っていたというのに。
「黙ってないでなんとか言いなさいよ、甲斐性なし」
「……いや、あまりにも突拍子もない方向転換に思考が停止してた」
「はぁ? なにそれ。いいから、出かけるわよ」
「面倒な……」
剣を振るう。こんな幻覚にいつまでも付き合うつもりはなかった――が。
硬い音が響く。フリートが振るった剣が、セラが取り出したダガーに受け止められていた。そのダガーは背中側がまるでフックのようにいくつも飛び出ており、剣を折るための構造をしている。ソードブレイカー、と呼ばれる武器だ。
「気でも狂ったの?」
そのダガーは、いつだったか。俺が彼女に贈ったもの。セラからは、『異性への贈り物がこれ?』と散々馬鹿にされたものだった。薄い緑色のワンピースに、無骨に銀色に光るソードブレイカーは全く似合ってなかった。いったいどこから取り出したのか――というか、外出する予定だったのに武器を持っていたのか。俺は一瞬疑問に思うが、すぐに納得する。
セラなら武器を持ち歩くだろうし、俺だってそうする。
「ああまあ、そうだな。死んだはずの人間が目の前にいるってのは気分が悪い」
「……フリート、大丈夫? 疲れてるの?」
紫色の濡れた瞳が俺を見上げる。剣と剣を交えた状態で、さも普通の人間同士のように会話を交わすのだ。そのあまりにも気が狂ったような風景に、その絶望的なまでの俺たちらしさに――眩暈がする。
「じゃあ、今日は休みましょう。ゆっくり休んで、出かけるのは明日。そうしましょう」
「……ああ。そうしてくれると、助かるな」
正面から行っても、セラならば防ぐ。それは当たり前だ、個人の戦闘技量、暗殺者としての腕ならば、彼女の方が俺よりも上なのだから。
俺は剣を収め、セラを見つめる。今の一撃で倒せなかったセラの幻影は、まだわずかに俺のことを警戒している。若干左足に体重が乗っているところからもそれがわかる――全く、空恐ろしいほどにセラそのものだ。
「……いや、違う、か」
これが、俺の中にあるセラの記憶の再現なのだろう。だから、癖も、強さも、言動も、俺の記憶通りなのだ。ある意味、本物のセラよりもセラらしい。
「朝食を作ったの。食べる?」
俺の記憶が確かならば、あいつは毒薬を持って行かなくても要人を毒殺できるほどの料理の腕前をしていたはずだ。見慣れていたはずの俺の家の扉が、やけに重苦しく感じられた。