第15話 過去からの襲撃
短めです
迂闊にも、『軍神』オーデルトはその存在に気づけなかった。遥か上空を飛翔するその生き物に気づいたのは、猛烈な風切り音を伴ってその生物が着陸を果たした瞬間だった。
「おい、あれ……【千影の怪鳥】か!? なんてもん連れてきてやがる!」
魔獣【千影の怪鳥】。その圧倒的なまでの機動力と、『人を浚う』という特性から非常に危険視されている魔獣である。本来、このあたりの険しい山々に生息していたが、数百年前にこの魔獣を恐れた人間たちによって北の山からは絶滅させられた魔獣。今や南に少数存在する山にしか生息していないと言われている魔獣だが――
「ゴアアアアアアアッ!!」
砦まで響き渡る咆哮。早朝に聞いた重く腹に響く咆哮ではなく、鳥らしいが凄まじく耳に残る甲高い不可思議な咆哮。単身突っ込んできた点を考えても、あれは統率個体ではないと、オーデルトは判断した。だが、最優先で討伐する必要がある――危険度の非常に高い敵だ。
「――キッカ、シャルヴィリアへの回線を開け!」
「りょ、了解ですって!」
オーデルトが呆けたのは一瞬、キッカが正気を取り戻すのに1秒。シャルヴィリアに伝達するのに数秒、出撃するのに十数秒。ぶつかるまでに約3分。あらゆる地域の英傑たちの力で、人間の軍隊にあるまじき即応性を持つギベル砦だが、その時間の間に、かの【千影の怪鳥】が再び飛び立たない保証などない。そしてひとたび飛び立ってしまえば、対抗手段などほとんどないのだ。
『シャルヴィリア! 【千影の怪鳥】が現れた、可能な限り早くあれを討伐してくれ!』
『……』
返事がない。
『シャルヴィリア!』
『っ、この! オーデルト様、すみません! しかし砦内に侵入されています! これを倒してからでないと行けません……!』
侵入!? オーデルトの脳内が一瞬で警告色に染まる。思考停止、という選択肢を放棄し、膨大な魔獣の知識からこの短時間で砦に侵入できる魔獣を特定する。
『【潜む影法師】か……! クソッ、なんて魔獣を……!』
『くっ、このちょこまかと!』
『そういうことなら私が出ます、『軍神』』
『……トローか』
『断罪』のトロー。第2遊撃隊の隊長であり、『戦乙女』シャルヴィリアと違い、そこまで自由に動かせる実力者ではない。だが、【千影の怪鳥】の羽毛は非常に硬く斬りづらい。『戦乙女』がもつ【神剣クーヴァ】ほどの名剣でないと切り裂くことはできないだろう。槍を扱うトローであれば、貫くことも可能だろうが……
「たいちょー、あの鳥撃ってもいいのかしら?」
「ダメだ、『氷牙』。【千影の怪鳥】に魔法は効きづらい」
「りょーかいー」
結局部隊を副官に預けて屋上に登ってきていた『氷河』が、のんびりと地平線を眺めながら返事をする。
『……よし。こうしよう、トローは第3遊撃隊を連れて岩影丸に向かえ。アレの討伐は『剛腕』に任せる』
『了解』
『シャルヴィリアは引き続き【潜む影法師】の討伐を頼む。そいつは影に潜む魔獣だ、徹底的に照らし出せ』
『了解!』
「『氷牙』はここで待機。【噛み砕く巨狼】がもう一度近づいて来たら魔法を撃て」
「はーい」
通話が終わったと判断したキッカが、能力を解除する。それがきっかけになったかのように、『軍神』オーデルトの背後の影が蠢いた。
「ッ、危ない!」
向かい合っていたキッカが先に気づいたが、そのときには既にオーデルトは剣を抜いて背後を切りつけていた。漆黒の体表に、飛び出たようなギョロ目を持つ蜥蜴のような魔獣が、飛びかかった姿勢のまま両断されて床に落ちた。オーデルトは一度剣を払って血を吹き飛ばすと、腰の鞘に戻す。
「“道化”め……どこまで予定外の魔獣を連れてくる……?」
【千影の怪鳥】。【潜む影法師】。どちらも、ふつうに生きていれば名前すら聞かなくなった魔獣たちである。かつて猛威を振るった魔獣といえば聞こえはいいが、裏返せば人類がそれだけの危険性を見出して絶滅寸前まで追い込んだ魔獣なのだ。そんな存在を次々と繰り出してくる魔人“道化”のシギーの恐ろしさに、オーデルトは背筋に冷たい汗が流れてくるのを自覚した。
