Ex.後日談 2
「――やれやれ、だな」
ため息を吐き、カップを傾ける。昔は透明なガラスなんていう高級品もあったが、今の人類は木製のカップを使うしかない。『地獄の時代』なんて呼ばれている、『不死』の魔王との戦いは終わったが――失われたものは大きい。これから生活を立て直していくなかで、人類は失った技術に気づくのだろう。
「フリートさん」
「……どうした、リクル?」
背後に立つ少女に、男はわずかにカップを揺らして答える。その口から洩れる吐息には、酒精の匂いが混じる。
「……これで、いいんでしょうか」
不安げに揺れるその双眸を見て、フリートは息を吐き出す。どうなのだろう。
「リクルは今、幸せか?」
問われた少女は、わずかに躊躇いながらも頷いた。その肯定を見て、男は「そうか」とだけ呟いて、カップに残った酒を飲み干す。
男の脳内にあるのは疑問だ。ただ思うのは、『この幸福は本物か?』という問いかけ。
「……リクル。君の望みを叶える。幸せになってくれ……そうすれば、俺は……俺も……」
視界が歪む。酒の飲み過ぎだ。久しぶりの酒精の強さに、体がついてきていないのだ。ぼんやりとした視界の中で、フリートはテーブルに手をついて自分の体を支えた。その手を、そっとリクルの手が包み込む。
「……フリートさん」
決意を秘めた声を聴き、フリートは遠のきそうになっていた意識を引き戻す。いくら酔っているとはいえ、少女の決意を聞き逃すわけにはいかない――
「私は、フリートさんのことが、好きです」
「……」
手を包んでいた温もりが、ゆっくりと移動する。
「優しくて戸惑ったような声も、揺らいで消えそうな瞳も、俯いて垂れさがった髪も」
腕を撫で、肘を過ぎ、肩に乗る。腕がそっと首に回され、フリートの体がこわばる。
「他人を警戒しすぎるところも、好きです」
2人が息を吐く。酒を飲んでいないはずのリクルの吐息も、――ひどく、熱い。
「だから、そばにいさせてください。ほかの人になんて言われても、私はフリートさんの傍がいいんです」
「……そんな」
「『そんな価値がある男じゃない』、なんて言わないでくださいよ? まさか……まだ自分が英雄じゃないと、思ってるんですか?」
英雄。そうだ、俺は英雄なんかじゃない……ただ、目の前のことに必死で。
「フリートさん。私はわがままなので、すごく図々しいお願いをします」
熱で潤んだ瞳で、フリートはリクルを見上げる。
「人類を、人間を、世界を救った大英雄。それがフリートさんです」
言葉を耳に入れたフリートは、喜ぶでも驚くでもなく、ただ委縮するように体を縮こまらせた。
(大英雄――そうだ。その言葉は重すぎる。俺が、背負えるようなものじゃない……)
フリートは、『不死』の呪いに苦しみながらも人類を見捨てなかった魔王とは違うのだ。
「重いでしょう。苦しいでしょう。フリートさんは、とても強いですけど、それは人としての強さです。だから、お願いです」
リクルは笑う。ささやかな悪戯を思いついたように。
「その英雄の力、私のために使ってください」
「……え?」
予想外の言葉に、フリートの意識が少しだけ覚醒する。
「私のために使ってください。人類とか、世界の命運とか、そんな重いものを背負わないでください。気まぐれで助けた、たった一人の女の子だけ守ってください。それだけです。それだけなら――なんとかなりそうな気がしませんか?」
「……」
瞳が揺れる。それだって難しそうな気がする。国も、仲間も、同僚も守れなかった男に、1人の少女の人生を守ることなんてできるだろうか――。
ああ、でも。世界を救ってくれ、とか。町を守ってくれ、とか。
そんな無理難題を言われるような、英雄になるよりは。たった一人の少女のために剣を持つ暗殺者が、一人くらいいてもいいだろう――
「――わかった。リクル、俺は君のために生きよう」
フリートの口から零れ落ちた言葉を、リクルは穏やかに微笑んで受け止めた。
† † † †
「……ああああああッ! 勢いでやってしまった!!」
リクルの嘆きが響く。酒を飲み過ぎたフリートに迫るように、言葉を言い募ったのだが、今思い起こせば明らかに妖しい雰囲気だった。自分で迫っておいてあれだが、襲われても文句は言えない――いや言わないけど――雰囲気だった。
「で、でも……あれはもはやプロポーズよね? いやでも、それはまだ早い……? そうよ、まだデートだって数回しかしてないし。まだ、こう、初々しい恋人気分を味わいたい……」
『何を悶えてるの? ところで、頭が滅茶苦茶ガンガンするんだけど、あの馬鹿、また潰れるまでお酒飲んだの?』
「うわっ。ネメリア……さん」
『ずいぶんな反応ね、リクルちゃん。で、昨日の夜何があったの? 私、何も覚えてないんだけど』
「えっ。ネメリアさんが覚えていないってことは……フリートさんも……?」
『当然、覚えてないわね。なに、なんか進展したの。貴方たち傍目に見ててもやもやするからとっととヤることヤんなさいよ』
「お母さんみたいなこと言わないでください……」
『私は言いたいことを言うわ。ちなみにあの馬鹿は、貴女のことまだ娘みたいなものだと思ってるからね。まだスタート地点にすら立ててないわよ』
「そんな……!?」
『私としては既成事実を作るところからやってみるといいと思うわ。前々から人間の繁殖行為に興味あったし』
「絶対後半が本音ですよね!?」
足音もさせずに現れたフリートにリクルが驚き、昨夜のことを尋ねられて慌て、ひらりと舞うネメリアの笑い声が響く。テテリが笑いながら朝ごはんができたことを告げれば、どこかから吹いた風が埃を運んでいく。
『地獄の時代』と呼ばれた時代は終わった。そして彼らは生きている。
生きている以上は、必ずそこに物語がある。一人一人の、未来と物語が。
――彼らの物語の終末は、まだまだ先である。