† † † †
『軍神』オーデルトの誤算。それは、『剛腕』セルデが――現在気を失っているという状況である。魔獣にやられたのか? 否、やったのは味方である『無音』のフリートである。『断罪』のトローが返事をしたことによって、その些細な違和感はスルーされ、数分だが【千影の怪鳥】は自由の時間を得た。トローが岩影丸に到着し、復活したセルデがここにいることに気づくまで――人類側の出だしが遅れた。
【千影の怪鳥】が、飛ぶ。
遥か上空から砦の屋上を見下ろす【千影の怪鳥】。眼下に矮小な人間たちが蠢いているのを、異様に発達した両目で見極める。【千影の怪鳥】は本能に従って動き回っている小柄な人間に目をつけると、体内で生成された魔力を体に纏う。
そして翼を畳み――落ちる。
ただでさえ巨大な体は重力に従って加速していき――目標をはっきりと視認したタイミングで【千影の怪鳥】は翼を開く。急激に増した抵抗によって、【千影の怪鳥】の体が滑るように横に飛翔する。加速を一切減じさせることなく猛スピードで突っ込んでくる巨体。その鋭利な鈎爪が2人の人間をひっかけた。
人間たちがあげる悲鳴をすべて無感情に聞き流し、【千影の怪鳥】は遥か上空で鈎爪を開いて人間を落とす。本来であれば巣まで連れ帰ってエサにするのだが、今回だけは違う。
あの男が言ったのだ。『取り戻せる』、と。人類を滅ぼせば魔獣の世界が帰ってくるのだと。
だから、協力している。あのいけ好かない男と、犬猿の仲である獅子に協力してやっているのは、あくまでも同胞が生きていた時代に戻るため。
だから、奥にある町へ向かう。ここならば無抵抗に、無数の人間を殺すことができる。そう判断した【千影の怪鳥】は砦を通り過ぎて、ギベルの町で暮らす人間たちに目標を移した。
† † † †
状況は最悪に近い。二人の人間を浚っていった【千影の怪鳥】に向けて無数の魔法が放たれたが、急上昇する鳥には追いつけず、どの魔法も無意味だった。
「町に向かったか……」
オーデルトの思考は止まらない。原因よりも何よりも、今この現実に対抗するための最善手を探し求める。だが――魔獣たちにとってそんなことは関係ない。
ついに【噛み砕く巨狼】を先頭にして、足の速くない魔獣たちが岩影丸に迫っていた。現在岩影丸には第2、第1遊撃隊の二つの隊が存在している。
『セルデ、迎撃に向かえ。トローは中から魔法で援護しろ』
『りょ、了解!』
『了解した』
今度は二つの声が聞こえたことを確認して、オーデルトは鋭く町の方角を見据えた。【千影の怪鳥】は強敵であり、放置するわけにはいかない。放置するわけにはいかないのだが――
『セルデからオーデルトに報告、奥の方に【怒れる大猪】の存在を複数確認!』
『ちっ。そこはなんとかそっちで持ちこたえてくれ』
魔人“道化”がいる今、予備戦力を砦から吐き出すわけにはいかない。1人で確実に【千影の怪鳥】を葬れる人間はそう多くはない。『戦乙女』、『魔女』、『聖女』あたりが限界だ。『魔女』は協力してくれるか怪しいし、『聖女』は動かせない。『戦乙女』は砦の守りの最後の要としていてもらわなければ困る。
『……『魔女』殿。町を【千影の怪鳥】から守ってもらうことはできますか?』
『え? 嫌だよ、面倒くさい。あいつ魔法効きづらいし。それに、町はたぶん大丈夫だと思うよ?』
『……彼ですか』
『そーそー。流石に出てくるでしょ――元、勇者パーティの一員が、さ』
あっけらかんと笑う魔女の声を訊き、オーデルトの精神が落ち着く。確かに、町の冒険者の大部分が砦の冒険者よりレベルが落ちるとはいえ、市井にはまだ強者たちがいる。先日までの『無音』のフリートのように。宿屋の主人であるグルガンも、かつては名を知られた英雄である。
「仕方がないか……町はそちらに期待をして、僕は砦を守るとしよう」
オーデルトが視線を向けると、ちょうど魔獣の軍勢と第1遊撃隊が戦いを始める瞬間だった。